夏目漱石を読むという虚栄
4000 『吾輩は猫である』から『三四郎』の前まで
4200 本当は怖い『坊っちゃん』
4230 複数の物語を跳び回る
4231 「あんまりないが」から「今考へても」
「初秋(はつあき)の風」場面は、神秘主義的には、〈「五分刈り」の思念と清の魂は一体化した〉と解釈できる。だが、実際には、〈「五分刈り」の物語〉と〈清の物語〉が混交しただけだ。作者が複数の物語の統合に成功したわけではない。
<ここで、「あんまりないが」から「今考へても惜しい」までは、坊っちゃんのことばである。しかし、「……失敬なことを聞く。あんまりないが(ママ)子供の時……」と続けて読んでゆくと、「あんまりないが」以下は、坊っちゃんの心の中の動きとしか取れない。「今考へても惜しい」のあとに、「と云つたら」と出てくるので、はじめて今のが坊っちゃんのことばの内容だったかと気付く。
(金田一春彦『日本語』「Ⅴ 文構成から見た日本語」)>
「と云つたら」は、〈「と云つたら」どうかと思いながら黙っていたら〉などがふさわしい。あるいは、この前の〈「赤シャツは気味の悪る(ママ)い様に」~「見っともない」〉と同じく、語り手の「五分刈り」が不特定の聞き手に向かって語った言葉かもしれない。
金田一の指摘はまっとうだ、本文はもっと難解だ。
<君釣(つ)りに行きませんかと赤シャツがおれに聞いた。赤シャツは気味の悪る(ママ)い様に優(やさ)しい声を出す男である。まるで男だか女だか分りゃしない。男なら男らしい声を出すもんだ。ことに大学卒業生じゃないか。物理学校でさえおれ位な声が出るのに、文学士がこれじゃ見っともない。
おれはそうですなあと少し進まない返事をしたら、君釣(ママ)をした事がありますかと失敬な事を聞く。あんまりないが、子供の時、小梅(こうめ)の釣堀(つりぼり)で鮒(ふな)を三匹(びき)釣った事がある。それから神楽坂(かぐらざか)の毘沙門天(びしゃもんてん)の縁日(えんにち)で八寸ばかりの鯉(こい)を針で引っかけて、しめたと思ったら、ぽちゃりと落としてしまったがこれは今考えても惜しいと云ったら、赤シャツは顋(あご)を前の方へ突(つ)き出してホホホホと笑った。何もそう気取って笑わなくっても、よさそうなものだ。「それじゃ、まだ釣の味は分らんですな。御望みならちと伝授しましょう」と頗(すこぶ)る得意である。だれが御伝授をうけるものか。一体釣や猟(りょう)をする連中はみんな不人情な人間ばかりだ。不人情でなくって、殺生(せっしょう)をして喜ぶ訳がない。魚だって、鳥だって、殺されるより生きてるほうが楽に極(き)まってる。釣や猟をしなくっちゃ活計がたたないなら格別だが、何不足なく暮している上に、生き物を殺さなくちゃ寐(ね)られないなんて贅沢(ぜいたく)な話だ。こう思ったが向うは文学士だけに口が達者だから、議論じゃ叶(かな)わないと思って、黙ってた。すると先生このおれを降参させたと疳(かん)違(ちがい)して、早速伝授しましょう。御ひまなら、今日どうです。一所に行っちゃ。吉川君と二人ぎりじゃ、淋(さむ)しいから、来(き)給(たま)えとしきりに勧(すす)める。吉川君と云(ママ)うのは画学の教師で例の野だいこの事だ。
(夏目漱石『坊っちゃん』五)>
Nの小説の語り手たちは、奇妙なスタイルを用いる。複数の物語を跳び回るのだ。
4000 『吾輩は猫である』から『三四郎』の前まで
4200 本当は怖い『坊っちゃん』
4230 複数の物語を跳び回る
4232 妄想的な語り手
「釣(つ)り」の話で、実際の発言と断定できそうな部分だけを抜き出すと、次のようになる。
赤シャツ 君、釣りに行きませんか。
五分刈り そうですなあ。
赤シャツ 君、釣りをした事がありますか。
五分刈り あんまりないが……。
赤シャツ ホホホホ。それじゃ、まだ釣りの味はわからんですな。お望みなら、ちと伝授しましょう。
五分刈り ――。
赤シャツ 早速伝授しましょう。お暇なら、今日どうです。一緒に行っちゃ。吉川君と二人ぎりじゃ、淋しいから、来たまえ。
「釣(つ)り」の話を「五分刈り」が実際に口にしたとは考えにくい。その理由は三つある。
- 「五分刈り」が「赤シャツ」の「声」に違和感を覚えたのは、話題が「釣(つ)り」だったせいだ。違和感の由来を隠蔽するために、「五分刈り」は声や学歴の話を絡めた。「赤シャツ」の声について非難するのが無礼だから「五分刈り」は黙っていたのではなく、話が飛躍しているから言いだしにくかったのだろう。
