夏目漱石を読むという虚栄
1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」
1500 さもしい「淋(さび)しい人間」
1520 Sの「死因」
1521 主人公はK
『こころ』の原典は『浮雲』だろう。『浮雲』の物語は終わっていない。
<静岡県士族出身の内海文三は父の死後、東京の叔父園田孫兵衛の家に寄宿し、学問に励み、優秀な成績で学校を卒業して下級の官吏になるが、それもつかのま、人員整理のため失職する。話は、この文三免職の日から始まる。以降それまで半ば結婚を公認されていた園田家の娘お勢との関係も冷えきり、社会的にも個人的にも自分の居場所を失い、2階の自室に閉じ籠(こも)っていく。
(『日本歴史事典』「浮雲」高橋修)>
「昇はお勢を弄んで捨て、文三は失望と身辺の不幸が重なって身を持ちくずし、発狂することが予定されていた」(『日本近代文学大事典』「二葉亭四迷」)という。なぜ、この物語が実現しなかったのか。理由は簡単だ。文体がばらばらだからだ。
<高等中学生間貫一(はざまかんいち)と寄食先の娘鴫沢宮(しぎさわみや)の婚約が資産家富山唯継(とみやまただつぐ)の出現で破れ、のちに高利貸となった貫一は別離を悔やむ宮を容易に許さない。彼にあてた宮の悲痛な手紙が示されるところで終わっている。
(『日本歴史大事典』「金色夜叉」吉田昌志)>
『金色夜叉』も未完。『モンテクリスト伯』(デュマ)のような終わりにならないのは、女性蔑視の風潮が理由だろう。女性蔑視が悪いのではない。女性蔑視と恋愛が矛盾するからだ。
『受験生の手記』(久米正雄)は、ちゃんと終わっている。ただし、駄作。
<一高入試に再度失敗した兄健吉が、弟健次に先を越され、恋人澄子との恋にも弟に破れて、猪苗代湖に身を投じ自殺するまでの苦悩を描いたもの。
(『日本近代文学大事典』「久米正雄」関口安義)>
『こころ』は、『浮雲』と『受験生の手記』の中間に位置する。『こころ』が中断したのは、『金色夜叉』のような思想的限界のせいではない。『浮雲』とは別種の混乱のせいだ。複数の文体の混交のせいではなく、複数の物語の混交のせいだ。
『浮雲』 『金色夜叉』 『こころ』 『受験生の手記』
敗者 文三 貫一 K 健吉
恋人 お勢 お宮 静 澄子
勝者 昇 富山 S 健次
『こころ』の主人公はKが適当なのだ。
1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」
1500 さもしい「淋(さび)しい人間」
1520 Sの「死因」
1522 「寂寞(せきばく)」
Sの自殺の動機は不可解だ。
<酒は止めたけれども、何もする気にはなりません。仕方がないから書物を読みます。然し読めば読んだなりで、打ち遣って置(ママ)きます。私は妻から何の為(ため)に勉強するのかという質問を度々受けました。私はただ苦笑していました。然し腹の底では、世の中で自分が最も信愛しているたった一人の人間すら、自分を理解していないのかと思うと、悲しかったのです。理解させる手段があるのに、理解させる勇気が出せないのだと思うと益(ますます)悲しかったのです。私は寂寞(せきばく)でした。何処からも切り離されて世の中にたった一人住んでいるような気のしたことも能(よ)くありました。
(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」五十三)>
「酒は止めたけれども、何もする気になりません」は〈酒を止めたので、あることをする気になりました〉の逆だ。本文は〈あること〉を隠蔽している。主文は〈あることを「する気にはなりません」〉と〈「何もするに気に」「なりません」〉の混交。
「仕方がないから書物を読みます」は意味不明。「仕方がない」は〈あることをするための「仕方がない」〉の不当な略だろう。
「打ち遣って」おかないとすると、どうするのか。〈「書物」を使ってあることをすべきなのに、しない〉という物語が暴露されている。
「何の為(ため)に勉強するのか」という問いに対する答えを語り手Sは隠蔽している。
