ポエ活

村田活彦 a.k.a.MC長老のブログ。ポエトリー・スラム・ジャパン代表。ラップスクール2期生。

ポエム化する社会、サプリ化する言葉

2014年02月22日 08時55分25秒 | ポエトリーリーディング/詩/朗読
駅で、某生命保険のポスターを見た。能年玲奈さんがアップで写ってるやつ。うん、可愛い。それはいいんですが。キャッチコピーに驚いた。

「人生は、夢だらけ。」というメインコピーに、「人生、傷つく時もある/人生、泣きたいときもある/そんなときは/ま、さっさと忘れて、/スキップしよう/誰が何と言おうと、/人生は素晴らしい」(以下略)と続く。

この地に足がついてなさは尋常じゃない。ポエム度100点越えです。そうか、これが小田嶋隆さんの言う(そして常見陽平さんも)「ポエム化する社会」ということか!

と、言ってる私がポエマー歴30年なわけですが。


はい。自作詩を書き、朗読しつづけてる私ですからね。ポエムが嫌いなわけじゃないんです。「人生に夢なんかねえよ」って言いたいわけでもない。「人生は素晴らしい」うん。そう思うよ。でもそれをもうちょっと何か別の、ハッと目を覚ますような、胸をつかまれるような言葉で表現するのが詩でありコピーだと思うのですが。


で、帰ってからパソコンで同じ保険のCM動画を観た。能年さんがスローモーションで走ったり、ウェディングドレスで走ったり、「行けー!」って絶叫したり、バスを追いかけてさらに走ったりしてた。その映像にのせて例のポエムを朗読してた。

グッときた。

これは能年玲奈じゃなきゃ成り立たない! ナチュラルボーン女優な能年さんじゃなきゃ。ドラマを匂わすような場面をチラッチラッとみせながらつなげる、モンタージュという手法。ほかの俳優なら、なんとなく感動っぽいけど無難で印象に残らないものになってしまうでしょう(たしか高崎卓馬『表現の技術―グッとくる映像にはルールがある』で、こういうモンタージュCMが「保険会社の典型的ダメCMの例としてあげられてなかったっけ?)。

しかもこれ『あまちゃん』イメージを利用してるよね? これがグッとくるのは『あまちゃん』のあの濃ゆ~い物語があるからこそ。まるで天野アキの後日談や、アナザーストーリー(の予告篇)に見えるもの。つまり視聴者はあの『あまちゃん』の感動を反芻しながら、この映像をみることになるわけです。

はっきり言えばずるい。CMなんだから印象に残ればいいのだって言われたらそれまでだけど。

同じ「人生語るポエム系」CMなら、リクルートポイントの120秒CMのほうが作品としては好きなのです。「人生はマラソンじゃない」っていうやつ。そんなコピーをオリンピック時期(冬期だけど)にぶつけるロックさ加減も含めてね。それに比べて能年さんのほうは、女優の存在感と演技だけで惹き付けられてしまう。それがなんだか悔しい。ファンなだけに尚更。


それはそうと。

「社会のポエム化」はけっこう前から進んでいた気もする。たぶん、あの元芸人の路上詩人さんが登場したあたりから加速したんじゃないかな。90年代の終わりごろ…ああ、東京(の一部)でポエトリーリーディングが話題になった時期とも重なりますな。

たぶん詩が、というか言葉が、どんどんサプリメント化してるんだよね(って言ったのは誰だったっけ?)。映画や本の紹介に「泣ける」「笑える」「感動」「ハラハラ」「うっとり」みたいなタグがつくようになったのともシンクロする現象だと思うんだけど。「元気になる」「いやされる」「イライラがすっきりする」…という効能別にタブレットを飲むみたいに、手軽ですぐ効く言葉が求められている。特に「泣ける」サプリは人気が高いよね。それこそ映画も本も、アオリ文句といえば「泣ける」というのがもはやテッパンになっててさ。最近泣いてないなーと思ったときに、すぐ手に入って手軽に泣ける作品が売れる。


