ヒルネボウ

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夏目漱石を読むという虚栄 1520

2021-02-20 09:19:44 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1500 さもしい「淋(さび)しい人間」

1520 Sの「死因」

1521 主人公はK

 

『こころ』の原典は『浮雲』だろう。『浮雲』の物語は終わっていない。

 

<静岡県士族出身の内海文三は父の死後、東京の叔父園田孫兵衛の家に寄宿し、学問に励み、優秀な成績で学校を卒業して下級の官吏になるが、それもつかのま、人員整理のため失職する。話は、この文三免職の日から始まる。以降それまで半ば結婚を公認されていた園田家の娘お勢との関係も冷えきり、社会的にも個人的にも自分の居場所を失い、2階の自室に閉じ籠(こも)っていく。

(『日本歴史事典』「浮雲」高橋修)>

 

「昇はお勢を弄んで捨て、文三は失望と身辺の不幸が重なって身を持ちくずし、発狂することが予定されていた」(『日本近代文学大事典』「二葉亭四迷」)という。なぜ、この物語が実現しなかったのか。理由は簡単だ。文体がばらばらだからだ。

 

<高等中学生間貫一(はざまかんいち)と寄食先の娘鴫沢宮(しぎさわみや)の婚約が資産家富山唯継(とみやまただつぐ)の出現で破れ、のちに高利貸となった貫一は別離を悔やむ宮を容易に許さない。彼にあてた宮の悲痛な手紙が示されるところで終わっている。

(『日本歴史大事典』「金色夜叉」吉田昌志)>

 

『金色夜叉』も未完。『モンテクリスト伯』(デュマ)のような終わりにならないのは、女性蔑視の風潮が理由だろう。女性蔑視が悪いのではない。女性蔑視と恋愛が矛盾するからだ。

『受験生の手記』(久米正雄)は、ちゃんと終わっている。ただし、駄作。

 

<一高入試に再度失敗した兄健吉が、弟健次に先を越され、恋人澄子との恋にも弟に破れて、猪苗代湖に身を投じ自殺するまでの苦悩を描いたもの。

(『日本近代文学大事典』「久米正雄」関口安義)>

 

『こころ』は、『浮雲』と『受験生の手記』の中間に位置する。『こころ』が中断したのは、『金色夜叉』のような思想的限界のせいではない。『浮雲』とは別種の混乱のせいだ。複数の文体の混交のせいではなく、複数の物語の混交のせいだ。

 

『浮雲』 『金色夜叉』 『こころ』 『受験生の手記』

敗者  文三   貫一     K     健吉

恋人  お勢   お宮     静     澄子

勝者  昇    富山     S     健次

 

『こころ』の主人公はKが適当なのだ。

 

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1500 さもしい「淋(さび)しい人間」

1520 Sの「死因」

1522 「寂寞(せきばく)」

 

Sの自殺の動機は不可解だ。

 

<酒は止めたけれども、何もする気にはなりません。仕方がないから書物を読みます。然し読めば読んだなりで、打ち遣って置(ママ)きます。私は妻から何の為(ため)に勉強するのかという質問を度々受けました。私はただ苦笑していました。然し腹の底では、世の中で自分が最も信愛しているたった一人の人間すら、自分を理解していないのかと思うと、悲しかったのです。理解させる手段があるのに、理解させる勇気が出せないのだと思うと益(ますます)悲しかったのです。私は寂寞(せきばく)でした。何処からも切り離されて世の中にたった一人住んでいるような気のしたことも能(よ)くありました。

(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」五十三)>

 

「酒は止めたけれども、何もする気になりません」は〈酒を止めたので、あることをする気になりました〉の逆だ。本文は〈あること〉を隠蔽している。主文は〈あることを「する気にはなりません」〉と〈「何もするに気に」「なりません」〉の混交。

「仕方がないから書物を読みます」は意味不明。「仕方がない」は〈あることをするための「仕方がない」〉の不当な略だろう。

「打ち遣って」おかないとすると、どうするのか。〈「書物」を使ってあることをすべきなのに、しない〉という物語が暴露されている。

「何の為(ため)に勉強するのか」という問いに対する答えを語り手Sは隠蔽している。

「腹の底」は、普通、他人のもの。「世の中で」は不要。「最も」は「たった一人」と合わない。「信愛」する対象は、異性ではなく、「人間」だ。不可解。「自分を理解し」は意味不明。「悲し」は意味不明。つまり、無「理解」と悲哀の関係が不明。「悲しかった」は、形式的には〈悲しくなった〉が適当。「自分が最も信愛しているたった一人の人間すら、自分を理解していないのか」は、次の二文の混交だ。

 