「腹の底」は、普通、他人のもの。「世の中で」は不要。「最も」は「たった一人」と合わない。「信愛」する対象は、異性ではなく、「人間」だ。不可解。「自分を理解し」は意味不明。「悲し」は意味不明。つまり、無「理解」と悲哀の関係が不明。「悲しかった」は、形式的には〈悲しくなった〉が適当。「自分が最も信愛しているたった一人の人間すら、自分を理解していないのか」は、次の二文の混交だ。
Ⅰ 〈「自分」を「最も信愛しているたった一人の人間すら、自分を理解していないのか」〉
Ⅱ 〈「自分が最も信愛しているたった一人の人間」に「すら、自分を理解」させられ「ないのか」〉
Sは、この二つの物語を不十分に表現している。あるいは、二つの物語のどちらもが真実であるように暗示している。その場合、虚偽の暗示を試みていることになる。
「理解」が意味不明なので、「理解させる手段」がどのようなものか、「益(ますます)」わからなくなる。「勇気が出せる」ための「手段」はないのか。
「寂寞(せきばく)」は誤用に近い。〈不安〉などが適当。Sは不安の物語を隠蔽しているようだ。
「何処」って、たとえば? Sは静から見捨てられたられたような気がしたのだろう。少年Sは保護者に遺棄されたはずだ。その体験を、Sは自己自身に対して隠蔽している。「たった一人住んでいるような気」がしたら、普通は呆けるはず。
1000 イタ過ぎる「傷ましい先生」
1500 さもしい「淋(さび)しい人間」
1520 Sの「死因」
1523 「失恋」と「死因」
「何処からも切り離されて」云々の続き。
<同時に私はKの死因を繰り返し考えたのです。その当座は頭がただ恋の一字で支配されていた所為(せい)でもありましょうが、私の観察は寧(むし)ろ簡単でしかも直線的でした。Kは正(まさ)しく失恋のために死んだものとすぐ極めてしまったのです。しかし段々落ち付いた気分で、同じ現象に向って見ると、そう容易(たやす)くは解決が着かないように思われて来ました。現実と理想の衝突、――それでもまだ不充分でした。私は仕舞にKが私のようにたった一人で淋(さむ)しくって仕方がなくなった結果、急に所決(しょけつ)したのではなかろうかと疑が(ママ)い出しました。そうして又慄(ぞっ)としたのです。私もKの歩いた路を、Kと同じように辿(たど)っているのだという予覚が、折々風のように私の胸を横(よこ)過(ぎ)り始めたからです。
(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」五十三)>
「死因」は〈自殺の動機〉が適当。語り手Sは原因と動機を混同している。
<一般には生命維持に必要な神経装置、心臓の拍動、外呼吸を停止させた変化をさす。
(『日本国語大辞典』「死因」)>
〈「死因を」~「考えた」〉は意味不明。
〈「頭が」~「支配されて」〉は意味不明。実は、「恋の一字」という言葉によって、作者は〈Kの「恋」の物語〉が空っぽであることを隠蔽している。
「直線的」は意味不明。
「失恋のために死んだ」という〈Kの物語〉は、まったく語られていない。
「現実と理想の衝突」を主題とする〈Kの物語〉は、十分に語られていない。
「淋(さむ)って仕方がなくなった」は意味不明。
「辿(たど)っているのだ」は〈以前から辿っていたのだ〉という物語の暴露。
Sこそが「失恋のために」死にたくなったのだ。この「失恋」とは、〈静の気持ちがSから離れる〉ということ。Sは「恋」の敗者だ。Kは逆説的な「恋」の勝者かもしれない。
静は次のように語った。
<先生は私を離れれば不幸になるだけです。或(あるい)は生きていられないかも知れませんよ。
(夏目漱石『こころ』「上 先生と私」十七)>
Sが死にたくなったのは、静の心がSから離れたからだ。そのように推測できる。ただし、Sがそのように語るわけではない。だが、作者は暗示している。あるいは、暴露している。
Sの「死因」は「風」だろう。魔風だ。〈自殺の動機〉は、静による遺棄つまり「失恋」だろう。『こころ』の作者は、神秘的な〈「風」の物語〉と通俗的な〈「失恋」の物語〉に二股を掛けたが、どちらの物語も未完あるいは不発。虻蜂取らず。
(1520終)