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答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

見る ~ モネの庭から(その428)

2021年06月16日 | 北川村モネの庭マルモッタン

 

 

 

 

 

はて・・・

ここにこれほどたくさんの種類のアジサイがあったのだろうか。

首をかしげながら、あらたなハッケンに胸踊らせるわたしはしかし、この庭へ通いはじめて20年余りがくる。

しかも、「雨の庭はいい」「梅雨の庭はいい」「騙されたとおもって来てごらんなさい」と、誰彼となく広言してきもした(つまりここに書いてきた)人だ。

なのに・・・

たぶん

視線の先にはあったのだ。

視界には入っていたのだ。

だが、見ているようで見ていなかった。いや、見えているようで見えていなかったというべきか。

ひとことで「見る」といっても、その「見方」「見え方」は千差万別だし、「見た」というその結果が、はたして本当の意味で「見えている」のかどうか疑わしいこともままある。

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例えば、諸君が野原をあるいてゐて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それは菫(スミレ)の花だとわかる。何だ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのも止めるでせう。諸君は心の中でお喋りをしたのです。菫の花という言葉が、諸君の心のうちに這い入って来れば、諸君は、もう目を閉ぢるのです。それほど、黙って物を見るといふ事は難しいことです。

(『美を求める心』小林秀雄全集第九巻、新潮社)

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まこと「見る」はむずかしい。

アジサイの花の前でアタマをかきつつそう思った。

 

 

 

 


ばえる? 〜 モネの庭から(その427)

2021年06月13日 | 北川村モネの庭マルモッタン

アイスコーヒーとショートケーキを頼んだ妻の脇を

「オレ、なんもいらん」

通りすぎようとしたわたしの視線の隅に、「青空ソーダ」という文字とやけに夏っぽいグラスに入ったブルーの液体の画像が目に入ったのも一瞬だけ。それで心を動かされることはない。こういってはなんだが、わたしはジュースの類はめったに飲まない人だ。ケーキなどときた日には何をか言わんやである。

ひとりでテラスの席に腰をおろし、太平洋をながめていると、すぐに妻がやってきた。

 

「ホントになんにもいらんかった?」

「この景色でじゅうぶん」

そう答えると同時に、ある考えが思い浮かぶ。

カフェの方をふり返り、

「青空ソーダちょうだい」

 

ほどなくして運ばれてきたコーヒーとケーキ、そして青空ソーダを、ああでもないこうでもないとテーブルの上で並べ替える。

「これやな」

決めた構図にニンマリとして、ポケットから取りだしたのはiPhone。さっきまで睡蓮を撮っていたカメラではない。

「これはやっぱりiPhoneでしょ」

 

 

 

 

 

「ばえる」

ってこういうことか?

思いつきに気をよくして、またまたニンマリ。

おもむろにストローに口をつけると、柚子の香りが鼻腔をくすぐり、味が口いっぱいに広がった。

なるほど。

見かけはブルーだが中身は柚子ソーダ、という仕掛けである。

「やるじゃないか」

テラスの前にはユッカやオリーブが並んで植わっている。その下には瀬戸内の花崗岩が敷き詰められていて、彼方に見えるのは太平洋。

「おしゃれやのー」

古今東西、そういうやつに限って「おしゃれ」であったためしがないのだが、そんなことはおかまいなしに繰り返す。

 

「おしゃれやのー」

 


「水の庭」が「水の庭」であるために ~ モネの庭から(その426)

2021年05月13日 | 北川村モネの庭マルモッタン

 

 

 

 

しばし、太鼓橋の上から撮ったあと、石の小径から池の端にでると、ちょうど庭師たちの横だった。

ふたりのうちのひとりが言う。

「ずいぶん熱心に撮ってたけど、ボクらが写りこむんじゃないかと心配してたんです」

「ホンマや」

憎まれ口を叩くわたしはしかし、内心ではほくそ笑んで、こうつぶやいた。

「だいじょうぶ、だってアンタらを撮ってたんやもん」

 

そぼ降る雨のなか、黙々と作業をする青年たち。

ふだんは、「モネの庭をつくった男」などと、冗談半分本気半分でうそぶいてはいるが、庭のスタッフたちの日々の奮闘を見るたびに、自分がやった仕事など、「モネの庭」にとってはほんのささやかな役割でしかないことに思いが至る。

 

「水の庭」が「水の庭」であるために。

どうかこれからも、よろしくお願いいたします。

 

 

 

 


アークトチスグランディス ~ モネの庭から(その425)

2021年04月21日 | 北川村モネの庭マルモッタン

 

 

 

 

「この花なに?」

庭師にそう問うと

すぐに答えが返ってきた。

「アークトチスグランディス」

スマートフォンをとりだし、忘れぬようにとメモをする。

名前を聞いた理由は言うまでもない。

ひときわ際だっていたからだ。

なぜだろう?