Ⅰ 〈「自分」を「最も信愛しているたった一人の人間すら、自分を理解していないのか」〉

Ⅱ 〈「自分が最も信愛しているたった一人の人間」に「すら、自分を理解」させられ「ないのか」〉

 

Sは、この二つの物語を不十分に表現している。あるいは、二つの物語のどちらもが真実であるように暗示している。その場合、虚偽の暗示を試みていることになる。

「理解」が意味不明なので、「理解させる手段」がどのようなものか、「益(ますます)」わからなくなる。「勇気が出せる」ための「手段」はないのか。

「寂寞(せきばく)」は誤用に近い。〈不安〉などが適当。Sは不安の物語を隠蔽しているようだ。

「何処」って、たとえば? Sは静から見捨てられたられたような気がしたのだろう。少年Sは保護者に遺棄されたはずだ。その体験を、Sは自己自身に対して隠蔽している。「たった一人住んでいるような気」がしたら、普通は呆けるはず。

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1500 さもしい「淋(さび)しい人間」

1520 Sの「死因」

1523 「失恋」と「死因」

 

「何処からも切り離されて」云々の続き。

 

<同時に私はKの死因を繰り返し考えたのです。その当座は頭がただ恋の一字で支配されていた所為(せい)でもありましょうが、私の観察は寧(むし)ろ簡単でしかも直線的でした。Kは正(まさ)しく失恋のために死んだものとすぐ極めてしまったのです。しかし段々落ち付いた気分で、同じ現象に向って見ると、そう容易(たやす)くは解決が着かないように思われて来ました。現実と理想の衝突、――それでもまだ不充分でした。私は仕舞にKが私のようにたった一人で淋(さむ)しくって仕方がなくなった結果、急に所決(しょけつ)したのではなかろうかと疑が(ママ)い出しました。そうして又慄(ぞっ)としたのです。私もKの歩いた路を、Kと同じように辿(たど)っているのだという予覚が、折々風のように私の胸を横(よこ)過(ぎ)り始めたからです。

(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」五十三)>

 

「死因」は〈自殺の動機〉が適当。語り手Sは原因と動機を混同している。

 

<一般には生命維持に必要な神経装置、心臓の拍動、外呼吸を停止させた変化をさす。

(『日本国語大辞典』「死因」)>

 

〈「死因を」~「考えた」〉は意味不明。

〈「頭が」~「支配されて」〉は意味不明。実は、「恋の一字」という言葉によって、作者は〈Kの「恋」の物語〉が空っぽであることを隠蔽している。

「直線的」は意味不明。

「失恋のために死んだ」という〈Kの物語〉は、まったく語られていない。

 「現実と理想の衝突」を主題とする〈Kの物語〉は、十分に語られていない。

「淋(さむ)って仕方がなくなった」は意味不明。

「辿(たど)っているのだ」は〈以前から辿っていたのだ〉という物語の暴露。

Sこそが「失恋のために」死にたくなったのだ。この「失恋」とは、〈静の気持ちがSから離れる〉ということ。Sは「恋」の敗者だ。Kは逆説的な「恋」の勝者かもしれない。

静は次のように語った。

 

<先生は私を離れれば不幸になるだけです。或(あるい)は生きていられないかも知れませんよ。

(夏目漱石『こころ』「上 先生と私」十七)>

 

Sが死にたくなったのは、静の心がSから離れたからだ。そのように推測できる。ただし、Sがそのように語るわけではない。だが、作者は暗示している。あるいは、暴露している。

Sの「死因」は「風」だろう。魔風だ。〈自殺の動機〉は、静による遺棄つまり「失恋」だろう。『こころ』の作者は、神秘的な〈「風」の物語〉と通俗的な〈「失恋」の物語〉に二股を掛けたが、どちらの物語も未完あるいは不発。虻蜂取らず。

(1520終)


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夏目漱石を読むという虚栄 1510

2021-02-19 17:16:11 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1500 さもしい「淋(さび)しい人間」

1510 尻切れ蜻蛉

1511 自殺の美化

 

『こころ』は、現実逃避の身勝手な自殺を美化したものだろう。誰のためにも、何のためにもならない自殺だ。では、なぜ、『こころ』は教科書などで推奨されてきたのだろう。日本の教育関係者は、〈「向上心がないもの」は死ね)みたいなメッセージをひそかに送り続けてきたのではないか。自殺大国と呼ばれる日本の現状と、意味不明の『こころ』が名作とされてきたことの間に、何の関係もないのだろうか。あるさ。

 

