入間カイのアントロポゾフィー研究所

シュタイナーの基本的な考え方を伝えたいという思いから、日々の翻訳・研究作業の中で感じたことを書いていきます。

アントロポゾフィー指導原理 (1)

2007-08-18 01:59:31 | 霊学って?
このアントロポゾフィー研究所のブログでは、試みに、
シュタイナーが晩年、アントロポゾフィー協会の会員たちのために毎週つづった
「アントロポゾフィー指導原理」を一つずつ、
僕自身の理解とともに取り上げていこうと思います。

アントロポゾフィー指導原理
―思想発展の指針として、ゲーテアヌムより―

1. アントロポゾフィーは、一つの「認識の道」である。
この「道」は、人間本質における霊性を、宇宙における霊性へ導こうとする道である。
アントロポゾフィーは、人間のなかに、心の欲求、感情の欲求として現れる。
こうした欲求に応えられることが、アントロポゾフィーの正当性の証明でなければならない。
アントロポゾフィーを認めることができるのは、
自分の心情のゆえに、やむにやまれず追い求めてきたものを
アントロポゾフィーのなかに見出す人だけである。
したがって、アントロポゾーフ(人智学徒)になりうるのは、
人間本質と宇宙について問うことが、ちょうど飢えや渇きの感覚と同じように、
生きるために必要なことと感じられる人々だけなのである。(訳・入間カイ)

1. Anthroposophie ist ein Erkenntnisweg,
der das Geistige im Menschenwesen zum Geistigen im Weltenall führen möchte.
Sie tritt im Menschen als Herzens- und Gefühls-bedürfnis auf.
Sie muß ihre Rechtfertigung dadurch finden,
daß sie diesem Bdürfnisse Befriedigung gewähren kann.
Anerkennen kann Anthroposophie nur derjenige,
der in ihr findet, was er aus seinem Gemüte heraus suchen muß.
Anthroposophen können daher nur Menschen sein,
die gewisse Fragen über das Wesen des Menschen und die Welt
so als Lebensnotwendigkeit empfinden,
wie man Hunger und Durst empfindet.
(Rudolf Steiner)


認識の道
シュタイナーは、
「アントロポゾフィーとは一つの認識の道である」
ということばで、この指導原理を始めています。

アントロポゾフィーについて、シュタイナーはいくつかの定義をしていますが、
これから読者が辿っていく指導原理の過程に関しては、まず出発点に、
それが「認識の道」であることを確認する必要があるのです。

このアントロポゾフィーという認識の道は、
「人間本質における霊性を宇宙における霊性へ導こうする道である」
とされています。
これはどういう意味でしょうか?

まず「人間本質」ということばが、難解に感じられます。
なぜ単に「人間」と言わないのでしょうか? 

次に、「霊性」ということばも、きわめて理解することが困難です。
霊性とは何なのでしょうか?

そして、「人間における霊性」と言った場合と、
「人間本質における霊性」と言った場合の違いは何でしょうか?

本質
ドイツ語では、「本質」はdas Wesen。
ものごとの本質や、実質を指すことばです。
Das Menschenwesenというときは、
「人間なるものの本質や実質」というような意味になります。

単に「人間」と言わず、「人間本質」という理由は、おそらく、
ここでは一人ひとりの個人としての人間ではなく、
「人間一般」もしくは「すべての人間に共通のこと」を指しているからです。

人間であれば、誰でも持っている「霊性」。
そのような「人間の本質をなす霊性」について語っているのです。

霊性
それでは、「霊性」とは何でしょうか?
「霊性」は、ドイツ語ではdas Geistigeという形容詞を名詞化したものです。
「霊的なもの」というのが直訳です。
ただ、日本語で「霊的なもの」というと、
どこかふわふわした、捉えどころのないものや、
抽象的なもの、実質のないもののように感じられてしまいます。

しかし、ここでいう霊性は、人間の本質や実質をなすもの、
つまりきわめて具体的なものなのです。

ここでいう「霊性」は、
「認識」や「考えること」に関わるものであることは確かです。
なぜなら、「アントロポゾフィーは一つの認識の道」であると言っているからです。

認識によって、人間の霊性は、宇宙の霊性とつながるのです。

霊性と思考
人間の霊性の一番はっきりした現われは、思考活動(考えること)です。
そして、宇宙にはさまざまな法則(自然法則)があります。

法則それ自体は目には見えません。
人間の思考だけが、法則を捉えることができます。

人間が考えることで、自然法則を理解すること、
それだけでも「人間の霊性を宇宙の霊性へ導く」ことになるのです。

しかし、宇宙には、そして人間自身のなかには、
自然法則だけではなく、それ以外の次元の法則があります。
そのことをアントロポゾフィーは明らかにしていくのであり、
それはこの先の指導原理のなかでさらに語られていきます。

