虚人の墓地
「思い込んだら」を
「重いコンダラー」と
思い込んだら
重いコンダラーを
虚人の墓地に至るまで
引け 引け
ヒューマン
どんと引け
(終)
虚人の墓地
「思い込んだら」を
「重いコンダラー」と
思い込んだら
重いコンダラーを
虚人の墓地に至るまで
引け 引け
ヒューマン
どんと引け
(終)
夏目漱石を読むという虚栄
4000 『吾輩は猫である』から『三四郎』の前まで
4400 『二百十日』など
4410 会話の基本
4411 『ボッコちゃん』
思考とは、もう一人の自分との会話のことだ。会話のできない人は、思考もできない。語句を並べて思考したつもりになるだけだ。
会話の基本は、〈聞かれたことに対して機械的に答える〉というものだ。
<「名前は」
「ボッコちゃん」
「としは」
「まだ若いのよ」
「いくつなんだい」
「まだ若いのよ」
「だからさ……」
「まだ若いのよ」
この店のお客は上品なのが多いので、だれも、これ以上は聞かなかった。
(星新一『ボッコちゃん』)>
「上品なの」ではないのと会話をするのは、危険だ。
<「ぼくを好きかい」
「あなたが好きだわ」
「こんど映画へでも行こう」
「映画へでも行きましょうか」
「いつにしよう」
答えられない時には信号が伝わって、マスターがとんでくる。
(星新一『ボッコちゃん』)>
「マスター」のような調整役を〈M〉と書く。Mを頭の中に呼べる人は冷静だ。
「奥さんは心得のある人」(下十三)という報告が真実なら、静の母はMでありえた。
<「殺してやろうか」
「殺してちょうだい」
彼はポケットから薬の包みを出して、グラスに入れ、ボッコちゃんの前に押しやった。
「飲むかい」
「飲むわ」
(星新一『ボッコちゃん』)>
M抜きで問答をするのは命がけだ。だから、卑怯な人は、一方的に語ること、書くことに逃避する。語ること、書くことは、賢さの証明にはならない。全然。
4000 『吾輩は猫である』から『三四郎』の前まで
4400 『二百十日』など
4410 会話の基本
4412 「私を愛してくれるものと」
公正な司会者Mが不在のとき、Dとの問答は危険を伴う。
<ハムレ さあ、この剣にかけて、さあ。
亡 霊 〔地下から〕 誓え!
(ウィリアム・シェイクスピア『ハムレット』第一幕第五場)>
父の「亡霊」はハムレットのDと解釈できる。
ハムレットにはMがいなかった。だから、彼は悲劇的な最期を遂げることになる。
<リンダ こうするしか、しようがないんでしょうね。
ウィリー そうさ、一番いいことさ。
ベン 一番いいことだ!
ウィリー それしかないのさ。これで万事――さあ、おやすみ。疲れた顔をしているよ。
リンダ すぐいらしてね。
(アーサー・ミラー『セールスマンの死』)>
ベンは実在した。だが、このベンはウィリーのDだ。ベンの亡霊ではない。だから、この場面のベンは、リンダには見えていない。勿論、声も聞こえていない。
ベンに相当するのが、Sの場合、「一種の魔物」(下三十七)だ。本当の「魔物」なら、ハムレットの父の亡霊と同格になる。
Sは、自分の両親の亡霊のようなものを空想する。これが「黒い影」などになる。Sがこれらに負けるのは、Mのようなキャラクターを作り出すことができなかったからだ。
<私は突然死んだ父や母が、鈍い私の眼を洗って、急に世の中が判然(はっきり)見えるようにしてくれたのではないかと疑いました。私は父や母がこの世に居なくなった後でも、居た時と同じように私を愛してくれるものと、何処(どこ)か心の奥で信じていたのです。
(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」七)>
「突然死んだ」というのは、おかしい。突然死ではない。「突然」は「疑いました」に係るのか。だったら、これは不図系の言葉だ。別種の物語への飛躍の露呈だ。