<自己本位主義は、たんなる自殺の副次的な要因ではなく、その発生原因である。このばあい、人びとを生にむすびつけていた絆が弛緩するのは、かれらを社会にむすびつけていた絆そのものが弛緩してしまったためである。では、直接に自殺を思いたたせる、決定的条件のようにみえる私生活上の出来事はどうかといえば、それらは、じつは偶然的な原因にすぎない。個人が環境の与えるごく軽微な打撃にも負けてしまうとすれば、それは、社会の状態が個人を自殺のまったく格好(かっこう)の餌食(えじき)に仕立てあげていたからにほかならない。

(エミール・デュルケーム『自殺論』)>

 

Kの受けた「勘当」(下二十一)も、静が相手の「失恋」も、Kの自殺の「偶然的な原因」だったのだろう。Kの自殺の真因は、彼が生きた「社会の状態」に求めるべきだろう。ところが、Kは「社会の状態」から目を背けて内向きになり、「精進(しょうじん)という言葉」にすがって生きていた。このように推測される。だが、作者の意図は不明。

『こころ』を和風『生ける屍』(トルストイ)つまり「偽善的な社会制度に適応できない主人公プロターソフが、潔癖さのゆえに自殺する話」(『日本国語大辞典』「生ける屍」)みたいに総括するのは無理だ。「偽善的な社会制度」について過不足なく表現されていないからだ。

Sは、「彼等が代表している人間というものを、一般に憎む事を覚えたのだ」(上三十)と意味不明の啖呵を切っているが、実際には「彼等」つまり叔父一家との闘争からの逃走を美化しているだけだ。〈人間を憎む〉などという台詞は、無差別殺人などをやった経験のある人間が吐くときにしか、真実味はない。Sは、ふざけた男だ。いや、作者が軽薄なのだ。

Kの耳元で、誰かが「もっと早く死ぬべきだのに」(下四十八)と囁いた。Kはこの誰かに殺されたわけだ。その誰かは「社会の状態」を擬人化した架空の人格Dだ。Kは自分のこしらえたDに殺された。Sも、S自身のDに殺されかけている。「私もKの歩いた路を、Kと同じように辿(たど)っているのだ」(下五十三)という根拠のない思いは、〈KのDがKに作用したの「と同じように」SのDがSに作用する〉といった妄想を少しだけ露呈した言葉だ。〈Sの物語〉の原典は〈Kの物語〉だ。ただし、Sの空想する〈Kの物語〉だ。この物語の主題は、Nの〈自分の物語〉の主題と同じだろう。作者はこの主題を伝達しようと足掻いた。

ただし、作者がこのように表現しているのではない。むしろ、こうした真相を隠蔽している。だから、皮肉にも、〈『こころ』は名作〉ということになっているのだ。Dの存在を隠蔽することに成功しているから、名作なのだ。めげて自殺したくなるような「社会の状態」から目を逸らし、じたばたするのを美化してくれるから、つまり、「煩悶(はんもん)や苦悩」を美化してくれるから、『こころ』は名作なのだ。だろ? 

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1500 さもしい「淋(さび)しい人間」

1510 尻切れ蜻蛉

1512 小説のような夢

 

Nの小説は、どれも尻切れ蜻蛉だ。物語として終わっていない。このことに気づかない人は、小説に限らず、どんな文章を読んでも、結論や結末があるのかないのか、あるとしたらどんな結論や結末なのか、こうした問題に自信をもって答えることができないはずだ。

『吾輩は猫である』や『草枕』の終わり方は唐突だ。『坊っちゃん』は、〈「五分刈り」と清の物語〉と〈「うらなり」と「マドンナ」の物語〉に分裂していて、そのどちらにも結末がない。『三四郎』の終わり方もおかしい。次作の『それから』は、三四郎のそれからを描いたものではない。また、『それから』の次作の『門』は、代助のそれからを描いたものではない。この三作は〈前期三部作〉と呼ばれているが、『門』も終わっていない。終わり方が『門』に似た『道草』も終わっていない。『門』と『道草』の間に発表された『彼岸過迄』と『行人』と『こころ』は〈後期三部作〉と呼ばれているが、それぞれが終わっていない。、『こころ』は『道草』と密接な関係がある。後者は前者の真相を暴露したものだ。つまり、『こころ』の夫婦の実態が『道草』で描かれることになる。『明暗』は〈Nの死による中絶〉ということになっているが、長生きしてもNには完成させられなかったろう。

『こころ』が現在の形で終わっているのは、新聞社との契約が主な原因だろう。〈『こころ』の続きを書け〉と命じられたら、Nは平然としてP文書を再開したろう。

Nの作品は夢のようだ。夢のような小説ではない。〈小説のような夢〉の叙述だ。

物語としての終わりと、作品としての終わりは違う。落語など、ほとんどが物語として終わっていない。だが、落ちはある。むしろ、物語が終わっていない方が落語らしい。『芝浜』(三遊亭円朝)などは物語が終わっているので、落ちが利かない。

