夏目漱石を読むという虚栄
3000 窮屈な「貧弱な思想家」
3200 「近づく程の価値のないもの」
3230 『運命論者』
3231 額縁であるべきP文書
Sが「鎌倉」へ一人で来た理由は不明。事故死を装った溺死を企んでいたか。そうだとすると、Sには危うげな雰囲気が漂い、目立っていたのかもしれない。そうした雰囲気つまり「黒い影」に気付いた人は、気味悪がってSを避けたろう。ところが、Pは惹かれた。その理由は不明だ。「黒い影」に気づいて関心を抱いたのではない。Pが半裸の白人を珍しがった理由さえ不明なのに、その同伴者であるだけのSがどうして興味の対象になるのだろう。まったくわからない。かなり無理な話だ。
<秋の中過(なかばすぎ)、冬近くなると何(いづ)れの海浜を問ず(ママ)、大方は淋(さび)れて来る、鎌倉も其通りで、自分のやうに年中住んで居る者の外は、浜へ出て見ても、里の子、浦の子、地曳網の男、或は(ママ)浜づたいに往(ゆき)通(かよ)ふ行商(あきんど)を見るばかり、都人士らしい者の姿を見るは稀なのである。
(国木田独歩『運命論者』一)>
この場面とは反対に、P文書の「鎌倉」は夏で賑わっている。作者は、わざと『運命論者』と反対の設定をしているらしい。
『運命論者』の最初の語り手である「自分」は、「都人士らしい者」との出会いを期待していたようだ。すると、お約束のように、「運命論者」である高橋信造が登場し、「自分」は彼の身の上話を聞くことになる。ありふれた展開だ。この身の上話が『運命論者』の本体になる。「自分」が語り手である部分は額縁のようになっている。身の上話を聞き終わると、再び「自分」が語り手になり、そして、作品は終る。
常識的には額縁であるべきP文書が『こころ』の前半を占めていて、しかも、「遺書」が終わっても、P文書は再開されない。おかしな構成だろう。
「自分」は挙動不審の男つまり信造を見かける。
<妙な奴だと自分も見返して居ること暫し、彼は忽(たちま)ち眼を砂の上に転じて、一歩一歩、静かに歩きだした。されども此窪地の外に出やうとは仕(ママ)ないで、たゞ其処らをブラ〵〳歩いて居る、そして時々凄い眼で自分の方を見る、一たいの様子が尋常でないので、自分は心持が悪くなり、場所を変る積(つもり)で其処を起ち、砂山の上まで来て、後(うしろ)を顧ると、如何(どう)だらう怪(あやし)の男は早くも自分の座つて居た場処に身体を投げて居た! そして自分を見送つて居る筈が、さうでなく立(たて)た膝の上に腕組をして突伏(つッぷ)して顔を腕の間に埋めて居た。
余りの不思議さに自分は様子を見てやる気になつて、兎(と)ある小蔭に枯草を敷て(ママ)這ひつくばい、書(ほん)を見ながら、折々頭を挙げて彼の男を覗(うかが)つて居た。
(国木田独歩『運命論者』一>
この「不思議さ」には何の不思議もない。Pの「不思議」とはまるで違う。
『こころ』と『運命論者』には、類似の話がいくつもある。ただし、弄られて変な話になっている。作者は、『運命論者』を利用しながらも、そのことを読者に気づかれまいと工夫し、しくじり続ける。本文が意味不明なのは、そのせいだ。
3000 窮屈な「貧弱な思想家」
3200 「近づく程の価値のないもの」
3230 『運命論者』
3232 「運命の恐ろしさ」
〈信造の物語〉は〈Sの物語〉の隠蔽された原典かもしれない。
<父に背いて他の男に走った母の娘と知らずに結婚した男の苦悶を描く。
(『広辞苑』「運命論者」)>
Sは養子であり、両親はそのことをSに対して秘密にしていた。しかし、叔父を含め、親戚はSが養子であることを知っていた。Sも長ずるに従い、そのことを薄々察するようになる。「ぐるぐる」は、自分の出自に関する問題を解こうとして解けない状態、いや、解きたくない状態を形容する言葉だろう。Sの母は死に際に「東京へ」(下三)と呟く。「東京」にはSの実母がいるからだ。静の母はSの実母だった。ただし、静の母は、そのことを知らない。ところが、なぜか、Sは知る。静は異父妹に当たる。
<里子は兎も角も妹ですから、僕の結婚の不倫であることは言ふまでもないが、僕は妹として里子を考へることは如何しても出来ないのです。
人の心ほど不思議なものはありません。不倫といふ言葉は愛といふ事実には勝てないのです。僕と里子の愛が却つて僕を苦しめると先程言つたのは此事です。
(国木田独歩『運命論者』六)>