どこにわたしは惹かれたのだろう?

考えてみた。

花弁の鮮やかな白と花芯の紫っぽいブルーに黄色の輪郭という色彩配置ゆえか。

かてて加えて、細長い花弁とまん丸い花芯という造形ゆえか。

どれもこれも、ありきたりの表現しか思い浮かばない。

さらに考えてみた。

うんうんとうなって考えていたら答えが浮かんだ。

 

きれいだから。

 

まるで小学生ぢゃないか。

自分自身にあきれつつ、妙に納得してしまった。

下手な考え休むに似たりか。

それでも、考えることはやめられない。

「我思う故に我あり」だ。

(そないたいそな)

 

 

 


自画自賛 ~ モネの庭から(その424)

2021年04月15日 | 北川村モネの庭マルモッタン

 

地元小学校の春の遠足に呼ばれて行ってきた。

子どもらを待つあいだ、昨春、自らが中心メンバーとしてつくったボルディゲラの庭から太平洋をのぞみ、しばし感慨にひたる。

 

 

 

以下、わたしと庭師の会話である。

 

「わし、思うがやけんど」

「なんですか?」

「この庭って」

「・・・」

「ええ庭やなぁ」

「なんですか?今さら」

「いや、今きづいた」

「・・・(笑)」

「あんた、たいしたもんやなー」

「いやいや、あなたもいっしょにつくったやないですか」

「うん、それを言わせたかった」

 

まったく、食えないオヤジだ。

 

 

 

 


春を寿ぐ 〜 モネの庭から(その423)

2021年04月12日 | 北川村モネの庭マルモッタン

 

時ならぬ満員御礼でにぎわう駐車場に驚きながら、先を行く孫と妻を追いかけ、「水の庭」へつづく2つめの階段を上がりかけたところで、彼女らが前方を見て立ち止まっているのを確認。なんだかにぎにぎしく華やいだ雰囲気だ。

なんだろう。

階段を登りきるとその正体がわかった。

(結婚式の)「前撮り」である。

モネの庭での「前撮り」に遭遇するのはこれがはじめてではない。

だが、これまでは、足を止めて見ることなどなかった。

それが、なにを思ったのだろう。

「どうぞ遠慮なしに通ってください」

と声をかけられたにもかかわらず

「見学させてください」

と返答し、しばらく立ち止まって見ていた。

すると、10年も前のできごとが思い浮かんだ。

 

「幸せにします」

そうわたしに宣言した青年に対し、わたしが返した言葉の要旨はこうだ。

幸せは、しようと思ってできるものではなく、なろうと思ってなれるものでもなく、結果としてそうであるとかあったとか、あるいは、結果としてそうでないとかなかったとか、そういう類のもの。しかもその結果というやつは、刹那刹那で変わっていき、形としてとどまるものではない。そういうものを、約束などするものではない。

思い返せばなんともはや・・・

たとえそれが真理だとしても、時と場所をわきまえて発言するのが大人というものであるとしたら、まったくもって大人失格である。

寅さんチックに言うと、「それを言っちゃぁおしめえよ」。

わたしにとっては笑い話だが、一大決心をしてのぞんだ場で、相手の親からそんな言葉を投げかけられた身になってみれば、笑い話ではすまない。今となっては、かわいそうなことをしたと反省している。

そんな昔話を思いだしながら、「前撮り」に付き従い前後をぞろぞろと歩く身内たちをながめ、今ならあの列に加わることができるだろうかと自問してみる。

「できるさきっと」

そう自答した。

あらあら、わたしとしたことが。

「水の庭」へつづくスロープを、アタマをかきかき、ふたたび歩いた。

 

 

 

 


チューリップ 喜びだけを持ってゐる(細見綾子) 〜 モネの庭から

2021年03月12日 | 北川村モネの庭マルモッタン

 

 

 

 

チューリップを見ると心が華やぐのはなぜだろう。

そしてわたしは、ただただ明るいだけのこの花がなぜ好きなのだろう。

「オレらしくないではないか」

こころの内で照れ、苦笑いしつつ、チューリップを撮っている。

そういった気分をうまく言い表している俳句があった。

 

チューリップ 喜びだけを持ってゐる(細見綾子)

 