小説や映画などで、わざと尻切れ蜻蛉になっているものはある。その典型が『女か虎か』(ストックトン)だ。『タバコ・ロード』(フォード監督)や『モダンタイムズ』(チャップリン監督)や『アパートの鍵貸します』(ワイルダー監督)や『卒業』(ニコラス監督)なども同様。『四月の雪』(ホ監督)の劇場公開版も曖昧な終わり方をしていた。ディレクターズ・カットには結末がある。こっちはつまらない。『13日の金曜日』(カニンガム監督)は終わり切っていない。続編を期待させるような終わり方をしていて、当然のように続編が次々に作られるが、どうにも終り切れず、凄いことになる。『ローマの休日』(ワイラー監督)にだって続編があってよさそうなものだが、誰がそれを期待しよう。『蒼のピアニスト』(SBS)は、重要な出来事が隠されたまま、終わる。それは、韓ドラでしばしば描かれてきたような出来事だろう。『5時から7時までのクレオ』(ヴェルタ監督)や『ロシュフォールの恋人たち』(ドゥミ監督)にも結末がない。ただし、結末は自明だろう。『硝子の微笑』(バーホベン監督)の劇場公開版は、謎が解けていない。そのことは、ディレクターズ・カットを観ると、はっきりする。

『ロンバケ』の終わり方やそれに似た『冬ソナ』の終わり方もおかしい。結婚式の場面がないからだ、どちらの作品でも結婚式が重んじられているのに。総集編の『ロンバケ』だと、結婚式が始まりそうなところで作品が終わってしまう。でも、いい。

『たけくらべ』(樋口一葉)のあの二人は再会すべきだ。『言の葉の庭』(新海誠監督)のあの二人は再会すべきだ。『小説 言の葉の庭』(新海誠)の二人は再会する。ほっ。

 

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1500 さもしい「淋(さび)しい人間」

1510 尻切れ蜻蛉

1513 『壷坂霊験記』

 

『こころ』には結末がない。結末とは、Sの死の有様とその後のPと静の物語だ。

 

<「然しもしおれの方が先へ(ママ)行くとするね。そうしたら御前どうする」

「どうするって……」

奥さんは其所(そこ)で口籠(くちごも)った。先生の死に対する想像的な悲哀が、ちょっと奥さんの胸を襲ったらしかった。けれども再び顔をあげた時は、もう気分を更えていた。

「どうするって、仕方がないわ、ねえあなた。老少不定(ふじょう)っていう位だから」

奥さんはことさらに私の方を見て笑談(じょうだん)らしくこう云った。

(夏目漱石『こころ』「上 先生と私」三十四)>

 

こんな話は夫婦だけでするものだ。しかし、Pという観客がいるからこそ上演できた仮面夫婦の芝居だろう。ただし、作者の企画ではない。だから、読者は芝居と疑ってはいけない。

「笑談(じょうだん)らしく」は〈本音を「笑談(じょうだん)らしく」装って〉と解釈できる。困ったことだ。

Sは「もしあなたが生きてゐなけりやあ、わたくしも生きてはゐないわ」(シュニッツラー『みれん』)と妻に言われたかったらしい。ただし、この甘い台詞はドラマティック・アイロニーだ。つまり、彼女自身には自覚できない嘘だ。

 

<元来、夫は死んだのに死におくれている意の自称の語であったが、後、他人からいう語となった。

(『日本国語大辞典』「びぼうじん【未亡人】」)>

 

「寡婦殉死。語義は「貞節な妻」」(『山川 世界史小辞典』「サティー」)という習俗を、作者は暗示しているらしい。いや、Sが静に暗示し損ねているのだろう。

乃木夫妻は心中した。

 

<私の眼は長い間、軍服を着た乃木大将と、それから官女みたような服装(なり)をしたその夫人の姿を忘れる事が出来なかった。

(夏目漱石『こころ』「中 両親と私」十二)>

 

Sの空想する「殉死」の物語の原典は『壷坂霊験記』だろう。

 

<盲人の沢市は、女房お里が夫の目が見えるようにと壷坂寺観世音へ夜参りしているのを知ってふびんがり、谷底に投身する。お里もあとを追うが、霊験によって二人とも生き返り沢市の目も開くという筋。

(『百科事典マイペディア』「壷坂霊験記」)>

 

これは「明治期新作浄瑠璃の代表作」(『ブリタニカ』「壷坂霊験記」)とされる。

 

(1510終)


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備忘録 苦悶

2021-02-17 18:16:03 | ジョーク

   備忘録 苦悶

学問が苦悶

我利勉 下痢便

です・ます デス・マスク

手弁当 食べんと

(終)

