駅で、某生命保険のポスターを見た。能年玲奈さんがアップで写ってるやつ。うん、可愛い。それはいいんですが。キャッチコピーに驚いた。
「人生は、夢だらけ。」というメインコピーに、「人生、傷つく時もある/人生、泣きたいときもある/そんなときは/ま、さっさと忘れて、/スキップしよう/誰が何と言おうと、/人生は素晴らしい」(以下略)と続く。
この地に足がついてなさは尋常じゃない。ポエム度100点越えです。そうか、これが小田嶋隆さんの言う(そして常見陽平さんも)「ポエム化する社会」ということか!
と、言ってる私がポエマー歴30年なわけですが。
はい。自作詩を書き、朗読しつづけてる私ですからね。ポエムが嫌いなわけじゃないんです。「人生に夢なんかねえよ」って言いたいわけでもない。「人生は素晴らしい」うん。そう思うよ。でもそれをもうちょっと何か別の、ハッと目を覚ますような、胸をつかまれるような言葉で表現するのが詩でありコピーだと思うのですが。
で、帰ってからパソコンで同じ保険のCM動画を観た。能年さんがスローモーションで走ったり、ウェディングドレスで走ったり、「行けー!」って絶叫したり、バスを追いかけてさらに走ったりしてた。その映像にのせて例のポエムを朗読してた。
グッときた。
これは能年玲奈じゃなきゃ成り立たない! ナチュラルボーン女優な能年さんじゃなきゃ。ドラマを匂わすような場面をチラッチラッとみせながらつなげる、モンタージュという手法。ほかの俳優なら、なんとなく感動っぽいけど無難で印象に残らないものになってしまうでしょう(たしか高崎卓馬『表現の技術―グッとくる映像にはルールがある』で、こういうモンタージュCMが「保険会社の典型的ダメCMの例としてあげられてなかったっけ?)。
しかもこれ『あまちゃん』イメージを利用してるよね? これがグッとくるのは『あまちゃん』のあの濃ゆ~い物語があるからこそ。まるで天野アキの後日談や、アナザーストーリー(の予告篇)に見えるもの。つまり視聴者はあの『あまちゃん』の感動を反芻しながら、この映像をみることになるわけです。
はっきり言えばずるい。CMなんだから印象に残ればいいのだって言われたらそれまでだけど。
同じ「人生語るポエム系」CMなら、リクルートポイントの120秒CMのほうが作品としては好きなのです。「人生はマラソンじゃない」っていうやつ。そんなコピーをオリンピック時期(冬期だけど)にぶつけるロックさ加減も含めてね。それに比べて能年さんのほうは、女優の存在感と演技だけで惹き付けられてしまう。それがなんだか悔しい。ファンなだけに尚更。
それはそうと。
「社会のポエム化」はけっこう前から進んでいた気もする。たぶん、あの元芸人の路上詩人さんが登場したあたりから加速したんじゃないかな。90年代の終わりごろ…ああ、東京(の一部)でポエトリーリーディングが話題になった時期とも重なりますな。
たぶん詩が、というか言葉が、どんどんサプリメント化してるんだよね(って言ったのは誰だったっけ?)。映画や本の紹介に「泣ける」「笑える」「感動」「ハラハラ」「うっとり」みたいなタグがつくようになったのともシンクロする現象だと思うんだけど。「元気になる」「いやされる」「イライラがすっきりする」…という効能別にタブレットを飲むみたいに、手軽ですぐ効く言葉が求められている。特に「泣ける」サプリは人気が高いよね。それこそ映画も本も、アオリ文句といえば「泣ける」というのがもはやテッパンになっててさ。最近泣いてないなーと思ったときに、すぐ手に入って手軽に泣ける作品が売れる。
と、ここまで書いて思い出したのが、以前教えてもらったエーリヒ・ケストナーの『人生処方詩集』。「結婚が破綻したら」この作品を読め、「生活に疲れたら」この詩を…てな具合に用法が書いてある。心の悩みをやわらげる、家庭常備薬としての詩集。症状別にすぐ効くポエム、という発想はすでにケストナーが80年ほど前(ナチス政権下、彼の本が焚書の憂き目にあった時代!)に思いついていたんだなあ。
