夏目漱石を読むという虚栄
第二部 恐ろしく恐ろしげな「意味」
第四章 『吾輩は猫である』から『三四郎』の前まで
<「博士。あなたは国じゅうで一ばんあたまがいい。そのあたまをつかうときがきましたぞ。研究してみてください。
- 王さまのからだのナゾをとくこと。
- ばけものをさがすほうほうを見つけること。いいですね。」
博士は、めがねをはずして、よごれたレンズをハンカチでふきながら、いいました。
「よろしい。わたしの、すばらしいあたまで考えるところによると、この二つのもんだいは、おたがいにかんけいがあると思う。この二つのことは、むすびつけて考えるべきであり、そうしないとわからんことになるはずである。王さまのからだのナゾがとければ、ばけものがわかるし、ばけものがわかれば、王さまのからだのナゾがとける。王さまのからだのナゾをといて、ばけものをさがすほうほうを見つけるか、ばけものをつかまえてから、王さまのからだのナゾをあきらかにするか、そのどちらかしか、考えようのないもんだいではないかと、わたしは思うが。あんまりあたまのよくない大臣は、どちらだと思うかね。」
大臣には博士がなにをいっているのか、さっぱりわかりません。わかることはどちらでもいい、(ママ)
「早く、とりかかってください。」
ということだけでした。
(寺村輝夫『魔法使いのチョモチョモ』)>
4000 『吾輩は猫である』から『三四郎』の前まで
4100 笑えない『吾輩は猫である』
4110 「吾輩は猫である」は意味不明
4111 五つの意味
私の用いる〈意味〉という言葉の意味は単純だ。「言語表現が指し示す事柄または事物」(『広辞苑』「意味」)といったものだ。なお、言語以外の標識、絵文字、スタンプ、ジェスチャーなどにも意味はある。こんな説明は無駄か。
人間は、発信者がいないはずの自然現象にも意味を見いだす。たとえば、〈嵐の前の静けさ〉という。〈静けさ〉という自然現象に意味があって、それは〈嵐の前〉というものだ。
人はあらゆる現象に意味を見いだす。だから、〈意味〉の意味は〈無意味ではないもの〉としか言いようがない。
ここで逆に考えてみよう。誰もが意味不明と思うべきなのに、そうは思われていない例を挙げる。
「吾輩は猫である」は意味不明である。なぜなら、猫に作文はできないからだ。ところが、〈『吾輩は猫である』という作品があって、その語り手は猫である〉ということを知っている人は、〈「吾輩は猫である」にはちゃんとした意味がある〉と思ってしまう。
似た文で試そう。〈私はサザエ〉や〈私はカモメ〉や〈私はウナギ〉などの意味は明瞭だろうか?
文豪伝説の影響を受けていない人は、「吾輩は猫である」という言葉に接したとき、少なくとも次の五つの意味を想定するはずだ。ただし、どれとも決めかねる。
- 文字通りに受け取る。つまり、この文の語り手を動物のネコと考える。ファンタジーだ。言うまでもなく、作品名としての『吾輩は猫である』の意味はこれだが、そのことは、本文を読み進んで「ニャーニャー」という言葉を見つけるまで判然としない。
- 「猫」を人名と考える。〈私はサザエ〉型。あだ名や芸名なども含む。
- 「猫」を比喩などと考える。〈私はカモメ〉型。〈クレージー・キャッツ〉の〈キャッツ〉は「ジャズ奏者」(『リーダーズ英和辞典』「cat」)という意味らしいが、この「猫」もそんなものと考える。『我輩はカモである』(マッケリー監督)は、鴨が語り手や主人公の映画ではない。この「カモ」は、「だまして、利用しやすい相手」(『明鏡国語辞典』「鴨」)という意味だ。原題の“Duck Soup”も〈いいカモ〉だろう。
- この文を舌足らずと考える。〈私はウナギ〉型。たとえば、〈「吾輩」が飼っているの「は」犬ではなくて「猫である」〉などの略と解釈する。〈「吾輩は猫」と呼ばれた子「である」〉の略かもしれない。『“It”(それ)と呼ばれた子』(ペルザー)を連想してもらいたい。『綿の国星』(大島弓子)のチビ猫も〈「猫」と呼ばれた子〉かもしれない。