「僕」は信造。奇妙なことだが、〈信造の母=里子の母〉という決定的な証拠はない。里子と信造の「愛という事実」は描写されていない。作者は、それを表現できなくて、インセスト・タブーの物語へと逃げているみたいだ。つまり、作者は、「妹として里子を考えること」しかできなくて、〈作者にとって表現困難な「愛という事実」〉を〈作中人物の「不倫という言葉」〉によって表現したふりをしているように疑われる。
語り手Sは「運命の恐ろしさ」(下四十九)という言葉を用いているが、この「運命」の物語は空っぽだ。作者は「運命」という言葉を『運命論者』から持ってきたのだろう。
『それから』の三千代は、代助の友人だった菅沼の妹だ。友人を〈もう一人の自分〉と見なせば、代助はインセスト・タブーを犯したことになる。さらに言えば、二人の男は一人の少女を媒介として精神的に合体する可能性があったことにもなる。少女を媒介とした男同士のプラトニック・ラブが成立するわけだ。
Sは、Kと精神的に合体するために、〈静とKの恋愛〉を空想していたのだろう。当然ながら、この空想が実現することを忌避してもいた。この矛盾を、Sは自覚できなかった。語り手Sも自覚していない。作者さえ、自覚していない。だが、作者は、この奇妙な「運命の恐ろしさ」を露呈してしまっている。
ちなみに、『女系図』(泉鏡花)は「小説としては構想が不自然に過ぎる」(『ブリタニカ』「女系図」)とされる。話が複雑になった原因は、主人公の主税とその妹のような妙子との恋愛感情を作者が隠蔽しているせいだろう。主税の恋人であるお蔦は、彼と妙子の母あるいは姉のような存在だ。
3000 窮屈な「貧弱な思想家」
3200 「近づく程の価値のないもの」
3230 『運命論者』
3233 みゆき現象
Sは、従妹と結婚する気になれなかった理由について、次のように語る。
<あなたも御承知でしょう、兄(きょう)妹(だい)の間に恋の成立した例(ためし)のないのを。私はこの公認された事実を勝手に布衍(ふえん)しているかも知れないが、始終接触して親しくなり過ぎた男女(なんにょ)の間には、恋に必要な刺戟(しげき)の起る清新な感じが失な(ママ)われてしまうように考えています。
(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」六)>
一つでも「例(ためし)」が見つかれば話はひっくり返ってしまう。
<兄の木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)皇子との兄妹相姦説話で知られる。
(『古語林 古典文学事典/名歌名句事典』「衣通(そとおり)王(のみこ)」)>
「公認された事実」には〈黙認された別の「事実」〉という含意がある。
Sは〈兄妹のように育った男女間の「恋」の物語はない〉とでも思っているのか。『井筒』(世阿弥)を知らないのか。『たけくらべ』(樋口一葉)でもいい。
Nは『あわれ、彼女は娼婦』を知っていたはずだ。
<特に主人公ジョバンニが懐妊させた実の妹アナベラを殺し、その心臓を剣に突刺して登場する最後の場面は圧巻。
(『ブリタニカ国際大百科事典』「あわれ、彼女は娼婦」)>
『ザ・ルーム』(ダオー監督)では、兄妹相姦による懐妊が聖母マリアの処女懐胎に擬せられる。こうしたトリックは、日本では不必要だろう。日本では、兄妹相姦は、愚行ではあっても、悪行ではないからだ。
<一人の女の子に“恋人、母、妹”の役割を求める当世の男の子の姿をよくとらえている。
(世相風俗観察会編『現代風俗史年表』1983年「みゆき現象」)>
古代日本の近親相姦の罪としては、「己が母犯せる罪、己が子犯せる罪」(『ブリタニカ』「国津罪」)しかなかったようだ。『運命論者』の主人公の苦悩は、日本の近代社会における性愛文化の混乱によって生じたのだろう。罪と恥の混同かもしれない。
近代日本人の作家は、恋愛の「感じ」として兄妹相姦を思いつく。『運命論者』の作者は西洋的禁忌を利用して自身の想像力の不足を隠蔽した。『こころ』の場合はもっと複雑だ。兄妹相姦の物語は作品の深層でもSの妄想でもない。それは母子相姦を希釈したものだ。Sは、静の母を実母として想像し、静とではなく、その母との結婚を夢見た。こうした混乱を、作者は必死になって隠蔽している。その結果、本文が意味不明になってしまった。
「恋は罪悪」の真意は「己が母犯せる罪」だろう。
(付記)井田生『一地方における凄い性生活(見聞集)ーー近親間姦の種々相を中心に』「一〇 近親姦序説ーー文学の中の表現」(日本生活心理学会〔編〕『生心リポート・セレクション④さまざまなる耽美性愛の情動』所収)
(3230終)