と、ここまで書いて思い出したのが、以前教えてもらったエーリヒ・ケストナーの『人生処方詩集』。「結婚が破綻したら」この作品を読め、「生活に疲れたら」この詩を…てな具合に用法が書いてある。心の悩みをやわらげる、家庭常備薬としての詩集。症状別にすぐ効くポエム、という発想はすでにケストナーが80年ほど前(ナチス政権下、彼の本が焚書の憂き目にあった時代!)に思いついていたんだなあ。

ただその時代から比べても、はるかに手軽さが進んでるよね。薬といえば昔は専門家が処方するものだったのが、どんどんカジュアル化して、薬だか食品だかわからないサプリメントが登場したみたいに。ココロが動かされるハードルがえらく下がったというか、ゆるくなったというか(あ、この場合は「心」じゃなくてカタカナね)。感情のスイッチがイージーになったという意味じゃ、サプリというよりアプリ!? いかにも芸術なイメージだった詩から手軽なポエムが生まれて、いまや詩もポエムも区別がつかなくなってるのかもしれないなあ。

そういや薬といえばプラシーボ効果ってのがあったけ。ただのビタミン剤でも小麦粉でも、薬と思って服用すれば病気が治っちゃう。スカスカの言葉でも「感動しよう」と思って読めばうるうるしてくる。『ポエムに万歳!』のまえがきで小田嶋氏が「読む前に、感動しながら、読み進めてほしい。それこそがポエムの要諦だ」って書いてたけど、なるほどそういうことか。


あるいは東浩紀氏が言った「動物化」という言葉も連想できるかも。たしか「萌え」について「動物化」という言葉で説明していたと思うのだけど(詳しくは不勉強でごめんなさい)。「ネコ耳」「妹属性」「ツンデレ」…といった細分化された欲求とその消費行動がマニュアル化されているように、「泣きたい」「笑いたい」「感動したい」という欲求と消費行動もマニュアル化されている。そしてその欲求に瞬時に機械的に応えるポエム。動物化する詩。いや萌え化する詩?



なんて。思いつくまま脱線気味に書いてきたけど、ま、こんな分析(妄想)が的を得ていようが的外れだろうが、社会のポエム化、言葉のサプリ化はそう簡単には止まらない気がする。サプリなポエムも嫌いじゃない。だけどもう少しじっくり深く、長くかかってもふと気づけば体の芯があったまっているような、漢方薬みたいな詩もあったほうがいい。


ん、お前がやれって? はい。



女子スキージャンプからポエトリーリーディングを連想する

2014年02月11日 23時25分14秒 | ポエトリーリーディング/詩/朗読

テレビのオリンピック特番みてたら、女子スキージャンプの高梨沙羅選手が感謝の言葉をのべていた。

「先輩たちのおかげです」

山田コーチほか、女子ジャンプのパイオニア選手達の戦いがあったからこそ、今日の女子ジャンプがある。

で、それを観ながら連想したのが「私がやってるポエトリーリーディングも、先駆者たちがいてこそだよなあ」ということだった。


いや、連想にしてもちょっとずれてるんですよ。我田引水にもほどがある、というか。ポエトリーリーディングとスキージャンプではジャンル違い過ぎだし。そもそも誰がリーディング界のタカナシサラやねん、という話だし。


ただね、自分が憧れたもの、影響を受け、学んだひとたちに感謝して自分もまたその延長線上にいるんだと意識すること。それってすごく大事なことだと思う。

たとえば私がリーディングをはじめたのは、90年代も終わりのころ。南青山にあったオージャスラウンジというクラブのオープンマイクだった。そこで出会った「先駆者たち」のカッコいいパフォーマンスを見たから、今日ここまで続けているわけです。


自分につながる物語を、自分の実感や実体験のなかでつかんでいくこと。

もっと大きな、得体のしれない、上から与えられるような物語に飲み込まれるんじゃなくてさ。


3月もポエトリーリーディング!ライブ情報です。

2014年02月05日 00時14分06秒 | ポエトリーリーディング/詩/朗読
2月になったばかりですが、来月のライブ告知させてください。

●3月2日(日)高円寺・アバッキオ
東京国際文芸フェスティバル2014サテライト企画「詩×旅~詩の図書館と旅する詩集~」の一環として、この日はリーディングライブデーです。何人か出演されますが、村田の出番は16時から。