作者自註にいわく

「春咲く花はみな明るいけれども、中でもチューリップは明るい。少しも陰影を伴わない。喜びだけを持っている。そういう姿である。人間世界では喜びは深い陰影を背負うことが多くて、谷間の稀れな日ざしのようなものだと私は考えているのだが、チューリップはちがう。曽て暗さを知らないものである。喜びそのもの、露わにもそうである。私はこの花が咲くと、胸襟を開く思いがする。わが陰影の中にチューリップの喜びが灯る」

こころの内に陰影があるからこそ、人は、いやわたしは、ただただ明るいチューリップに惹かれる(たぶん)。そしてそれは春だからこそ、でもある。春という時宜を得て咲くことで、チューリップは、よりいっそうチューリップとなり、わたしの思いも、春だからこそなおいっそう強くなる(たぶん)。

してみると、「チューリップ 喜びだけを持ってゐる」という句は、「わが陰影の中にチューリップの喜びが灯る」という自註とセットでなければならないということになるが、そこはそれ、隠しておかなければ野暮というものであろう。

いずれにしても、「オレはなぜこの花が好きなのだろう」という疑問への答えが見つかった。次からは、苦笑いも照れもなく、「喜びだけ」をもってのぞめそうだ。

 


ピントはずれ 〜 モネの庭から(その421)

2021年03月08日 | 北川村モネの庭マルモッタン

孫と娘とモネの庭。

夢中になってチューリップを撮っていたら、

「○○〜、おじいちゃんが写真を撮ってくれるって」

娘が孫に声をかけた。

ふたり仲よくすわったのは、つい今しがた撮ろうとしたばかりのチューリップの向こうだった。

カメラをかまえたわたしに向かい、満面の笑みを浮かべる親子。

 

パチリ。

 

娘よ、すまない。

ついついチューリップにピントを合わせてしまった父を、どうか許しておくれ。

 

 

 

 


ともあれ春 〜 モネの庭から(その420)

2021年03月01日 | 北川村モネの庭マルモッタン

 

花を撮るのはいったいいつ以来だろう。

なんだか感覚がつかめず、どんなふうに撮ったらよいのかを思案する自分がもどかしい。

こんな感じはこれまでになかった。

しょうがないではないか。花のひとつ一つがこちらに訴えてこないのだのもの。などと、ついつい被写体のせいにしてしまう自分がおかしい。

花は咲く。人間の感情など斟酌することはなく花は咲く。咲いた花がどうであるかは、それを見た人それぞれが湧きあがる感情にもとづいて付与するものだ。

だとしたら、その原因はあきらかに、こちらの感受性が不足しているゆえである。

なんて、小難しいことを考えて、なんだかなぁと首をかしげつつ花を撮る。

モネの庭の春は早咲きのチューリップから。

ともあれ春

なのである。

 

 

 


はじまる 〜 モネの庭から(その419)

2021年02月28日 | 北川村モネの庭マルモッタン

 

気がつけば2月も終わる。

3月になれば・・・

これまた気がついてみたら、もうすぐ「モネの庭」のオープンだった。

今年はあいにく庭に関連する仕事がまったくなかった。

かてて加えて、恒例のイベントもない。

ということは、太鼓演奏者としての出番もない。

またまた気がついてみれば、2021年に入って一度も庭へ行ってない。

そんなこんなで、いつもとは様相がちがう2月末だが、気づいてしまったのだもの、行くのだ、行かねばならないと、開園2日前で忙しく立ちはたらく庭のスタッフ一人ひとりに「ごぶさたしております」と声をかけ、そのたびに立ち止まって話をしつつ丘を上がる。

なんともはや悠長なものだ。

 

 

 

 

 

 

春と呼ぶには少々肌寒い。

しかし、いったんファインダーをのぞけば、ふり注ぐ陽光と熱帯の植物が、薫風かおる季節の地中海沿岸を思わせる(その時季に、しかも一度きりしか行ったことがないから、結局それしか知らないんですけど)。

いやいやここは、まちがいなく日本だ。高知だ。北川村だ。

いいなあ。

しばし、のんびりとした気分にひたり、シャッターを押す、また押す。

お、いいじゃないか。

ふと見つけたアングルは、もちろん初見ではないのだけれど、なぜだか今初めて発見したかのような新鮮さでわたしの心に訴えてきた。

 

 

 

 

 

どうよこれ。

自慢げに見直す一枚一枚にすべて写り込む指ひとつ。

嗚呼・・・

あいかわらずの詰めの甘さが、とても切ない。

ま、よい。

これもまた愛嬌と思おうではないか。

 

わたしのモネの庭2021シーズン。

そんなこんなで、はじまりはじまり。