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答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

夕暮れまぢかの 〜 モネの庭から(その438)

2021年09月20日 | 北川村モネの庭マルモッタン

 

睡蓮は10時から11時ぐらいが見ごろ。

庭を訪れる知人たちにも、できればその時間帯に来るよう勧めている。

とはいえそれは、あくまでも一般解であって、必ずしもそうとは限らない。

一日の作業が終わるころ、当日の進捗具合を確認するために、庭をひとまわり。それはもう役得以外の何ものでもないのだが、さすがに主客転倒になることだけは避けようと、現場の周辺、つまり(旧)光の庭、しかも池の端だけをぐるりとまわったこの日。閉じかけた青い睡蓮に目が惹かれた。

 

 

 

 

鼻で大きく息を吸いこみ、ほう、こんなところがあったのだと少しおどろく。

花が大きくひらいた真昼間だとこうはいかない。

 

睡蓮は10時から11時ぐらいが見ごろ。

庭を訪れる知人たちにも、できればその時間帯に来るよう勧めている。

とはいえそれは、あくまでも一般解。

必ずしもそうとは限らない。

すべからく、心の内から思い込みと決めつけを排除すること。

そんなことを思いつつ、小さな葉っぱとプリティーフラワーのバランスをたのしんだ。

 

 

 


バンブルビーツイスト ~ モネの庭から(その437)

2021年09月14日 | 北川村モネの庭マルモッタン

 

赤いレコードがあったのをご存知だろうか。

漫画本の付録についていたソノシートではなく、本物のレコードだ。

わたしはひとつ持っていた。

(というか今でも納屋にはあるはずだ)

リバティレコードから出たベンチャーズ・イン・ジャパン。来日公園のライブ録音盤だ。

 

こんなの ↓↓(ヤフオクに出品されていたものの画像を拝借)

 

中学生のとき、同級生から中古で買った。

たしか、兄さんが所有していたものだったはずだ。買った金が兄上に渡ったか、あいつの懐に入ったか、そこのところはわからない。わたしにとってたしかなことは、そのレコードが愛聴盤になり、擦り切れるほど聴いたという事実である。

50年の歳月を経た今となっても、どのような曲が収められていたか、ありありと思い起こすことができるそのなかに、バンブルビーツイストがある。

 

 

バンブルビー・ツイスト/ベンチャーズ

 

 

このLPではバンブルビーツイストと原題がそのままついているが、当時邦訳されたタイトルは『熊蜂の飛行』。バンブルビーとはマルハナバチのことで、熊蜂ではない。たぶん、当時の日本には馴染みのないマルハナバチという名前よりも熊蜂のほうが馴染みやすいので、「熊蜂の飛行」となったのではないだろうか。

その影響であることはまちがいない。フジの花が咲くころ、熊蜂が花のまわりで戯れているのを見ると、例外なくバンブルビーツイストが脳内に流れる。

フジの花咲く季節から遠く過ぎたきのう、突如それが流れた。

池に咲く青い睡蓮と一匹の熊蜂。

はじめてである。

エレキギターの響きを聴きながら、何度もシャッターを押した。

 

 

 

 

青い睡蓮と熊蜂、BGMはバンブルビーツイスト。

似合う。

 

 


小さな白い睡蓮 ~ モネの庭から(その436)

2021年09月13日 | 北川村モネの庭マルモッタン

 

1週間ほどモネの庭で仕事をさせてもらうことになった。

となると、下見に行かなければならない。

なにをさておいても行かなければならない。

とるものもとりあえず行かなければならない。

仕事である。

しょうがない。

 

8月の長雨がもたらした影響で、睡蓮の開花数がめっきり減っているとは聞いていた。

それが100輪ほどにまで回復したとも。

そろそろである。

いやいや、そう思ったから行ったのではない。

仕事である。

しょうがない。

 