- 「釣」の思い出を「五分刈り」が「赤シャツ」に向かって長々と語るのは不自然だ。しかも、「小梅(こうめ)」や「神楽坂(かぐらざか)」という固有名詞は、「赤シャツ」にとって馴染みのないものかもしれない。「五分刈り」は自分が江戸っ子なのを自慢しているみたいだ。
- 「釣や猟(りょう)」に対する非難は、「釣(つ)り」の思い出が語られた後だと、「赤シャツ」には負け惜しみのように思えたろう。「議論」の巧拙が問題なのではないはずだ。
〈「赤シャツ」は「五分刈り」を魚のように釣る〉という物語が〈「釣」に誘われる〉という物語へと流れる。この流れを作者が意図的にこしらえているようには思えない。
「赤シャツ」は「五分刈り」を仲間に引き入れようとして、いつもより「優しい声」で話しかけた。だから、「五分刈り」は過敏に反応した。しかし、相手の企みが不明なので、学歴などの話にすりかえた。人に釣られるのを恐れる気分から「子供の時」の不快な思い出を連想するが、「赤シャツ」の企みを具体的に想像するのは無理だった。そこで、「釣や猟」批判へと論点をすりかえる。ただし、すりかえを自覚したくなくて、「議論じゃ叶(かな)なわない」と、今度は勝敗に話をすりかえた。さらに、「先生このおれを降参させたと疳(かん)違(ちが)して」などと、腹の中で相手を軽蔑して自己欺瞞を試みる。しかし、まだ逃げ切れない。突如、彼は妄想の物語の語り手に成り上がり、「吉川君と云うのは」というふうにさらに話を変えた。
「五分刈り」は、複数の物語を跳び回りながら、妄想的な語り手に成り上がったのだ。
4000 『吾輩は猫である』から『三四郎』の前まで
4200 本当は怖い『坊っちゃん』
4230 複数の物語を跳び回る
4233 映像化に不向き
Nの小説では、登場人物の気分と、語り手の気分と、作者の気分が、複雑に混交している。だから、複雑すぎる部分を無視して、単純なように誤読する人が多いのだろう。
「釣」に関する場面を、会話としてベタに起こしてみよう。
赤シャツ 君、釣りに行きませんか。
五分刈り 気味の悪いように優しい声を出す男である。まるで男だか女だかわかりゃしない。男なら男らしい声を出すもんだ。ことに大学卒業生じゃないか。物理学校でさえおれぐらいな声が出るのに、文学士がこれじゃみっともない。――そうですなあ。
赤シャツ 君、釣りをしたことがありますか。
五分刈り 失敬なことを聞く。あんまりないが、子供のとき、小梅の釣堀で鮒を三匹釣ったことがある。それから神楽坂の毘沙門天の縁日で八寸ばかりの鯉を針で引っかけて、しめたと思ったら、ぽちゃりと落としてしまったが、これは今考えても惜しい……
赤シャツ ホホホホ。
五分刈り 何もそう気取って笑わなくっても、よさそうなものだ。
赤シャツ それじゃ、まだ釣りの味はわからんですな。お望みなら、ちと伝授しましょう。
五分刈り そこぶる得意である。だれがご伝授を受けるものか。いったい釣りや猟をする連中はみんな不人情な人間ばかりだ。不人情でなくって、殺生をして喜ぶわけがない。魚だって、鳥だって殺されるより生きているほうが楽に決まっている。釣や猟をしなくっちゃ活計がたたないなら格別だが、何不足なく暮らしているうえに、生き物を殺さなくちゃ寝られないなんて贅沢な話だ。
赤シャツ ――
五分刈り 文学士だけに口が達者だから、議論じゃ敵わない。
赤シャツ 降参させた。――早速伝授しましょう。お暇なら、今日どうです。一緒に行っちゃ。吉川君と二人ぎりじゃ、淋しいから、来たまえ。
五分刈り ――吉川君というのは画学の教師で例の野だいこのことだ。
変だけど、こういう会話だってありうる。語り手の「五分刈り」に対応する聞き手がこんな会話を聞いたように勘違いしても、おかしくはない。ただし、この場合、「五分刈り」は世間知らずの駄々っ子で、「赤シャツ」は懐の広い苦労人になってしまう。
文豪伝説の信者は、「五分刈り」を純真な男と見なすのだろう。だが、そうした印象は誤読の産物なのだ。この印象は、〈実際には「赤シャツ」の前で小さくなっていた「五分刈り」〉と〈語られる「五分刈り」の空想の世界で空威張りをしていた「五分刈り」〉を足して2で割ったものだ。語り手の「五分刈り」は、〈「五分刈り」は卑怯だ〉と〈「五分刈り」は大胆だ〉の二種の物語に二股をかけている。〈卑怯の物語は現実で、大胆の物語は空想だ〉といった仕分けは、誰にもできないはずだ。現実味がないのとは違う。
『坊っちゃん』を映像化しても成功しない。ありえたはずの出来事を作者が隠蔽しているからだ。『こころ』も、同様。Nの小説のどれもが映像化に不向きだ。
(4230終)