  


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夏目漱石を読むという虚栄 1450

2021-02-17 18:16:03 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1400 ありもしない「意味」を捧げて

1450 夏目宗徒

1451 読めない「人間の心」

 

『『こころ』の読めない部分』を書いていた頃、私には次の文が読めなかった。

 

<後姿だけで人間の心が読める筈はありません。

(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」十八)>

 

「後姿」は少女静のものだ。「人間の心」が読めなくて困っているのは、青年Sだ。

Sの想像する静は、「後姿」によってSに謎をかけている。その謎の「心」つまり女心なら、Sにも想像できた。私にもできた。ほとんどの人にできるはずだ。それは〈あすなろ抱きする度胸ある?〉みたいものだ。ツンデレのツン。Sは、「あなたは余っ程度胸のない方ですね」(『三四郎』一)と言われたくなかった。伊東ゆかりが「いきなり肩を抱いてほしくて ふりむかないの」(有馬三恵子 作詞・鈴木淳 作曲『あの人の足音』)と歌っている。「御嬢さんの態度になると、知ってわざと遣るのか、知らないで無邪気に遣るのか」(下三十四)と悩んだ。「わざと遣る」のは「技巧」(下三十四)で、「技巧(アート)なら戦争だ」(『彼岸過迄』「須永の話」三十一)という展開になるのを避けたかった。ただし、須永と違って、Sは〈信実のない「技巧」か〉とまでは疑わなかった。だから、女心とは別の「人間の心」を仮定したわけだ。

 

<然し私は誘(おび)き寄せられるのが厭(いや)でした。他(ひと)の手に載るのは何よりも業腹(ごうはら)でした。叔父に欺(だ)まされた私は、これから先どんな事があっても、人には欺まされまいと決心したのです。

(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」十六)>

 

Sの警戒心は、「金に対して」(下十二)だけでなく、「愛に対して」(下十二)も働き始めていた。〈静はプロポーズをされたくて男に「技巧」を用いるのか〉という疑問を、Sは抱いたわけだ。静がSを愛していたとしても、Sは「技巧」を許せない。だから、「もう一人男が入(い)り込まなければならない事」(下十八)になる。「もう一人男」はKだ。Sは〈「嫉妬(しっと)」(下三十四)か、「技巧」か〉という不合理な二者択一問題を拵え、〈「嫉妬(しっと)」だから「技巧」ではない〉と自己欺瞞ずるために、Kを引き入れた。

 

<つまり、先生は実はお(ママ)嬢さんの気持ちを後ろ(ママ)姿から読み取ったにもかかわらず、その「読み取った」という一言を書かなかったのです。だから、読者はあたかも先生が「見当が付」かなかったまま、この場面を終えたかのような印象を持ってしまうのです。そのことを含めて、この語り方を見破れるのは、先に言った「文学的想像力」を持った読者だけだと言うことができます。漱石は読者を信じていたのです。

(石原千秋『理想の教室 『こころ』大人になれなかった先生』)>

 

意味不明の「文学的想像力」が自慢の連中を、私は私の読者として想定しない。

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1400 ありもしない「意味」を捧げて

1450 夏目宗徒

1452 読めない『Kの手記』

 

Sの自殺の動機は不明なのだが、あえて言えば、絶望に対する危惧だ。ただし、『こころ』の作者がこの危惧を文芸的に表現しているのではない。Nがこの危惧を人々に伝染させようと企んだだけだ。危惧を主題とする物語はない。物語のない危惧は〈不安〉と言うべきだが、『こころ』の作者が不安を描いているわけではない。

 

<しかし、先生のもっとも痛切に感じたのは、最後に墨の余りで書き添えたらしい、もっと早く死ぬべきだったのに、なぜいままで生きていたのだろうという意味の言葉だった。

漱石がここでKに乗り移っているとしか思えないのは、Kの無意識にいたるまでを全身で知っているとしか思えないからです。Kならこうするに決まっている。決まっているそのことが、作者が決めるというよりも登場人物のKのほうからやってくる。むろんそれは読者にも分かる。だから、たとえば『Kの手記』といった小説が、漱石でなくともいくらでも書ける、そういうふうになっているということです。

(三浦雅士『漱石 母に愛されなかった子』)>

 

「漱石がここで」三浦に「乗り移っているとしか思えないのは」漱石の「無意識にいたるまでを」自分は「全身で知っていると」三浦が思っていると「しか思えないから」だ。

こうした妄想を抱く人々が夏目宗徒だ。彼らは手前味噌の夏目宗を信じている。そして、Nの小説を聖典のように読む。そのとき、彼らは自分とNを混同する。かわいそうなKに乗り移る自分と、Kに乗り移るかわいそうなNを混同するわけだ。