ただその時代から比べても、はるかに手軽さが進んでるよね。薬といえば昔は専門家が処方するものだったのが、どんどんカジュアル化して、薬だか食品だかわからないサプリメントが登場したみたいに。ココロが動かされるハードルがえらく下がったというか、ゆるくなったというか(あ、この場合は「心」じゃなくてカタカナね)。感情のスイッチがイージーになったという意味じゃ、サプリというよりアプリ!? いかにも芸術なイメージだった詩から手軽なポエムが生まれて、いまや詩もポエムも区別がつかなくなってるのかもしれないなあ。
そういや薬といえばプラシーボ効果ってのがあったけ。ただのビタミン剤でも小麦粉でも、薬と思って服用すれば病気が治っちゃう。スカスカの言葉でも「感動しよう」と思って読めばうるうるしてくる。『ポエムに万歳!』のまえがきで小田嶋氏が「読む前に、感動しながら、読み進めてほしい。それこそがポエムの要諦だ」って書いてたけど、なるほどそういうことか。
あるいは東浩紀氏が言った「動物化」という言葉も連想できるかも。たしか「萌え」について「動物化」という言葉で説明していたと思うのだけど(詳しくは不勉強でごめんなさい)。「ネコ耳」「妹属性」「ツンデレ」…といった細分化された欲求とその消費行動がマニュアル化されているように、「泣きたい」「笑いたい」「感動したい」という欲求と消費行動もマニュアル化されている。そしてその欲求に瞬時に機械的に応えるポエム。動物化する詩。いや萌え化する詩?
なんて。思いつくまま脱線気味に書いてきたけど、ま、こんな分析(妄想)が的を得ていようが的外れだろうが、社会のポエム化、言葉のサプリ化はそう簡単には止まらない気がする。サプリなポエムも嫌いじゃない。だけどもう少しじっくり深く、長くかかってもふと気づけば体の芯があったまっているような、漢方薬みたいな詩もあったほうがいい。
ん、お前がやれって? はい。
「人生は、夢だらけ。」というメインコピーに、「人生、傷つく時もある/人生、泣きたいときもある/そんなときは/ま、さっさと忘れて、/スキップしよう/誰が何と言おうと、/人生は素晴らしい」(以下略)と続く。
この地に足がついてなさは尋常じゃない。ポエム度100点越えです。そうか、これが小田嶋隆さんの言う(そして常見陽平さんも)「ポエム化する社会」ということか!
と、言ってる私がポエマー歴30年なわけですが。
はい。自作詩を書き、朗読しつづけてる私ですからね。ポエムが嫌いなわけじゃないんです。「人生に夢なんかねえよ」って言いたいわけでもない。「人生は素晴らしい」うん。そう思うよ。でもそれをもうちょっと何か別の、ハッと目を覚ますような、胸をつかまれるような言葉で表現するのが詩でありコピーだと思うのですが。
で、帰ってからパソコンで同じ保険のCM動画を観た。能年さんがスローモーションで走ったり、ウェディングドレスで走ったり、「行けー!」って絶叫したり、バスを追いかけてさらに走ったりしてた。その映像にのせて例のポエムを朗読してた。
グッときた。
これは能年玲奈じゃなきゃ成り立たない! ナチュラルボーン女優な能年さんじゃなきゃ。ドラマを匂わすような場面をチラッチラッとみせながらつなげる、モンタージュという手法。ほかの俳優なら、なんとなく感動っぽいけど無難で印象に残らないものになってしまうでしょう(たしか高崎卓馬『表現の技術―グッとくる映像にはルールがある』で、こういうモンタージュCMが「保険会社の典型的ダメCMの例としてあげられてなかったっけ?)。
しかもこれ『あまちゃん』イメージを利用してるよね? これがグッとくるのは『あまちゃん』のあの濃ゆ~い物語があるからこそ。まるで天野アキの後日談や、アナザーストーリー(の予告篇)に見えるもの。つまり視聴者はあの『あまちゃん』の感動を反芻しながら、この映像をみることになるわけです。