池に行くと、咲いているのはほとんどが熱帯性睡蓮だった。

なんといってもこの庭の最大のウリである。わるくはない。

しかし、この日はなぜだか妙に興をそそられなかった。

そんななか、太鼓橋の真正面にある池の最奥部までまわっていくと、お気に入りのビュースポットでわたしを待ちかまえていたのは、4つの小さな白い睡蓮。温帯性だ。

 

 

 

 

 

 

この安堵感。

心が溶けていくような感じと心が洗われるような感じがないまぜになって押しよせてきた。

 

なにもかにもないのである。

 

 

 


情熱大陸? ~ モネの庭から(その435)

2021年08月11日 | 北川村モネの庭マルモッタン

 

 

 

某月某日の夕方、依頼されていたある見積りを持参して、庭師シェフであるムッシュ・シュヴァリエ・川上を訪ねた。

電話を入れて確認すると「花の庭」にいるという。

閉園時間が過ぎ、お客さんの姿がなくなった庭では数名の庭師が手入れにいそしんでいた。

目的のヒゲさんはというと・・・いたいた。

会うなり庭の状態について皮肉をひとつ。内容はとてもここでは言えない。

「モネの庭」についての悪口は基本的に書かないのをモットーとしているわたしだが、そこはそれ、言いたいことのひとつやふたつや3つや4つ、いつもいつでも持っている。

だが、悪口や雑言は本人に直接言うべし。それがここでのわたしのルールである。

ところが・・

ふと気がつけばそこに人がいたのである。

しかもその人というのが、大ぶりのカメラを手に持ち、いつでも撮れるぞとばかりにスタンバイしている。想像するところ、どこぞの職業カメラマンのようだ。

ヒゲさん、すぐさまわたしを紹介する。

ところが、わたしにはその人の氏素性を紹介してくれない。

ま、よい。となれば、あえて自分から聞く必要もなかろうと、どこの誰かはわからないまま、テキトーな話を繰り広げた。ホラと言ってもいいような内容だ。

ひとしきりわたしのしゃべりが終わると、笑っていたヒゲさんが、おもむろにカメラマン氏がそこにいる理由を明かす。

「彼、『情熱大陸』の取材にきてるんです」

「えーーーー (*_*)」

あらあらどうしましょ、わたしとしたことが。思わず大声がでてしまった。

「それって・・」

氏の道具を指差す。

「もしかして今、撮ってるんですか?」

「ハイ」

あかるく答えるカメラマン。

「えーーーーーー」

今度はわざとらしく大声をあげるわたし。

そういえば・・

どう見ても一眼レフカメラにしか見えないが、上部についたマイクが、なんだか怪しいとは思っていたが、まさか撮影中だとは。

たしかに、今日びのカメラには高精度の動画が撮れる機種がいくらでもある。テレビ撮影のハンディカメラとして使用しても、なんら差しつかえがないのかもしれない。

「そうか、撮りよったか」

そうと知ったとたんに、なぜだか急に土佐弁になったわたし(そのへん、サービス精神は旺盛だ)は、先ほどのホラ話に若干の恥ずかしさを覚えながら、調子に乗ってつづけた。

「いや、この人にはおもしろいエピソードがいっぱいあるきんねえ」

目を輝かせるカメラマン。

「聞きたいかよ?」

「ハイ!」

「じゃあとりあえずひとつだけぜよ」

ゴホン・・・

調子に乗ってそのあともべらべらとしゃべりつづける辺境の土木屋63歳と7ヶ月。

よもやその映像が使われることは、万に一つの可能性もないだろう。

ああそれなのにそれなのに。

テレビ(しかもあの「情熱大陸」だ)、と聞くと舞いあがり、ついついテンションアップしてしまう昭和者まるだしの所業が、あとになって考えるとまことにもって恥ずかしい。

あゝ、バカは死ななきゃなおらない。

いや、たぶん死んでもなおらない。

 

以上、某月某日モネの庭にて。

 


9割のガッカリと1割のバッチリのはざまで 〜 モネの庭から(その434)

2021年08月05日 | 北川村モネの庭マルモッタン

 