- 「吾輩」を固有名詞と考える。『グーグーだって猫である』(大島弓子)をもじれば、《ワガハイだって猫である》となる。
「吾輩は猫である」という文を読んで①の意味しか考えられない人は幼稚だ。②は、実際にある。③を考慮しないのは、日本語をよく知らない人だ。④のように、あれこれ想像していたら、きりがない。⑤のように、「吾輩」を猫の名前として用いる論者は多い。私は、「吾輩」ではなく、〈ワガハイ〉と書く。
4000 『吾輩は猫である』から『三四郎』の前まで
4100 笑えない『吾輩は猫である』
4110 「吾輩は猫である」は意味不明
4112 「吾輩」は意味不明
「吾輩は猫である」という文は、〈猫のくせに「吾輩」なんて偉そうに言うから受ける~〉みたいに誤読されているらしい。現在、〈わがはい〉という言葉は「えらそうな一人称」(ふじいまさこ『日本人ですが、ただいま日本語の見習い中です!』)と思われている。デーモン閣下は「わがはい」と言う。ところが、相手が自分より偉い人だと、悪魔のくせして、「小生」と言う。使い分けの理由は容易に推測できる。
〈わがはい〉は謙譲語のはずだ。〈わがはい〉は複数だからだ。一人称の複数をあえて単数として用いた場合、本来の単数より格が下がるものだろう。たとえば、〈身共〉は〈身〉より格が下がる。ただし、謙譲語を不適切に用いると、かえって慇懃無礼になる。〈わがはい〉が尊大な印象を与えるとしたら、そのせいかもしれない。
違う例で考えよう。〈拙者〉の場合、「近世前期上方語でも、使用者はほぼ武士に限られ、目上に対して用いる、高い待遇価値を有した語であったと考えられるが、近世後期江戸語では、目下に対して用いた例も見られるところから、待遇価値は近世前期に比べて低くなっていると考えられる」(『日本国語大辞典』「拙者」)という。同様の変化が〈わがはい〉にも起きたのかもしれない。いつ、起きたのだろう。
<彼は身動きもしない。双眸(そうぼう)の奥から射る如き光を吾輩の矮小(わいしょう)なる額の上にあつめて、御めえは一体何だと云った。大王にしては少々言葉が卑(いや)しいと思ったが何しろその声の底に犬をも挫(ひ)しぐべき力が籠(こも)っているので吾輩は少なからず恐れを抱(いだ)いた。しかし挨拶(あいさつ)をしないと剣呑(けんのん)だと思ったから「吾輩は猫である。名前はまだない」となるべく平気を装(よそお)って冷然と答えた。然しこの時吾輩の心臓は慥かに平時よりも烈(はげ)しく鼓動しておった。彼は大に軽蔑(けいべつ)せる調子で「何、猫だ? 猫が聞いてあきれらあ。全(ぜん)てえ何(ど)こに住んでるんだ」随分傍若無人である。
(夏目漱石『吾輩は猫である』一)>
「彼」は「車屋の黒」というジャイアン・キャラの猫だ。
「大王」は「猫中の大王とも云うべき程の偉大なる体格」(『吾輩は猫である』一)から。
「平気を装(よそお)って」と「冷然と」は矛盾のよう。「御めえは一体何だ」に対して「吾輩は猫である」は杓子定規だ。「名前はまだ無い」は不要のようだが、この二文で「挨拶(あいさつ)」になる。
ワガハイは「心臓」が弱い。
「黒」はワガハイの「挨拶(あいさつ)」に怒っていないようだから、「吾輩」という言葉は、「黒」に対して尊大な印象を与えていないはずだ。だったら、この作品が発表される前まで、「吾輩」という言葉は「えらそうな一人称」ではなかったことになる。「黒」が「大に軽(けい)蔑(べつ)せる」理由は不明。どうして「あきれらあ」なのかも、不明。猫であることは一目瞭然だからか。両者の問答はかみ合っていない。作者の意図は不明。
「傍若無人」なのは「黒」であり、ワガハイではない。ところが、いつからか、日本人はワガハイのキャラを「傍若無人」みたいに誤読するようになった。『吾輩は猫である』が誤読された結果、「吾輩」の意味に変化が起きたのではなかろうか。
(4110終)