「漱石が」は〈「漱石」の霊魂「が」〉などが適当。〈K〉は〈金之助〉の「頭文字(かしらもんじ)」だから、「むろん」KはNの分身だ。小説家が自分の心情を登場人物に仮託するのは、ありふれたことだろう。ところが、宗徒は神秘的なことが起きているように錯覚する。Nが〈KはNの分身だ〉という事実を隠蔽しているからだ。「むろん」三浦に隠蔽の事実は知れない。彼は、Nの魂胆を「全身で知って」しまい、隠蔽された事柄を隠蔽されたまま感知し、そして、自分の感知した事柄を、やはり隠蔽したまま語る。口寄せのようなものだ。

「Kならこうするに決まっている」と作者が思うのは、普通のことだ。普通でないのは語り手Sだ。彼はかつての自分が「痛切に感じた」理由を隠蔽している。〈「そェのことが」~「Kのほうからやってくる」〉は日本語になっていない。「それ」は、どれ? 

「だから」は無理。「いくらでも書ける」という気になってしまうのが夏目宗徒の、いわば症状。実際には、『Kの手記』を読んだような気に「なっている」だけのことだ。

『Kの手記』は読めない。それは「もっと早く」に起きた出来事から成るはずだ。物語を隠蔽したまま、その気分だけを伝達すること。これがNの企図だった。それは「一代の才人ウェルテル君がヴァイオリンを習い出した逸話」(『吾輩は猫である』十一)のような奇談であり、Nが思い出したくない体験だろう。作者はそれを想像したくなかった。だから、Kを死なせ、Sを死なせた。口封じのためだ。P文書が再開しないのも、そのためだ。

Nは自分の記憶を自ら隠蔽するために、同種の記憶の持ち主を作品の中で黙らせた。

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1400 ありもしない「意味」を捧げて

1450 夏目宗徒

1453 読めない聖典

 

『こころ』は夏目宗の聖典だ。

 

<夏目漱石自身が装幀した『(「)心(こゝろ)』という書物(初版本)を、テクストとして読むためには、私たち読者は、まず「心」という漢字(視覚文字)が大書されている箱から、書物をとり出し、異なる書体で「心」と書かれた表紙、そして扉を開き、「上―先生と私」の最初の言葉と出会うのである。固い箱の中に閉ざされた「心」を、テクストとして再生させるためには、私たちは、それを自らの行為、読むという行為によって開き、各頁の上にふってある「こゝろ」と出会うために、一つ一つの言葉を、自らの「こころ」の中に、血液のように流しはじめねばならない。

(小森陽一『『こころ』を生成する心臓(ハート)』*)>

 

「テクスト」は、ナウかった文芸用語のふり。真意は〈聖典〉だろう。

小森はPに擬態し、SとNを混同している。「血のなかに先生の命が流れている」という意味不明のPの言葉や、「その血をあなたの顔に浴びせかけよう」という意味不明のSの言葉などを弄って、作品の解説をしたつもりになっている。楽な商売だ。

 

<私はその時心のうちで、始めて貴方を尊敬した。あなたが無遠慮に私の腹の中から、或生きたものを捕(つら)まえようという決心を見せたからです。私の心臓を立(ママ)ち割って、温かく流れる血潮を啜(すす)ろうとしたからです。

(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」二)>

 

「或生きたもの」って、結局、何だったのだろう。Sが予想する「もの」とPが予想する「もの」は、同じだろうか。あるいは、違っていてもいいのだろうか。Sが〈違っていてもいい〉と考えていたとしても、その「もの」がどんなだか知れないことには、〈違う〉とさえ言えまい。Pは、その「もの」を「捕(つら)まえ」たのだろうか。それはどんな「もの」だろう。また、読者は、Pと同じ「もの」を「捕(つら)まえ」ることができるのだろうか。あるいは、違う「もの」でも構わないのだろうか。小森は、Pまたは読者と同じ「もの」を「捕まえ」たのだろうか。Pとは違うが、読者とは同じか。しかし、〈みんな違って、みんな素敵〉なら、「受け入れる事の出来ない人」は皆無だろう。

ちなみに、この解説では、〈Sの死後、Pと静は「家族の領土の一員には決してなることのない、自由な人と人との組み合わせを生きること」になる〉という異本が提示されている。意味不明なので、〈貧乏なPは美魔女でセレブの静のセフレになる〉といったママ活を想像して怒った人がいたようだ。私の異本では、『坊っちゃん』が原典になる。〈P=「五分刈り」/静=清〉だ。ただし、〈「五分刈り」と清は結婚した〉という異本もあるようで、この場合、「五分刈り」は父の妾だったかもしれない清を娶ったことになる。親子丼。この異本を利用すると、〈Pは養母の静を娶るために養父のSを脅迫して自殺させた〉という話になりそうだ。ただし、脅迫したのが無意識なら、このPに罪悪感はなかろう。

