ヒルネボウ

笑ってもいいかなあ? 笑うしかないとも。
本ブログは、一部の人にとって、愉快な表現が含まれています。

漫画の思い出 花輪和一(16) 『護法童子・巻之(一)』(双葉社)

2024-03-22 23:35:38 | 評論

   漫画の思い出

    花輪和一(16)

    『護法童子・巻之(一)』(双葉社)

「旅之四 気の巻」

死んだ父のせいで娘は「―気―」が奪われそうになる。彼女は「鬼娘」の後裔。

もとの中国の字は气で、人の呼気したがって人の呼吸をあらわす。そこから生命力とか活動の根源とかいう意味がでてくる。人の体内にある勢、力を気というのもそこからでている。しかしそれはおおむね生理的な意味がつよく、心的な意味にもちいられる場合も、つねに生理的な意味が付加されている。道家方面で養気といわれる場合も長寿をたもつ目的が考えられ、孟子は「浩然の気」を説いて、宇宙に充満するほど広大なものを考えているが、気はやはり「体にみちたもの」であり「志に支配される」性質のものであった。それは人の肉体ではないが、人の肉体を考えずに独立させられるものでもない。人の肉体内にある勢とか力とかいうものである。そこに魂すなわち人の霊に結びつく要素がある。肉体は失われても魂はのこるという考えのなかには、やはりその魂がその肉体のなかにあったことが条件になっている。かかる意味にもちいられていた気は、山川などの自然物のうちに感じられる霊的なものまでそのなかにふくむようになった。やがてこのような気が陰陽とか五行とかいう系統にまとめられていった。そして宇宙構成の説明にもちいられていくのであるが、それと物質との関係はつねに持続されている。

(『哲学事典』「気」)

「気」のような何か、たとえば印象や直観などは誰でも経験しているはずだ。人間は、いや、生物は、植物を含め、「気」のような何かによって生かされている。だが、人間の場合、これに頼り過ぎると妄想的になる。妄想を体系化すると宗教になる。逆に、「気」のような何かを押し殺すと、冷血漢になる。あるいは、考える自分と感じる自分に人格が分裂する。「気」のような何かは、扱いが難しい。

護法童子は、娘の「―気―」を奪おうとする僧侶と闘い続ける。

死んだ父は、無害な父の隠喩だ。彼女の「―気―」は〈孝心〉の隠喩だろう。だが、そうした表現にはなっていない。作者は父性愛を許容しようと企んでいる。父性愛の許容は、母性愛の否認の裏返しらしい。よくわからない。

(16終)


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする