はて・・・
ここにこれほどたくさんの種類のアジサイがあったのだろうか。
首をかしげながら、あらたなハッケンに胸踊らせるわたしはしかし、この庭へ通いはじめて20年余りがくる。
しかも、「雨の庭はいい」「梅雨の庭はいい」「騙されたとおもって来てごらんなさい」と、誰彼となく広言してきもした(つまりここに書いてきた)人だ。
なのに・・・
たぶん
視線の先にはあったのだ。
視界には入っていたのだ。
だが、見ているようで見ていなかった。いや、見えているようで見えていなかったというべきか。
ひとことで「見る」といっても、その「見方」「見え方」は千差万別だし、「見た」というその結果が、はたして本当の意味で「見えている」のかどうか疑わしいこともままある。
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例えば、諸君が野原をあるいてゐて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それは菫(スミレ)の花だとわかる。何だ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのも止めるでせう。諸君は心の中でお喋りをしたのです。菫の花という言葉が、諸君の心のうちに這い入って来れば、諸君は、もう目を閉ぢるのです。それほど、黙って物を見るといふ事は難しいことです。
(『美を求める心』小林秀雄全集第九巻、新潮社)
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まこと「見る」はむずかしい。
アジサイの花の前でアタマをかきつつそう思った。