はっきり言えばずるい。CMなんだから印象に残ればいいのだって言われたらそれまでだけど。
同じ「人生語るポエム系」CMなら、リクルートポイントの120秒CMのほうが作品としては好きなのです。「人生はマラソンじゃない」っていうやつ。そんなコピーをオリンピック時期(冬期だけど)にぶつけるロックさ加減も含めてね。それに比べて能年さんのほうは、女優の存在感と演技だけで惹き付けられてしまう。それがなんだか悔しい。ファンなだけに尚更。
それはそうと。
「社会のポエム化」はけっこう前から進んでいた気もする。たぶん、あの元芸人の路上詩人さんが登場したあたりから加速したんじゃないかな。90年代の終わりごろ…ああ、東京(の一部)でポエトリーリーディングが話題になった時期とも重なりますな。
たぶん詩が、というか言葉が、どんどんサプリメント化してるんだよね(って言ったのは誰だったっけ?)。映画や本の紹介に「泣ける」「笑える」「感動」「ハラハラ」「うっとり」みたいなタグがつくようになったのともシンクロする現象だと思うんだけど。「元気になる」「いやされる」「イライラがすっきりする」…という効能別にタブレットを飲むみたいに、手軽ですぐ効く言葉が求められている。特に「泣ける」サプリは人気が高いよね。それこそ映画も本も、アオリ文句といえば「泣ける」というのがもはやテッパンになっててさ。最近泣いてないなーと思ったときに、すぐ手に入って手軽に泣ける作品が売れる。
と、ここまで書いて思い出したのが、以前教えてもらったエーリヒ・ケストナーの『人生処方詩集』。「結婚が破綻したら」この作品を読め、「生活に疲れたら」この詩を…てな具合に用法が書いてある。心の悩みをやわらげる、家庭常備薬としての詩集。症状別にすぐ効くポエム、という発想はすでにケストナーが80年ほど前(ナチス政権下、彼の本が焚書の憂き目にあった時代!)に思いついていたんだなあ。
ただその時代から比べても、はるかに手軽さが進んでるよね。薬といえば昔は専門家が処方するものだったのが、どんどんカジュアル化して、薬だか食品だかわからないサプリメントが登場したみたいに。ココロが動かされるハードルがえらく下がったというか、ゆるくなったというか(あ、この場合は「心」じゃなくてカタカナね)。感情のスイッチがイージーになったという意味じゃ、サプリというよりアプリ!? いかにも芸術なイメージだった詩から手軽なポエムが生まれて、いまや詩もポエムも区別がつかなくなってるのかもしれないなあ。
そういや薬といえばプラシーボ効果ってのがあったけ。ただのビタミン剤でも小麦粉でも、薬と思って服用すれば病気が治っちゃう。スカスカの言葉でも「感動しよう」と思って読めばうるうるしてくる。『ポエムに万歳!』のまえがきで小田嶋氏が「読む前に、感動しながら、読み進めてほしい。それこそがポエムの要諦だ」って書いてたけど、なるほどそういうことか。
あるいは東浩紀氏が言った「動物化」という言葉も連想できるかも。たしか「萌え」について「動物化」という言葉で説明していたと思うのだけど(詳しくは不勉強でごめんなさい)。「ネコ耳」「妹属性」「ツンデレ」…といった細分化された欲求とその消費行動がマニュアル化されているように、「泣きたい」「笑いたい」「感動したい」という欲求と消費行動もマニュアル化されている。そしてその欲求に瞬時に機械的に応えるポエム。動物化する詩。いや萌え化する詩?
なんて。思いつくまま脱線気味に書いてきたけど、ま、こんな分析(妄想)が的を得ていようが的外れだろうが、社会のポエム化、言葉のサプリ化はそう簡単には止まらない気がする。サプリなポエムも嫌いじゃない。だけどもう少しじっくり深く、長くかかってもふと気づけば体の芯があったまっているような、漢方薬みたいな詩もあったほうがいい。
ん、お前がやれって? はい。