NASA(米国航空宇宙局)には驚異的な感度を誇る望遠鏡があるという。ジェームズ・ウェッブ宇宙望遠鏡というのだそうな。その望遠鏡の近赤外線カメラが撮影した画像に、世界中のみんながよく知っている記号にそっくりな星が写り込んでいたと話題になったのは20日ほど前だ。
(PHOTOGRAPH by NASA,ESA,CSA)
中央にあるクエスチョンマーク然とした星(のようなもの)がそれである。
今や巷のWeb界隈にはフェイク画像があふれ、よほど心してかからなければコロッと騙されてしまうことがあるが、これはれっきとした本物らしい。
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画像の中央で赤く光るクエスチョンマークは、銀河系のはるか外側、おそらく何十億光年も離れたところにあると、今回の観測の企画に参加した米宇宙望遠鏡科学研究所(StScI)の教育支援担当科学者クリストファー・ブリット氏は述べている。
ブリット氏の予想では、このクエスチョンマークの正体は合体する2つの銀河だという。
(NATIONAL GEOGRAPHIC『NASAが宇宙に浮かぶ謎の「?」マークを発見、正体は?天文学者も「とてもかわいい」』より)
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と、そこでぼくは思う。
200年前の日本人がそれを見たらどう感じただろうかと。
答えはひとつ。
それこそ「?」。不思議なカタチをしている、とは思うだろうが、それを疑問符だと認識することはない。
「?」という記号は、現代日本ではクエスチョン(クエッション)マーク、インテロゲーションマーク、はてなマークなどと呼ばれている。疑問をあらわし、疑問をあらわす対象のあとに置かれるのが習わしだ。今や、誰もがなんの疑問をもつこともなく使っているが、元々日本語にはなかった記号である。
その「?」を疑問符と認識できるかどうか、いやたとえそうでなくとも、最低限の認識として何か意味があるものとしてとらえるためには、それを見ている人のあいだに共通する認識が必要だ。そこに共通認識がないかぎりは、宇宙に偶然できた「?」をおもしろいものと感じることはできない。ましてやそれがニュースになるなど、とてもではないがあり得ないことである。
それをあり得るようにするために必要な共通認識が、「?」という記号が疑問をあらわすものだというものだ。共通認識をもつためには共通する言語が必要である。「?」を全世界共通の疑問符たらしめたのは、英語やスペイン語を代表とした欧米言語が、帝国主義華やかなりしころに半ば強制的に普及したことによるものだろう。
そのことの是非をここで問うつもりはない。肝心なのは、ぼくらが何の疑問もなくあたりまえに認識する記号を、200年前に日本列島に暮らしていた人の多くが、同様の意味で受け取ることができなかっただろうという理(ことわり)を心に留めておくことだ。
ぼくのあたりまえは先祖のあたりまえではない。同様に、ぼくのあたりまえは君のあたりまえではなく、君のあたりまえがぼくのあたりまえではないこともある。
それを前提におかない会話は、その出発から食い違いを生み出す要素をはらんでいる。そのことに対する理解とそれを解消する努力がないままであれば、その会話がいつまでもどこまでも平行線のまま終始したとしても、何ら不思議ではない。それなのに、それを理解せずに会話を繰り返す人は多い。もちろんぼくもその一人だ。
「ぼくと先祖」という関係はわかりやすいだろう。生きている時代がちがい過ぎるし、そのあいだにこの国に暮らす人々は、いくつものドラスティックな変化を経験してきた。両者のあたりまえが異なっているとして、ほとんどの人はそれを受け入れることができるにちがいない。だがそれを「ぼくと君」とすると様相が変わり、同じ時代、同じ社会、同じ組織に暮らしているという思い込みが、「ちがう」という理解を阻害する。
だがその「同じ」は、けっしてわかりあえるほどに「同じ」ではない。そういうことも多々あるのだという前提を心に留めおいていなければ、いつまでたってもどこまで行っても、ぼくの「?」と君の「?」は交わることがない。
と、ここまで思考がたどり着いたところで、
?????
疑問符がアタマのなかで踊った。
満天の星空に輝くクエスチョンマークの画像を見て、「不思議だ」とか「かわいい」とか「キレイだ」とかを感じることなく、一生懸命になってこんな理屈をこねくり回しているオヤジってどうなんだ???
どうもこうもありゃしない。
我考える故に我ありだ。疑わしいものはすべてを疑え。その果てにある疑えないものこそが真理、つまり、そんなふうに疑っている自分という存在だけは疑うことができない。
う~ん・・・・・・
この締めくくり、少々強引。我に返ってただ苦笑するばかりである。