モネの庭へ、写真を撮るという明確な意思を持って通いはじめてからどれぐらいになるだろう。このブログをはじめてからであることはまちがいない。

ということは、13年にはなっているという計算だ。

長くかよっていたら、撮る睡蓮のパターンもある程度おなじになってきたりする。

なんだかなあと思いを抱きつつ、それはそれで、好みというものが色濃く反映してしまうこともあり、仕方がないことだと、自分で自分に言い聞かせてはいる。

たとえばこんなふうに。

 

 

 

 

 

それとは逆に、そうであるばかりでは能がないと、ない技巧を弄したりすることもある。

たとえばこんなふうに。

 

 

 

 

 

それもこれも含めてが、わたしの「モネの庭がよい」なのではあるが、やはりそこはそれ、思いもかけなかった風景や花に会うと心がおどる。

たとえばこんなふうに。

 

 

 

 

 

そうなると、「撮る」に込める想いがちがってきたりするから、あいかわらず気分屋ではある。

とはいえ、それやこれやの結果としての「写真」が、当の本人の意図や想いや感情をそのまま反映したものになるかというと、ほとんどの場合、そうはならず、9割のガッカリと1割のバッチリのあいだを行き来しつつ撮っている。

 

「花を撮る」

かつてのわたしからは想像もできない行為だ。

「だからこそいいんぢゃないか」

別のわたしにそう声をかけられ「うん」とうなずく。

 

 

 


ブルービー ~ モネの庭から(その433)

2021年08月02日 | 北川村モネの庭マルモッタン

 

ブルービーが出没しているという看板を見かけ、ふだんはめったに行くことがない「花の庭」へと足を向ける。

女郎花(おみなえし)が咲くスポットへ着くと、2つ3つが飛び回っていた。撮られるハチよりも撮る人の数が多いのに苦笑いしつつ参戦する。

ハチはむずかしい。

トンボも同様だ。

多分にそれは、わたしのせっかちな撮影スタイルによるところが大きいのだろう。

ひとところにじっくり構えてシャッターチャンスを待つぐらいのゆとりがなければ、動き回る虫は撮れない(たぶん)。

それはそれとして、たまにはバチッと撮りたいものだという思いが、めずらしく湧いていたのは、シャッタースピード優先モードで撮影してみたらどうだろうか、という案がアタマに浮かんでいたからだ。

さっそく実行。

 

 

 

 

 

 

 

 

これまでよりはずいぶんマシだが、やはりハズレが多い。

と、まわりでバシャバシャ撮っている御婦人方に神経が向いた。

なるほどケータイか。そうスマホである。

とり急ぎポケットから取りだしたiPhoneで試してみた。

 

 

 

 

 

ふむふむ、ハマったときの仕上がりはともかく、シャッターチャンスへの対応力は断然スマホの方がすぐれているようだ。

などと、おのれのウデのなさは棚に上げ、道具のうんぬんに考えを至らせていると、また、くだんの御婦人方が目に入る。

ん?

それはハチだぞ?

そんなに接近して怖くないのか?

そういえば・・・

我とわが身をふりかえってみる。

不思議だ。

ごくごく小さいとはいえ、そして色が青いとはいえ、相手はハチである。

なのに、わたしもまた、なんの恐怖心も警戒心も抱かず、この「幸せを呼ぶ青い蜂」に接近している。

ふと、思いだしたことひとつ。

擬態である。

たしか、ハチに擬態して自分を「強く」見せかけている昆虫がいたはずだ。

さっそく調べてみた。

擬態。一般的には、周囲の環境や他の生物に似せることをいう。代表的な種類としては、標識的擬態、隠蔽的擬態、化学的擬態。そのうち、捕食者を警戒させるのが目的で周囲から目立つようにするのが「標識的擬態」である。そのなかでもいくつかあり、「ベーツ型」というのが、防御を持たないものが毒などの武器を持つものに似せる擬態、いわば「虎の威を借る狐」スタイルだという。ハチに見せかけている昆虫がこれだ。