 

*『こころ』ちくま文庫所収。

(1450終)


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夏目漱石を読むという虚栄 1440

2021-02-15 23:08:39 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1400 ありもしない「意味」を捧げて

1440 忖度ごっこ

1441 昭和のいる

 

へえへえ、わかった、わかった。昭和のいるの口癖。そして、吉本のスタイル。

 

<一体、吉本隆明って、どこが偉いんだろう。吉本が戦後最大の思想家だって、本当だろうか。本当かもしれない。本当だとすれば、吉本がその住人の一人である戦後思想界がどの程度のものであるか、逆にはっきり見えてくるだろう。

大思想家の条件は、第一に、常人にはよく分からないことを書くことであるらしい。花田清輝もそうだし、小林秀雄もそうだ。よく分からないことを書けば、読者は必死になって読んでくれる。そして、俺をこれだけ必死にさせるのだから大思想家だと思ってくれる。読んでいる途中で挫折することもあるだろうが、結果は同じである。さすがに大思想家だ、俺には読み通せないと思ってくれる。

(呉智英『吉本隆明という「共同幻想」』)>

 

タイトルは〈「吉本隆明」は大思想家だ「という「共同幻想」」〉などの略。

『日本衆愚社会』(呉智英)では「吉本語」の「日本語訳」が試みられている。翻訳可能なら、支障はなかろう。

 

<吉本隆明の『共同幻想論』(1968)によって現代日本思想界に定着した概念。

(『ブリタニカ国際大百科事典』「共同幻想」)>

 

「共同幻想」と〈付和雷同〉の区別は可能か。区別は不要か。

 

<斎藤緑雨を気取った、ひどく屈折した文体が指し示しているのは、小林秀雄、江藤淳、吉本隆明のことである。由良君美はこの3人を、方法論を欠いた印象批評の輩として嫌っていた。

(四方田犬彦『先生とわたし』)>

 

私は「この3人」を〈慢語三兄弟〉と呼ぶ。何四天王と合わせて〈売れてらセブン〉だ。

「方法論」は昭和の流行語で、多くの場合、〈方法〉のことだった。

 

<歴史的あるいは心理学的な方法によって、科学的、実証主義的な批評基準の確立を目指すテーヌ、ブリュンチエール、ブールジェらに対して、ゴンクール兄弟やルナンの流れをくむA.フランスやJ.ルメートルらは、芸術の世界における客観主義は疑似科学にすぎぬとし、批評家の任務は鋭敏で幅広い感性に刻みつけられた印象の忠実な記録にあると主張した。

(『ブリタニカ国際大百科事典』「印象批評」)>

 

私は、こういう専門的な話をしているのではない。普通の読み方について考えている。

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1400 ありもしない「意味」を捧げて

1440 忖度ごっこ

1442 野口さん

 

忖度は日本の惨めな悪習だ。自分の考えを他人の考えと混同して威張る。

 

<で、それから、もう一つは、今言われた日本近代文学の『こゝろ』論の歴史みたいなもので、最も浅薄と思われてることが深い意味があるような解釈として、この小説が読まれていったという歴史があり、それはことによると、今日われわれが読んでいる現代小説にも、これに似た、虚構の散文の論理として成立していないものを、われわれがあまりに多くのことを考え過ぎて読んでやっているということにもつながりませんか。例えば、誰の小説でもいいわけなんだけれども、ことによると、『こゝろ』はそれよりも出来としては惨めなのかもしれない。

(「〔鼎談〕『こゝろ』のかたち」における蓮實重彦の発言*)>

 

「われわれ」は「あまりに多くのことを考え過ぎて読んで」やらなければならないような日本社会に生きている。とにかく、〈目上の人の発信した情報には「深い意味」(下三十)がある〉と思ってやらなければならないのだ。

 

<戦前、インテリ青年必読の書だった、西田幾多郎の哲学書は「絶対矛盾的自己同一」といったような難解語句が満載されているところから、いかにも深遠なような気がしてありがたがった人が多い。私たちの旧制高校時代には、ベストセラーの筆頭は河上肇の『第二貧乏物語』であった。そしてこれは、小学校へもろくにいかなかったような日傭い労務者を含めた勤労階級を読者に予想したものであるにもかかわらず、これまたはなはだしく難しい本だった。戦後では、埴谷(はにや)雄(ゆ)高(たか)氏が難解ホークスの異名をとっている(東京新聞昭和50年2月4日)。鶴見俊輔氏によると「進歩的学者の書くものは腹ごたえがしない」という人がまだかなりいるという。しかし、教室でわかりいい講義をしていた教授に「もっと難しい講義をしてくれ」とたのむ学生はだんだんへっていくようで(平井昌夫『言葉の教室』Ⅱ)、結構である。

