夏目漱石を読むという虚栄
5000 一も二もない『三四郎』
5500 「偉大なる心の自由」
5550 「現実よりたしかな夢」
5551 積極的自由と消極的自由
自由には二種ある。積極的自由と消極的自由だ。両者は、〈「自由」対「かってきまま」〉のように、〈一方がブラスで、もう一方がマイナス〉という関係にあるのではない。
<みずからが思いどおりに主体的選択をしようとすること。「~への自由」として定式化することができる。
(『ブリタニカ国際大百科事典』「積極的自由」)>
「~への自由」の反対は〈~からの自由〉だろう。
<と云って、進まぬものを貰いましょうと云うのは今(きん)代人(だいじん)として馬鹿気ている。
(夏目漱石『それから』十三)>
「進まぬものを貰いましょう」と言わないのが消極的自由だ。
<多くの自由主義思想家たちは、この自由の概念こそが唯一の「自由の名による自由の抑圧」につながらない最小限の自由の本質であるとみなしているが、自由が他者の自由と衝突し放埓に堕落しないために、どこまで強制を認めるかで見解が分れる。
(『ブリタニカ国際大百科事典』「消極的自由」)>
「自由が他者の自由と衝突し」ないための公式みたいなものは、ないはずだ。
<フランス革命によって平等は自由と並んで民主主義の基本理念となり、19世紀中頃までは自由と平等は矛盾しないと考えられてきた。なぜならば、ブルジョワは自由を経済活動の自由と考え、平等を概念的平等ないし権利行使の平等と考えていたからである。しかし次第に、このような自由は社会的、経済的不平等をもたらすことがわかってきたため、19世紀以降社会の不平等是正が先進国の大きな政治的課題となった。
(『ブリタニカ国際大百科事典』「平等」)>
「大きな政治的課題」を軽視するN式個人主義への隷従は個人の自由だ。
<戦争は平和なり
自由は隷従(れいじゅう)なり
無知は力なり
(ジョージ・オーウェル『一九八四年』)>
〈「罪悪」は「神聖」なり〉と宣言したつもりなら、Sは自己矛盾に陥っている。自己矛盾ですらないのなら、「気が狂った」(下五十六)と見なすべきだ。
5000 一も二もない『三四郎』
5500 「偉大なる心の自由」
5550 「現実よりたしかな夢」
5552 『不如帰』
「偉大なる心の自由」は意味不明だが、解釈は考えられる。それは〈愛する義務からの消極的自由〉だろう。〈誰かを愛するための積極的自由〉ではない。
明治になって〈恋愛結婚〉という考えが輸入された。だが、恋愛結婚が主流になるのは、いわゆるトレンディー・ドラマが流行した1980年代ではなかろうか。やがて、結婚を前提としない恋愛が普通になった。〈初恋の人同士で結婚する〉なんてのは、二十一世紀の日本では、困難というより、世間知らずみたいに思われているのかもしれない。
〈自由恋愛〉という言葉は明治にもあった。しかし、それは「恋愛を放縦なものとして言った語」(『広辞苑』「自由恋愛」)であり、〈淫乱〉の同義語だった。性行為を伴わなくても、道徳的には「罪悪」だ。昭和の恋愛は、いくら奔放のようでも、結婚を前提としたものだった。そうではない恋愛は、『同棲時代』(上村一夫)で描かれたように、異常なものと思われていた。〈元カレ〉などという言葉を女性が平気で口にするようになったのは、二十一世紀に入ってからではなかろうか。
<片岡陸軍中将の娘浪子(なみこ)は、海軍少尉川島武男(たけお)と結婚したが、結核にかかり、家系の断絶を恐れる姑(しゅうとめ)のお慶(けい)によって武男の留守中に離縁される。2人の愛情はとだえなかったが、救われるすべのないまま、浪子は、もう女なんぞ生まれはしないと嘆いて死ぬ。
(『日本大百科全書(ニッポニカ)』「不如帰 ほととぎす」吉田正信)>
明治の常識では、自由恋愛は不良のすることだった。しかし、三四郎は、そうした常識のせいで恋愛に踏み切れないのではない。彼は、自分のために準備されている「第三の世界」から拒まれているように感じているのだ。不合理だろう。
