ヒルネボウ

笑ってもいいかなあ? 笑うしかないとも。
本ブログは、一部の人にとって、愉快な表現が含まれています。

夏目漱石を読むという虚栄 3330

2021-06-04 00:33:36 | 評論

   夏目漱石を読むという虚栄

3000 窮屈な「貧弱な思想家」

3300 明示しない精神

3330 受動‐攻撃性格

3331 「いや考えたんじゃない」

 

意味不明の表現による命令や規制などに対して、賛成するのも反対するのも難しい。賛成した場合、どんな責任を負わされるか、予測できない。反対する場合、明確な反対の仕方がわからない。こんなとき、人は受動攻撃的になるしかなかろう。

 

<わずかなことで自分が無視され、自尊心が傷つけられたと感ずる。気むずかしく、ふくれづらをよくする。他人から声をかけられることを望んでいるが、自分が相手にどんな態度を示しているかに気づかない。一般に母親に対して両面感情を示し、母親が子どもに対して一貫した態度をもっていないときに見られる。

(『心理学辞典』「受動‐攻撃性格」)>

 

「明治の精神」は、意味不明の表現を勿体ぶって発信する文化のことだ。また、そうした表現に対して同様の意味不明の受動‐攻撃的表現で応じる文化でもある。悪循環。

 

<「いや考えたんじゃない。遣(や)ったんです。遣った後で驚ろ(ママ)いたんです。そうして非常に怖くなったんです」

(夏目漱石『こころ』「上 先生と私」十四)>

 

〈考えずにやった〉ということが重点。考える力がひどく不足している。

何を「遣(や)った」ことになるのか、不明。

「驚ろいたんです」は、わかりにくい。

「非常に怖くなった」は、もっとわかりにくい。

SはKに対して悪いことをしたくてしたのではない。動機において無罪。Sは静に関することで被害妄想的になっていた。だから、過剰防衛的に振る舞って、結果的にKを苦しめることになった。中年になってもSは自分の動機を反省できないでいる。作者も、自分が何を表現したことになるのか、わかっていないはずだ。だったら、読者にもわからない。

しかし、推測できることはある。真の動機をSは隠蔽しているはずだ。

Sは少年時代からKに苛められていた。だから、青年になってSはKを苛め返した。よくある話だ。普通の知識がある人なら、〈KはSを家来のように扱っていて、Sは自尊心を保つために友達ごっこを続けていたが、ついに堪忍袋の緒が切れた〉という物語を思い浮かべるはずだ。ただし、作者がこのように表現しているわけではない。だが、常識的観点に立てば、Kに対するSの「復讐以上に残酷な意味」(下四十一)は、語り手Sや作者が暗示していることよりも深刻な「意味」があると推測できる。〈怨恨〉などのはずだ。

多くの日本人はこうした常識的な観点に立つことができない。日本の社会では文豪伝説が支配的だからだ。売れてらセブンのような有名な作家の文章の意味を、思想の内容などではなく、普通の意味を問題にすることが禁じられているように思えるからだ。思わされているからだ。文豪伝説が支配的なのは、悪文を悪文として感知する能力が育っていないからだ。誰が育てなかったのか? 国語科教師に決まっている。

 

 

3000 窮屈な「貧弱な思想家」

3300 明示しない精神

3330 受動‐攻撃性格

3332 言外の意味

 

明確には表現されていない〈言外の意味〉というものがある。しかし、その〈意味〉は絶対多数の人々にとって共有されるものでなければならない。人によって受け取り方がまちまちだったら、それは〈意味〉ではない。この絶対多数の人々に元の発信者が含まれない場合、つまり、元の発信者にとっての〈意味〉が絶対多数の人々にとっての〈意味〉と違っている場合、発信者には弁明する責任がある。弁明できなければ発信者の負けだ。

 

<漱石は、作品の中に、なかなか解決されない謎(なぞ)を提示し、読者を引っ張ることの巧みな作家です。

(北村薫『『こころ』を読もうとしているあなたに』)>

 

「なかなか解決されない謎(なぞ)」は意味不明。謎の答えが絶対多数の人々にとって同一でないのなら、それは謎ではない。謎めいた表現でしかない。

たとえば、『陰獣』の真犯人は確定できない。したがって、『陰獣』は推理小説ではない。謎めいた小説だ。謎めいているところが面白い。

〈謎〉と〈謎めいた表現〉を混同してはいけない。

Sは、謎めいた発言、Pにとって「不得要領」の発言をいくつも残している。それらの発言の真意は「遺書」を読むことによって明瞭になるみたいな感じだが、しかし、実際にはそうはならない。謎めいた発言の真意は、最後まで明らかにならないのだ。では、『こころ』は『陰獣』のように謎めいているところが面白いのか。そうではない。『こころ』の作者は「読者を引っ張ること」に成功しているのかもしれないが、引っ張るだけ引っ張っておいて、読者を放り出してしまった。落ちがない。真相の解明は読者に丸投げ。だから、『こころ』を文芸作品として読解することは不可能。作品として出来損ない。