(金田一春彦『日本人の言語表現』)>

 

この本で、金田一は『枕草子』の次の文を批判している。

 

<少し日たけぬれば、萩(はぎ)などのいと重(おも)げなりつるに、露の落つるに枝のうち動きて、人も手触(ふ)れぬに、ふとかみざまへあがりたる、「いとをかし」「いみじうをかし」といひたること、人のここちにはつゆをかしからじと思ふこそまたをかしけれ。

(清少納言『枕草子』「九月(ながつき)ばかり夜一夜(ひとよ)降り明かしたる雨の」)>

 

ククク……。野口さんだね。『ちびまる子ちゃん』(さくらももこ)の、あの暗い少女。

〈だよね。そういうの、「をかし」って、私もよく思うもん。友達になろうよ〉と言われたら、ナゴンはどうしたろう。ククク……。

 

*「漱石研究」第6号所収。

 

1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」

1400 ありもしない「意味」を捧げて

1440 忖度ごっこ

1443 井戸茶碗

 

「純日本風の家屋」(谷崎潤一郎『陰翳礼讃』)など、ありえない。「純」と「風」は矛盾するからだ。〈独創かつ模倣〉はナンセンス。朝鮮の「日常雑器」(『日本歴史大事典』「井戸茶碗」)などを〈純東洋風〉と勘違いするのが「純日本風」の倭人の習性らしい。

 

<日本人は(ママ)、昔から「行間(ぎょうかん)を読む」などという感覚があった。そして人の気持ちは”以心伝心(いしんでんしん)”で伝わるものだと思っている部分がある。心の細かいヒダの部分は「いわなくても察しなさい」ということである。

こうしたニュアンスは、欧米人には理解しがたいものである。彼らは奥ゆかしさとか心の機微というようなものには価値を置かないのである。強烈な色彩の油絵を好む欧米人と、墨絵のような淡(あわ)くほのかな濃淡(のうたん)の絵を好む日本人の違いである。

この根底のひとつには、宗教の違い、そしてその宗教を受け入れた体質的な違いが影響しているのではないか。

欧米には神はひとつとするキリスト教が根づいて、それに影響された西洋的な論理では、正しいものをひとつとする考え方がある。そこには中間的な曖昧(あいまい)な答えは存在しない。イエスかノーか、ひとつの答えのみが要求されるという論理が植えつけられてきた。

しかし、日本においては絶対的な宗教は根づかなかった。そして神道(しんとう)や仏教が混在し、神もあれば仏もある。あれもよし、これもありという考え方が存在しているのである。

(斎藤亜香里『道歌から知る美しい生き方』)>

 

「行間を読む」という習慣は、漢文の訓読法がもとになっているのではなかろうか。「以心伝心(いしんでんしん)」は「唐の禅僧、慧能に始る言葉」(『ブリタニカ』「以心伝心」)だそうだ。

「欧米人」はさておき、アフリカ人はどうか。「墨絵」は東洋画。白隠や蕭白は見た? 

漆器つまり小文字のjapanは地味か。鉦太鼓の音は地味か。花火、旗印、武具、馬具、陣羽織、金閣寺、九谷焼、日光東照宮、象嵌、歌麿、若冲、光琳、ねぶた、錦鯉、宗達、絵金、団十郎、光悦、赤門、大文字焼きは地味か? 桜も紅葉も地味か? 

天使や聖母を小文字の〈神〉と考えれば、キリスト教も多神教だ。「イエスかノーか」は山下奉(とも)文(ゆき)(『ブリタニカ』)の言葉。「ひとつの答えのみが要求されるという論理」は意味不明。

「あれもよし、これもあり」の真意は、〈それだけは無理〉だろう。初めは、何でもかんでも無差別に受け入れるふりをする。だが、自分の願うような「美しい生き方」が続けられなくなりそうだと、不意に異物を排除する。「論理」がないからできるわけだ。

 

<考えて見(ママ)ると、私なぞは古代日本と朝鮮、シナ、南洋、或は阿蘭陀文化の雑種のようなものである。そうした混淆した土俗・伝説・言語の間に育てられて、かえって同じ日本の東北地方とは縁の遠い私たち児童であった。

(北原白秋『一握の花束』)>

 

北原白秋は福岡県出身。彼は「国民詩人」(『ニッポニカ』「北原白秋」)とされる。

(1440終)


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