三四郎が「ラッブ」をどのようなものと考えているのか、よくわからない。「細君一人を知って甘んずるのは、進んで自己の発達を不完全にする様なものである」(『三四郎』四)という文が意味不明だからだ。この「細君」はお光と決まっていて、〈結婚後も、妻以外の女性と自由恋愛をしたい〉という含意がありそうだ。しかし、独身の三四郎にこんなことを考える余裕はなかろう。〈複数の女性と自由恋愛をしてから、その中の一人と結婚したい〉というように誤読できなくもないが、この場合でもまだ余裕がある。普通の若者なら、〈相手は誰でもいいから、とにかく一度は自由恋愛をしてみたい〉と願うのではなかろうか。
<先月大磯へ行ったものに両三日前東京で逢うなどは神秘的でいい。所謂(いわゆる)霊の交換だね。相思の情の切な時にはよくそう云(ママ)う現象が起るものだ。一寸聞くと夢の様だが、夢にしても現実より慥(たし)かな夢だ。
(夏目漱石『吾輩は猫である』六)>
頑張れば、夢は現実になる。だが、「現実より慥(たし)かな夢」をあえて「現実」に変える動機はなかろう。「第三の世界」が拒んでいるのは〈夢よりも不確かな現実〉の誰かだろう。
5000 一も二もない『三四郎』
5500 「偉大なる心の自由」
5550 「現実よりたしかな夢」
5553 「他(ひと)本位」対「自己本位」
「自己本位」は夏目語らしい。いや、自分語らしい。Nにとって特殊な意味があるのではなくて、確かな意味がないようだ。
<その時の彼は他(ひと)の事を考える余裕を失って、悉く自己本位になっていた。
(夏目漱石『門』十七)>
「他(ひと)の事を考える余裕を失って」いるだけであり、悪意や害意はなかろう。
<私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。
(夏目漱石『私の個人主義』)>
〈「言葉を」~「握って」〉は意味不明。「自分の」は不要。どう「強く」か。
<吾々の書生をしている頃には、する事為す事一として他(ひと)を離れた事はなかった。凡てが、君とか、親とか、国とか、社会とか、みんな他(ひと)本位であった。それを一口にいうと教育を受けるものが悉く偽善家であった。その偽善が社会の変化で、とうとう張り通せなくなった結果、漸々(ぜんぜん)自己本位を思想行為の上に輸入すると、今度は我意識が非常に発達し過ぎてしまった。
(夏目漱石『三四郎』七)>
広田が語っている。三四郎が聞かされている。読者は読まされている。私はつらい。
「他(ひと)を離れ」は意味不明。
「他(ひと)本位」は意味不明だが、この逆が「自己本位」だ。
「それ」は「他(ひと)本位」か。「教育を受けるものが悉く偽善家であった」は〈「教育を受けるものが悉く偽善家」になってしまうの「であった」〉の略と解釈する。
「社会の変化」の内容は不明。「思想行為の上に輸入すると」は意味不明。「輸入すると」とあるから、「自己本位」を英語に戻すと、〈エゴイズム〉だろう。しかし、〈エゴイズム〉にはいろんな意味があるので、この語を睨んでも埒はあかない。「我意識」は意味不明。
広田は「自己本位」を批判している。では、彼はNの論敵か。不明。
英国留学中、Nにコペルニクス的転回が起きたように思われる。だが、「主観が客観に従うのではなく、逆に客観が主観に従い、主観が客観を構成する」(『広辞苑』「コペルニクス的転回」)というふうに変わったのではない。三四郎の「世界」は、「現実」を空想する三四郎自身のために仮設されたものだ。
「我々は西洋の文芸に囚(とら)われんが為に、これを研究するのではない。囚われたる心を解脱せしめんが為に、これを研究しているのである」(『三四郎』六)という意味不明の宣言によって、作者は虚偽の暗示を試みているはずだ。〈「文芸」は享受者である自分を「解脱せしめんがために」発信されている〉という被愛妄想を下手に語ったものだろう。
(5550終)
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(5000終)