夏目漱石を読むという虚栄
3000 窮屈な「貧弱な思想家」
3500 日本近代知識人のエゴイズム
3540 「現代」は意味不明
3541 現代あるいは近代
「自由と独立と己れに充(み)ちた現代」は、二十一世紀から見たら〈近代〉だろうか。
- <今の時代。例現代人。
② 歴史(れきし)の上で時代のくぎり方の一つ。ふつう、日本では明治維新(めいじいしん)から今までの時期をいう。
(『学研 小学国語辞典』「現代」)>
Sの言う「現代」は、歴史用語②であると同時に、俗語①でもあるようだ。
- <ちかごろの世の中。
- 歴史(れきし)上の時代のわけ方の一つ。ふつう、日本では明治(めいじ)時代からあと、西洋では一九世紀からあとをさす。
(『学研 小学国語辞典』「近代」)>
「ふつう」の小学生にとって、〈現代〉と〈近代〉は同じ意味だ。中学生にとっては、〈現代〉は「歴史時代区分の一つで、特に近代と区別して使う語」(『広辞苑』「現代」)だろう。
<日本史では明治維新から太平洋戦争の終結までとするのが通説。
(『広辞苑』「近代」)>
『こころ』の内部の世界における「現代」と『広辞苑』の「近代」は違う。「明治維新から」ではあろうが、P文書で語られるSにとっての「現代」は「今まで」つまり明治四十年頃までだ。この語を用いたときのSは、明治の終わりを知らない。ただし、「遺書」の語り手SやP文書の語り手Pや『こころ』の読者は、明治が終ったことを知っている。
高校生にとって、〈現代〉は〈近代後期〉か。しかし、広い意味での近代はまだ終わっていないはずだから、〈後期〉とは言えない。その一方で、〈近代は終わった〉とも言える。
<1980年代の世界的な思潮を概括する言葉。建築用語として使われたのが発端。モダニズム(とりわけ国際様式建築)に顕著な〈単一性〉〈普遍性〉への志向に対する、〈多様性〉〈歴史性〉を主張する傾向。一定の様式や主義を指す言葉ではないため、単に〈ポスト・モダン〉とも称される。
(『百科事典マイぺディア』「ポスト・モダニズム」)>
「近代主義を超えようとする傾向」(『広辞苑』「ポスト‐モダン」)に共通性がなくても、狭い意味での近代社会が終わったことは、誰でも実感しているはずだ。その終わりは、言うまでもなく、インターネットの普及による電脳社会の始まりだ。AIの人格と匿名のネット住民の区別ができなくなったとき、近代は完全に終わることだろう。
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3540 「現代」は意味不明
3542 近代精神
暗記するのは簡単かもしれないが、理解するのは困難だ。
<結局、(1)人間主義、(2)科学的合理主義、(3)人格の自律、この三つが近代精神の核心である。
(『哲学事典』「近代精神」)>
結局、こんな総括は、私には理解できない。『こころ』の読者には理解できるのだろうか。
<このような科学の暴力から人間を解放し、人間性を擁護することに現代ヒューマニズムの最大の問題があるといってよいのであるが、この問題の解決に有力な根拠を提供するような思想も、またそれに向かって働く有効な運動もまだ十分に形づくられていないというのが偽らざる現状であろう。
(『哲学事典』「ヒューマニズム」)>
この事典の「現状」は昭和四六年のもの。
<自律的人格と科学的法則認識との二つが、近代的合理主義をかたちづくる両極である。
(『哲学事典』「近代的合理主義」)>
「この二つ」は矛盾するように思える。
<本来的な自己が立てる法則に自己が従うのであるから自律的意志は自由である。人間はしかし意志が感性に触発されもする有限的理性者であるから、もっぱら理性のみに規定される純粋意志、自律的意志は、実現さるべく課せられた理念にとどまる。
(『哲学事典』「自律」)>
この事典では「近代精神」の限界が宣告されている。だから、Sの「覚悟」は、あたかも、昭和の「現状」を予知したものように誤読できてしまう。