「詩×旅」のイベント自体は2/28~3/9まで続きます。ライブやトークイベントのほか、『リブライズ』の協力のもと、詩の図書館をつくるという企画も。詩集の寄贈を募って、その本が送られて来た場所と会場の距離に応じて展示を行うらしい。「旅する詩集」ってわけですね。ベタでいいなあw

私もすでにいろんな手作り詩集を納品してきました。10年以上前、ニューヨリカンポエツカフェで入手したN.Y.ストリート詩人たちの詩集とか、つくば市で行われていたオープンマイク「ポエマホリックカフェ」の詩集とか。フリーペーパー「リーディングプレス」のバックナンバーとか。2000年のウエノポエトリカンジャムのプログラムまでw 興味あるひとにはかなり面白いと思います!


●3月16日(日)相模原・メイプルホール
「愛をつなごう!文化祭!!」。大森の石巻マルシェからのご縁で、シンガー・柚季純さんに誘っていただいたチャリティイベント。柚季さんは石巻の仮設住宅などでチャリティライブを続けている方。震災から間もなく3年ですが、やるべきこと考えるべきことはまだまだあります。


●3月23日(日)渋谷・フライングブックス
毎春恒例となった、カワグチタケシさんとの朗読ふたり会。題して『空飛ぶ同行二人 新生篇』 18:30開場 19:00開演。予約1300円/当日1500円(ともに1ドリンク付き)です。予約はこちらからどうぞ。

自分のパフォーマンスもさることながら、カワグチさんのリーディングをぜひ聴いて欲しい! 正直に言えば、ポエトリーリーディングに興味があって東京にいて、カワグチタケシの朗読を聴いたことがないひとがいるというのが信じられないくらいです、私には! 


そしていよいよ4月には初のアルバムCD発売予定です。そちらも順調に進行中。

あ、そうだ。新しいフリーペーパー詩集も作ったのでした。都内で配布を始めていますが、ご希望があれば送ります!あるいは直接お渡しにうかがいます! ご連絡くださいませませ。


泣いてばかりいた男の子のはなし

2014年02月01日 10時09分32秒 | ポエトリーリーディング/詩/朗読
春の完成をめざして、ポエトリーリーディングのアルバムレコーディングを進めています。昨日は『泣き虫フーガ』という作品を収録してきました。泣いてばかりいた男の子の話。架空の町の昔ばなし。

詩を書くとき、たいていは「こういうものを作ろう」と決めて推敲していくわけですが、ごくまれにあたまから終りまで一気に書き上がってしまうようなことがあります。これはそういう作品のひとつ。あとになるとなぜこれができたか自分でもよくわからない妙な感じがします。

とはいえ別世界から降ってわいたわけでもなく、どこかで自分とつながっていたりもします。『泣き虫フーガ』の場合は、ひとつには宮澤賢治の言葉がきっかけでした。『雨ニモマケズ』で、「ミンナニ デクノボートヨバレ」…そういう者に私はなりたい、とあるでしょう? それはどういうことなのか、昔からずっと気になっていました。日照りの時は涙を流し、寒さの夏はおろおろ歩くだけの弱い存在。そういうものに「なりたい」と賢治が考えたのはなぜだったのか。今も答えは出ていないのですが。

ただ、弱い人間が弱いまま、だけど一瞬でも命の輝きをみせるような話が作れないかと思ったのです。弱い者が強くなる成長物語ならたくさんあります。でも弱く、小さく、一見役に立たないように思える存在にだって物語はあるはず。

そしてそれを架空の、だけど懐かしいような世界のなかで描けたら、と考えたのです。つまり賢治にとってのイーハトーブのような。『泣き虫フーガ』の舞台にも、自分にとって馴染みのある町のイメージが重ねてあります。

もし、読んでもらえたら、聴いてもらえたら幸いです。

『泣き虫フーガ』(リンク先:現代詩フォーラム)