〈父母の霊魂はSを守護した〉いう具体的な物語は、皆無だ。
「居た時と同じように」は「愛してくれる」に係るだけでなく、「信じていた」にも係る。両親の生死に関わらず、Sには〈「父や母が」「私を愛してくれ」ている〉という実感、つまり被愛感情を抱いたことがなかったのだろう。「父や母が、この世に居なくなった後」だから被愛妄想的気分に浸ることが楽になったわけだ。「何処(どこ)か心の奥で信じて」には、〈頭では全然違うことを考えて〉という含意がある。
Sの自己欺瞞の見事さを、Pは讃嘆するのだろう。読者も同様。
4000 『吾輩は猫である』から『三四郎』の前まで
4400 『二百十日』など
4410 会話の基本
4413 イヤミの同類
Dは誰にでもいるはずだ。私にはいる。
<デモンはソクラテスの意志をある一瞬に停止させ、なすべきことを告げるよりもむしろ、しようとしていたことをやめさせるのです。直観は、ソクラテスのデモンが実践上で行なうのと同じことを、思索の面でしばしば行なうように思われます。少なくとも同じ形で直観は始まり、また直観が最もはっきりした現われ方をするのも同じ形によってです。すなわち直観は制止するものです。広く受け入れられてきた見解、明白と思われてきた主張、科学的として通ってきた命題、これらを前にして直観は、とんでもない、不可能だ、との言葉を哲学者の耳にささやくのです。
(アンリ・ベルクソン『哲学的直観』「媒介的イメージ」)>
Sの場合、こうした「直観」がうまく働かなかった。SのDは、〈自分の物語〉の主人公Sにとってのみ「明白と思われてきた主張」あるいは「倫理上の考(ママ)」(下二)を代弁する人格として現れていたのだろう。「直観」の代弁者でないばかりか、常識的な倫理観の代弁者でもなさそうだ。なぜだろう。
<花間一壺酒 花間(かかん) 一(いっ)壷(こ)の酒(さけ)
獨酌無相親 独酌(どくしゃく) 相(あい)親(した)しむ無(な)し
擧杯邀名月 杯(さかずき)を挙(あ)げて 名月(めいげつ)を邀(むか)え
對影成三人 影(かげ)に対(たい)して 三人(さんにん)を成(な)す
(李白『月下獨酌』)>
Sが「影」(D)とうまくやれないのは、「名月(めいげつ)」(M)を仰がないからだ。
イヤミが大金を拾う。すると、天使の姿をしたイヤミと悪魔の姿をしたイヤミが現れる。
<天使 とどけろ!!
悪魔 ネコババしろ!!
イヤミ (悪魔を指して)こっち がんばれ!!
悪魔 (天使を殴る)ボカッ おれにはイヤミがついてるんだ。(イヤミに向かって)ネコババしろ!!
イヤミ ネコババ きーめた!!
(赤塚不二夫『おそ松くん』「どこへかくした百万円」より)>
このとき、イヤミの「意志」を停止させる「直観」は働かなかった。Mが不在だからだ。
語られるSは、イヤミの同類だろう。Sは悪魔的Dである「恐ろしい力」氏の味方をしてしまい、自殺願望を抱くようになる。ところが、そのことに語り手Sは気づいていない。作者も気づいていないらしい。だったら、読者も気づくべきではなかろう。
(4410終)
ヘロシです。
~クレーマー
ヘロシです。
クレーマーだからではなく、
「クレーマーになりそうだから」という理由で、
治療を打ち切られました。
「今までの治療費を返そうか」
とまで言われました。
ヘロシです。
親戚という未知の人から手紙が届きました。
要件の後、突然、
「あなたのことはよく知っています」
と書いてありました。
だからどうとは書いてありません。
ヘロシです。
眠れない夜はありません。
眠れない昼なら、あります。
ヘロシです。
朝の来ない夜はない。
昼の来ない朝はない。
夜の来ない昼はない。