<(なお、たとえば、日本などの後発諸国では先進技術などの導入による産業化が優先され、外面的な文物や制度の導入・模倣がなされたが、古い共同体的諸関係や価値体系が温存されたため、政治・社会の近代化は不徹底に終わるか、形骸(けいがい)化するに留まり、産業の近代化が政治・社会の近代化に先行した)
(『日本大百科全書(ニッポニカ)』「近代化」濱嶋朗)>
Sのいう「現代」とは、「近代化は不徹底に終わるか、形骸(けいがい)化する」しかない時代のことだろう。この「現代」は、二十一世紀も「継続中」だろう。
3000 窮屈な「貧弱な思想家」
3500 日本近代知識人のエゴイズム
3540 「現代」は意味不明
3543 「母のない男」
Sは、Pの「兄」が指摘したような〈いけない「イゴイスト」〉だったのか。だったら、Pの「兄」の見解は正しく、PはSを買い被っていたことになる。
<現代の社会は孤立した人間の集合体に過ぎなかった。大地は自然に続いているけれども、その上に家(いえ)を建てたら、忽(たちま)ち切(き)れ切(ぎ)れになってしまった。家の中にいる人間もまた切れ切れになってしまった。文明は我等をして孤立せしむるものだと、代助は解釈した。
代助と接近していた時分の平岡は、人に泣いて貰(もら)う事を喜こ(ママ)ぶ人であった。今でもそうかも知(ママ)れない。が、些(ちっ)ともそんな顔をしないから、解(わか)らない。否(いな)、力(つと)めて、人の同情を斥(しりぞ)ける様に振舞っている。孤立しても世は渡ってみせるという我慢か、又はこれが現代社会に本来の面目(めんもく)だと云う悟りか、何方(どっち)かに帰着する。
(夏目漱石『それから』八)>
「家の中にいる人間」は、どうして「切れ切れになってしまった」のだろう。個室を作ったからかな。いや、話は逆だろう。代助の「家の中にいる人間が切れ切れになってしまった」のが原因で、彼には「現代の社会は孤立した人間の集合体」に思えるようになったのだろう。
Sは、代助の想像する平岡に似ている。ただし、Sの場合、「何方(どっち)か」ではなく、〈何方(どっち)〉も〉だろう。この「悟り」は皮肉で、真意は〈生悟り〉だ。Sの「覚悟」はどうだろう。この言葉をSに奉ったのはPだが、Pに皮肉のつもりはなかろう。作者の皮肉かもしれない。
Sの場合、「この淋しみ」を耐えられないものにしてしまったのは、「家の中」の「ひっそり」のせいだろう。つまり、静のせいだ。近代人が共有しているのかもしれない孤立感とSに固有の育ちの悪さが原因の「この淋しみ」を、静は慰撫すべきだった。静にその力がなかったのか。そうではない。その力を発揮することができなかったのだ。なぜか。Sがその力を抑制しているからだ。なぜ、抑制するのか。Kの死に対する後ろめたさか何かのせいだ。
こうした物語を作者は暗示している。ただし、虚偽の暗示だ。
中年Sには、〈自分は静に愛されている〉という実感がない。つまり、被愛感情がない。ところが、〈静はSを愛する〉という物語を疑いたくない。ジレンマだ。
青年Sは被愛妄想的気分に酔うこともあった。だが、疑いもした。ただし、自分の感覚を疑うのではなく、静の「技巧」を疑った。この疑いを排除するためにKを導入した。不合理な試みだ。Kを排除することはできた。しかし、その結果、Sは自分の精神の半分を失った。Kとは、被愛妄想の世界に安住することのできるS自身の象徴だったのだ。
〈XがYを愛する〉という物語があるとしよう。Sは、〈YをKに置き換えるとすぐにSに置き換えよう〉と企んだ。また、同時に、Xが静になることを望んだ。そのSは、「自叙伝」の主人公Sだ。最初からYにSが入るのなら、Xには「母」が入ったはずだ。
しかし、〈「母」はSを愛する〉という物語は、成り立たない。Sも、Kと同様、「母のない男」だったからだ。いや、Sこそが「母のない男」だったのだ。Sの「自叙伝」の根底をなすはずの〈愛される「資格」のないS〉の物語を、作者は隠蔽しようとした。ただし、それを断片的に暴露した。こうした矛盾のせいで、『こころ』は意味不明になった。
(3540終)