人間もまた、あの「黄色と黒」に対して恐怖を刷り込まれているのだろう。だからおなじハチでも「青と黒」のそれには恐怖心も警戒心も抱かない。

では、ブルービーにとってこの様態は、どのような利点があるのだろうか。

と、そこまで至ったところで思索をシャットダウン。

くだんのご婦人方は、まだ撮りつづけている。

「まったく飽きないのかね」

ココロのなかでつぶやいてみるが、わたしもまた同類である。

炎天下、たかが青い蜂の数匹に夢中になるおじさんとおばさん。

それもまたよし夏日和。

 

 

 


視る、判断する、撮る 〜 モネの庭から(その431)

2021年07月05日 | 北川村モネの庭マルモッタン

 

睡蓮を撮るのはむずかしい。

そこに現実としてある花や池のほうが、カメラに収められたそれよりも数段よいからだ。

原因ははっきりとしている。

ウデが不足しているのである。

そうとしか言いようがない。

とはいえ、それを解消するための「何か」を行うほどの向上心を持ち合わせているわけではない。

いつになっても幾つになっても、出たとこ勝負の感性勝負。

それで、上手く撮れただの撮れなかっただのと一喜一憂しているのだから、それほどの上達が望めるはずはない。

 

なかでも「赤」は、ことさらむずかしい。

「よく撮れた」と思えるのが一割ほどあるだろうか。

いやまちがいなくそれほどにもならないはずだ。

だからなおさら、上手く撮れたと思える瞬間がたまらない。

あとになって見返してみると、それほどでもなかったというのがほとんどではあるが、その「やったー」とその「がっかり」の繰り返しもまた、「撮る」という行為のたのしみにはちがいない。

な~んてことを考えながら写真を選ぶ。

ということで本日のワンショット。

 

 

 

 

 

対象を「視る(観察する)」

こう撮ればどうかと「判断する(仮説を立てる)」

「撮る(実行する)」

これがピタッとはまったときは快哉を叫びたくなる。

「土木の現場」と同じである。

どこを喜びとするかは人それぞれだろうが、わたしはそういう部分を「良し」とし、自らの励みとする。

「ささやかな成功体験」

それを感じ取れるかどうか。

そのうえで、それを次なるステップアップのための糧とできるかどうか。

人が成長するうえで重要な鍵である。

そうであるかどうかは人それぞれだろうが、わたしはそうしてきた。

もう伸び代はほとんどないにせよ、これからもそうだろう(たぶん)。

 

 


2021年夏 〜 モネの庭から(その430)

2021年07月04日 | 北川村モネの庭マルモッタン

 

「青い花」が池で咲いているのを見ると、わたしの夏がはじまる。

 

 

もちろんそれは

「ような気がする」

という気持ちの問題にすぎないが、

「ような気がする」

という気持ちの問題をあだやおろそかにしてはならない。

 

モネの庭から2021年夏。

青い睡蓮が咲いた。


雨あれば雨を聴く ~ モネの庭から(その429)

2021年06月17日 | 北川村モネの庭マルモッタン

 

はや木曜日。

おおよそひと月ぶりにモネの庭へと足を向けた日曜が、なんだか遠い日のような気がする。

さほど忙しいわけでもないが、あれよあれよというまに時が過ぎていく。そういうときがあるものだ。

 

 

 

 

 

 

ドカタ殺すにゃ刃物はいらぬ

雨の三日も降ればよい

 

梅雨が好きだ。

などと言おうものなら、同業者から総スカンを食ってしまいそうなぐらい、土木屋にとって雨は天敵だといってもよい存在である。

しとしとと小雨そぼ降る水鏡を見ながら、うっとりとしているわたしなぞは、さしずめ風上にも置けぬ輩といったところだろう。

いや、梅雨がよいのではなく、梅雨時季の「水の庭」がよいのだ。

わかりきったことを独りごちながら、空と写真とを交互にながめる辺境の土木屋63歳。

 

山あれば山を観る

 雨の日は雨を聴く

 春夏秋冬

 あしたもよろし

 ゆふべもよろし

(『草木塔』「山行水行」種田山頭火)

 

この境地にはほど遠い。