ヘロシです。ヘロシです。ヘロシです。
(終)
夏目漱石を読む虚栄
4000 『吾輩は猫である』から『三四郎』の前まで
4300 臭い『草枕』
4350 夢のような伏線
4351 俳句は意味不明
『草枕』を、Nは「この俳句的小説――名前は変であるが」(『余が草枕』)と紹介する。勿論、「俳句的」は、よくわからない。そもそも、俳句は、わかるものなのだろうか。
俳句に確かな意味はない。あるのは、妙味とか何かだ。確かな意味のある十七文字は〈川柳〉などと呼ばれる。「智(ち)に働けば」などは俳句にならない。
<有名な松尾芭蕉の句に、
古池や蛙(かわず)飛び込む水の音
というのがある。これは蛙が何匹とびこんだ音か、という論争がある。一般には、静けさを破って一匹だけポチャンととびこみ、その後はもっと静かに感じられたと解釈する。
しかし、そうではなく、芭蕉が目の前の池を静かにながめていたところ、別の遠くの池で、静けさを破るようにつぎつぎと蛙のとびこむ音がしたという解釈もある。
芭蕉がこの句をつくったとき、最初「蛙とびこむ水の音」ができ、上の句ができなかった。そこで弟子の其角に「お前ならどうだ」とたずねたところ、其角は「山吹や」と詠んだと伝えられる。
(博学こだわり倶楽部『退屈しのぎの博学塾Ⅰ 森羅万象の謎』)>
「古池」の句に確かな意味がないことぐらい、小学生にだってわかるはずだ。ところが、中学生ぐらいになると、知ったかぶりを始める。
「解釈・鑑賞も多彩で、種々の見方を許すだけでなく、芭蕉自身の理解が変化したことも指摘される」(雲英末雄・佐藤勝明訳注『芭蕉全句集』)という。学校で教わったっけ?
この句は、言うまでもなく、散文として完成していない。つまり、〈古い池があって、そこに蛙が飛び込む音がして……〉としか現代語訳できない。だから、これを鑑賞する場合、鑑賞者がそれぞれの思いや考えを付け足すことになる。俳句は連歌から始まったものという。俳句を鑑賞するには、前句付の心持ちが必要だろう。俳句の鑑賞は創作の始まりなのだ。参加することに意義がある。俳句を読めば物足りない感じがするものだ。この感じに馴れてしまってはいけない。〈こいつを何とかしてやろう〉と足掻かねばならない。
ところが、半可通は鑑賞者の立場から一歩も出ようとせず、「一匹だけポチャン」みたいな説を一個だけ鵜呑みにして、わかったふりをする。しかも、〈この句の趣味は日本人にしかわかるまい〉などと嘯き、煙幕を張る。すると、おっちょこちょいの日本人は、〈あっ、じゃあ、私にはわかるんだ〉などと自己暗示にかかってしまう。〈意味不明と白状するのは恥ずかしい〉と自覚するのさえ恥ずかしく、ポチャン、俳句のように中途半端な、優雅な、つまり曖昧な日本文化の古池に飛び込み、知的に自殺してしまう。
さて、誰の句か知らないが――
<芭蕉翁 ぽちゃんといへば 立ちどまり>
ぽちゃ、ぽちゃぽちゃぽちゃ……
4000 『吾輩は猫である』から『三四郎』の前まで
4300 臭い『草枕』
4350 夢のような伏線
4352 「出(しゅっ)世間的(せけんてき)」
『草枕』の大筋は、「出門(もんをいでて)多所思(おもうところおおし)」に始まる漢詩の成立過程だ。これが完成した時点で、物語はほぼ終わっている。那美は端役なのだ。なお、この詩を実際に拵えたのはNだ。元のタイトルは『春興』という。『漱石詩註』(吉川幸次郎)参照。
画工は、「青海(あおうみ)」(『草枕』十二)の見える崖の上で「木瓜(ぼけ)」(『草枕』十二)を見つけた。
<評して見(ママ)ると木瓜は花のうちで、愚かにして悟ったものであろう。世間には拙を守ると云う人がある。この人が来世に生れ変ると屹度(きっと)木瓜になる。余も木瓜になりたい。
(夏目漱石『草枕』十二)>