心=感情の欲求
次に、
「アントロポゾフィーは、人間のなかに、心の欲求、感情の欲求として現れる」
ということばが続きます。

「認識の道」であるアントロポゾフィーは、
すべての人間の自然な欲求として現れる、というのです。

ここに、先の「人間なるものの本質」という
「人間一般」とのつながりが見えてきます。

人間であれば誰でも「霊性」を持っており、
それは本来、一人ひとりの個人の「心の欲求」として、
「感情の欲求」として現れるはずだ、
ということです。

「霊性」は、すべての人が普遍的にもっているものです。
それに対して、「心の欲求」や「感情の欲求」は、きわめて個人的なものです。

「個」の次元と「普遍」の次元
ここには、すべての人間に共通する普遍的なものとしての霊性と、
一人ひとりの個人が別様にもっている感情や心のありよう
という二つの次元が出てきます。

アントロポゾフィーは、
人間における霊性(普遍性)と、
宇宙における霊性(普遍性)をつなぐ認識の道だけれど、
その出発点は、一人ひとりの個別の心の欲求なのです。

「心の欲求に応えるもの」としてのアントロポゾフィー
「こうした欲求に応えられることが、
アントロポゾフィーの正当性の証明でなければならない。
アントロポゾフィーを認めることができるのは、自分の心情のゆえに、
やむにやまれず追い求めてきたものを
アントロポゾフィーのなかに見出す人だけである。」

この一文は、非常に重要だと思います。
つまり、アントロポゾフィーの正当性は、
学術的な証明によってではなく、
一人ひとりの「心の欲求」が満たされるかどうかだ、
とシュタイナーは言っているのです。

本来、アントロポゾフィーは「霊学」として、
きわめて厳密で、論理的なものです。
だからこそ、アントロポゾフィーは「認識の道」であるわけです。
けれども、その正当性は、論理的な証明によってではなく、
一人ひとりの心の欲求の満足によってもたらされる。

もしくは、本当の「認識」こそが、
一人ひとりの「心の欲求」を満たすことができる、とも言えるでしょう。

情緒的な同情の表現や、
根拠のない神秘的な話で煙に巻くことでは、
実は一人ひとりの「心の欲求」は満たされない、ということでもあります。

「生きるために必要なもの」としてのアントロポゾフィー
したがって、「アントロポゾーフ」(アントロポゾフィーの道を歩む者)とは、
人間本質や宇宙について、単なる知的好奇心であれこれ考える人ではなく、
それを問うこと、考えることが、
飢えや渇きといった「生命感覚」に直結している人なのです。

人間とは何か、宇宙とは何かといったことを
考えずには生きていけない人、
それがアントロポゾーフであり、
実はそういった認識はすべての人間にとって
「生きるために必要なこと」であるはずだ、
とシュタイナーは示唆しているわけです。

プロコフィエフさんが話してくれたこと
このことは、以前、
ロシア人のアントロポゾーフである
セルゲイ・プロコフィエフさん(現在、ゲーテアヌム理事のひとり)が
話してくれたことを想起させます。

ベルリンの壁が崩れる前、旧ソ連の社会では、
アントロポゾフィーは禁止されており、
アントロポゾフィーを地下運動のようにして研究することは、
自分だけではなく、家族や親戚にも危険をもたらすことでした。
プロコフィエフさんたちは、何度も自分の良心に問いかけ、
「自分には、アントロポゾフィーを学ぶことで、
自分以外の人たちを危険な目に遭わす権利があるのか?」
と問いかけたそうです。

最終的に、彼らが出した答えは、
「自分たちにとって、アントロポゾフィーは、
呼吸するために必要な空気のようなものだ。
生きていくために、アントロポゾフィーはどうしても必要だ」
ということでした。

そこまで思い定めたとき、プロコフィエフさんは、
アントロポゾフィーを学び続ける決意をすることができたといいます。

そして、ベルリンの壁が崩れ、初めて西側を訪ねたとき、
西側のアントロポゾーフの多くにとって、
アントロポゾフィーがまるで「贅沢な楽しみ」のようなものであることを知って、
大きなショックを受けたといいます。
旧ソ連のアントロポゾーフにとって、
アントロポゾフィーはきわめて「実存的」なものでした。

そして、シュタイナーが見ていたアントロポゾフィーとは、
実は、まさにそのような「生きるために必要なもの」だったのです。