『こころ』の作者が暗示しているのは〈謎めいた表現ができたら勝ち〉という考えだ。

 

<私は不思議に思った。然し私は先生を研究する気でその宅(うち)へ(ママ)出入りをするのではなかった。私はただそのままにして打過ぎた。今考えるとその時の私の態度は、私の生活のうちで寧(むし)ろ尊(たっと)むべきものの一つであった。

(夏目漱石『こころ』「上 先生と私」七)>

 

この種の「不思議」大好きの場面は、いくらでも見つかる。

「不思議」大好きは、Sも同様だ。

 

<然し年の若い私達には、この漠然とした言葉が尊(たっ)とく響いたのです。

(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」十九)>

 

「私達」はSとKだ。「漠然と」は〈意味が「漠然と」〉の不当な略。この「言葉」は「道」(下十九)だが、どのような言葉であれ、〈「言葉が尊(たっ)とく響いた」〉は意味不明。

 

 

3000 窮屈な「貧弱な思想家」

3300 明示しない精神

3330 受動‐攻撃性格

3333 素読の弊害

 

K、S、Pらは、軽薄才子だ。彼らは意味不明の言葉を濫用して気取っている。ただし、根暗の軽薄才子だ。彼らは難解な言葉がわかったつもりになっているのではない。ありがちな若気の至りなどとは違う。自分のことを〈人並み外れて賢い〉と思いあがっているのではない。逆だ。むしろ、謙虚なつもりでいる。卑下慢。へりくだる演技に酔っている。彼らは変なのだ。滑稽なのではない。自己欺瞞が困難になると、暴れるか死ぬかしかない。

彼らは〈意味不明だからこそ尊ぶべきだ〉という誤った考えを刷り込まれている。

 

<日本では、読解ができないのは読者のせいであり、著者側に責任はないと決め込んでいるようなところがあります。かならずしもそうではありません。本書を読んで、「読解できないのは自分のせいではない。問題は書かれている文章自体にあったのだ」というケースがあることに気づいていただければと思います。

(福澤一吉*『論理的に読む技術 文章の中身を理解する“読解力”強化の必須スキル!』>

 

「そう」が指すのは「著者の側に責任はない」であり、「決め込んでいる」ではない。

「問題」は意味不明。

「読解」の基本は反論だ。何とか欠点を探そうとする。欠点を探せなかったときにだけ、降参して、「著者」を尊ぶ。疑わないのは阿諛追従であり、侮辱ですらある。

「著者の側に責任はないもの」という卑下慢ルールは、漢文の素読の弊害だろう。素読は、口先だけの、鸚鵡のような国民を育てた。

 

<近ごろの国語教育では、もっぱら解釈や鑑賞が中心になり、わたし自身もふくめて、古典をそっくりそのまま暗誦することがなくなった。しかしながら、頭で理解した意味などというもは陽炎(かげろう)のようにあやふやで、いざというとき当てにならない。早急に意味をもとめようとせず、ことばそのものを、できればその全体を、くりかえし自分の心に刻みつけておけばこそ、やがて深く根をおろし、生きたことばに育っていくのではなかろうか。「こと」と「ことば」が、わたしたちの内で出会い、実をむすぶようになる。

(安藤忠夫『素読のすすめ』)>

 

「陽炎(かげろう)」のような主張。

「近ごろの国語教育」の実状なんか、私は知らないが、「解釈や鑑賞が中心」が駄目なのではない。読解のスキルを教えないのが駄目なのだ。

ある程度の記憶は必要だが、その対象は「古典」に限らない。読み進めつつあるテキストの重要な部分だけで十分。「その全体」を記憶できるのは特殊な才能の持ち主だけだ。

「いざというとき」に「暗誦」に頼るのが軽薄才子だ。自分にも相手にも「意味」のわからない名言を「当て」にしているから、会話を怠ける。劇団ひとり。

「意味をもとめ」とか「心に刻みつけて」とか「深く根をおろし」とか「生きたことばに育って」とか「内で出会い」とか「身をむすぶ」とか、『外郎売』かよ。

 

*上が土の俗字。

(付記)「歳月」(星新一)参照。『だれかさんの悪夢』(新潮文庫)所収。

 

(3330終)

 


この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 回文 ~キネマ | トップ | 聞き違い ~マジョリティ »
最新の画像もっと見る

評論」カテゴリの最新記事