この「木瓜」は草木瓜か。「愚かにして悟ったもの」の物語がない。〈呆け〉の洒落か。
<木瓜(ぼけ)咲くや漱石拙(せつ)を守るべく
(夏目漱石『漱石俳句集』273)>
「拙を守る」は〈節を守る〉の洒落か。あるいは、「拙」は「自分のことをへりくだっていう語」(『広辞苑』「拙」)で、「拙を守る」は〈自分の身を守る〉という思いの露呈か。
<小供(こども)のうち花の咲いた、葉のついた木瓜を切って、面白く枝振(えだぶり)を作って、筆架(ひっか)をこしらえた事がある。
(夏目漱石『草枕』十二)>
嘘っぽい。この後も嘘っぽくて臭い話が続く。
<寐るや否や眼についた木瓜は二十年来の旧知己である。見詰めていると次第に気が遠くなって、いい心持ちになる。又詩興が浮ぶ。
(夏目漱石『草枕』十二)>
詩は、夢見るようにできるらしい。
<出門(もんをいでて)多所思(おもうところおおし)。春風吹(しゅんぷうわが)吾(ころもを)衣(ふく)。芳(ほう)草(そう)生車(しゃてつ)轍(にしょうじ)。廃道(はいどう)入霞微(かすみにいりてかすかなり)。停筇而(つえをとどめて)矚目(しょくもくすれば)。万象(ばんしょう)帯晴暉(せいきをおぶ)。聴(こうちょう)黄鳥宛転(のえんてんたるをきき)。観落英紛霏(らくえいのふんぴたるをみる)。行尽(ゆきつくして)平(へい)蕪(ぶ)遠(とおく)。題詩(しをだいす)古寺(こじの)扉(とびら)。孤(こ)愁(しゅう)高雲際(うんさいにたかく)。大空(たいくう)断(だん)鴻帰(こうかえる)。寸心(すんしん)何(なんぞ)窈窕(ようちょうたる)。縹渺(ひょうびょうとして)忘(ぜひを)是非(わする)。三十(さんじゅうにして)我(われ)欲(おいんと)老(し)。韶光猶(しょうこうなお)依々(いいたり)。逍遙(しょうようして)随物化(ぶっかにしたがい)。悠然(ゆうぜんとして)対芬菲(ふんぴにたいす)。
ああ出来た、出来た。これで出来た。
(夏目漱石『草枕』十二)>
どうして「これで出来た」と思えるのだろう。私にはさっぱりわからない。
4000 『吾輩は猫である』から『三四郎』の前まで
4300 臭い『草枕』
4350 夢のような伏線
4353 直訳的語法
『春興』は、『草枕』の内部において呪文のように機能している。
<これで出来た。寐ながら木瓜を観(み)て、世の中を忘れている感じがよく出た。木瓜が出なくっても、海が出なくっても、感じさえ出れば、それで結構である。と唸(うな)りながら、喜んでいると、エヘンと云う人間の咳払(せきばらい)が聞えた。こいつは驚いた。
(夏目漱石『草枕』十二)>
この「人間」が那美の元夫、「野武士」だ。彼は、『春興』によって呼び出され、「木瓜」や「海」の「感じ」によって送り出される。この場合の「海」は、彼の渡る玄界灘つまり「生死の分かれ目となるような危険な場所」(『日本国語大辞典』「玄界灘」)だろう。
<紬(つむぎ)着る人見おくるや木瓜(ぼけ)の花 許六(きょりく)>
画工の自己満足の「感じ」は、隠蔽された原典の「感じ」なのだ。
画工の語りと彼の詩歌などとの不協和は、彼と那美の会話の不協和と同質だろう。
<田家春望 高 適
出門何所見
春色満平蕪
可歎無知己
高陽一酒徒
ウチヲデテミリヤアテドモナイガ
正月キブンガドコニモミエタ
トコロガ会ヒタイヒトモナク
アサガヤアタリデ大ザケノンダ
(井伏鱒二『厄除け詩集』)>
「厄除け」の「厄」とは何だろう。
<古く漢文は、文化輸入の源泉として尊重されたから、訓読によって生じた多くの直訳的語法や語彙(ごい)が日本語の中に重い地位を占め、さらに日本語の他の分野にも大きな影響を及ぼした。
(『百科事典マイぺディア』「訓読」)>
「厄」とは〈「直訳的語法や語彙(ごい)」による日本語の混乱〉のことかもしれない。
(4350終)
(4300終)