ポエ活

村田活彦 a.k.a.MC長老のブログ。ポエトリー・スラム・ジャパン代表。ラップスクール2期生。

ドメスティック野郎

2006年05月30日 23時53分47秒 | 日々
つまるところ私は
言葉の使い方についこだわってしまう
ということなのだろう。

日本語を正しく、とはけして言わないが
もうちょっと誠実に使おうよ、ということ。

生まれ育った風土や共同体への愛着という意味だって
確かにあるんだろうけど
現代の日本語で「愛国心」と言ったときには
どうしても国家主義とかナショナリズムのイメージが
ついてしまってるでしょ、
故郷を愛する心=「愛郷心」ってのと、「愛国心」とを
一緒にしちゃうのはそれはちょっと無茶なんじゃないの、
ということ。

まあ百歩譲って「愛郷心」=「愛国心」だとしても
それを法律に組み込んで根付かせようなんざ
そんなんすでに「愛」とは呼ばんだろう、と。


でね、さらに考えるに

この「愛国心」という話題に関して
日本語としてのあり方がまず気になってしまう感覚ってのも
新聞の三面記事ばかり気になって
国際面を読み飛ばしてしまうようなもんで

私もけっこうドメスティックな奴だよね。







だから愛国心って何よ?

2006年05月30日 00時53分32秒 | 日々
いやね、国の愛し方ってのがわからんのよ。

わたしは自分が生まれ育った町
つまり高松とか神戸とか川西とか、
池袋や吉祥寺や下馬とか中野とかを愛してるし
両親や兄弟、出会ってきた人、大切な人、友人たちを
確かに愛していると言えるし
和太鼓の腹に響く音が好きだし
日本神話のとんでもなく破天荒なヒーローたちが大好きだし
湿度が高くて嫌われがちな日本の夏だって好きだし
なにより日本語の詩や小説やマンガや歌や映画や演劇を
いやなにより日本語そのものを愛していて
実は憎みもしてるけど結局離れられないし
日本の女の子を可愛いと思うし
米の飯を口にするたびに幸せを感じて
自分のいるこの場所と時間とそこにつながる人々を愛するけど

「国」なんていうものをどうやって愛せばいいのか、
わたしにはわからんのです。
制度でしょ、ただの。


この深くて豊かな心のありようを
「愛国心」なんてつまらん言葉にすり替えないでほしいのです。





『アマテラス』ふたたび

2006年05月28日 01時31分29秒 | 音楽
ということで、また行ってきました。
坂東玉三郎と鼓童のジョイントライブ
『AMATERASU アマテラス』@世田谷パブリックシアター。
本日は立見席。

昨日、後半しか観られなかったときには
忘れていたことがひとつ。

玉三郎がアマテラスなら
鼓童にだってあらぶる神=スサノオに相応しい人物が
いるじゃありませんか。
大太鼓一筋の男、藤本吉利(よしかず)さんがその人。

前半のアマテラスとスサノオの対決は
藤本さんが歌舞伎の荒事よろしく舞台を駆け、
なだめようとする玉三郎にかまわず
嵐のごとく大太鼓を打ち鳴らす。

そうそう、そうなのだ。
鼓童にはにぎやかな宴の太鼓がたくさんある一方、
藤本さんが叩く「大太鼓」だけは
太鼓の求道者というか、鬼神というか
とにかくちょっとやそっとでは近寄りがたいような
凄まじさなのだ。

それにしても
藤本さんが全身で息をして
時に「セイッ」とも「ヤッ」ともつかない声を発するのに
玉三郎はどれだけ舞っても息が乱れない。さすが。

やがてアマテラスが岩屋戸に隠れ、
舞台に闇が降りてもなお
太鼓を叩き続けるスサノオ。
しまいには太鼓も消え、バチも奪われて
暗転の中にひとり残される。
自分のせいで世界が闇に閉ざされたことに初めて気づいて
呆然とたちつくす。
このちょっとした新解釈が心憎い。


あとね、この舞台って
「三宅」「屋台囃子」「モノクローム」「大太鼓」などなど
鼓童のレパートリーがダイジェストで聴けるようになってるのね。
そういう意味では
鼓童コンサートの入門編としても最適かも。


立ち見なら3,500円です。
足元から、心臓から震えるような体験をしたければ、是非!!






矢沢永吉×甲本ヒロト

2006年05月27日 11時44分30秒 | 音楽
読め。

今週号の「ぴあ」
ヒロトと永ちゃんが対談やってるから
ぜっっってー読め。

「あなた、バンドやったほうがいいよ。
 いい友達がいるんだし」(矢沢)
「ぼくがまたバンドやるときには、
 “永ちゃんがやれっていった”っていえる」(ヒロト)

ね、これだけでもうすごいっしょ!?
グッと来るでしょ!?
これがロックだよなあ。

いつもの「矢沢」の顔で決めた永ちゃんの横で
くしゃっとわらってるヒロトの顔がいーんだ、また。

この対談を取材したぴあの島田さん、えらい。最高。
写真とシンプルなスミ文字だけのレイアウトも最高。
対談ってのはこうでなくっちゃね。




からだの奥で
「どうしてお前は自分の好きなもののために生きようとしないのか」
という声がする





坂東玉三郎・鼓童『アマテラス』

2006年05月27日 01時03分29秒 | 音楽
いやあ、贅沢だった。

三軒茶屋の世田谷パブリックシアターで
坂東玉三郎と鼓童の公演
『AMATERASU アマテラス』を観る。
仕事が片付かなくて
着いたときにはすでに第二部が始まってたんですけど。

要するに「天岩屋戸」のお話。
アマテラスが岩屋戸に隠れたので、
困った神々は宴をして
アメノウズメのセクシーダンスで大フィーバー、
何事かとアマテラスは岩屋戸を開けて
光が戻ってめでたしめでたし、というあれを
舞と太鼓と歌で見せるわけです。

当然、玉三郎がアマテラスね。

こうやって書くと単純でしょ。
でも神話というきわめてシンプルかつ普遍的な題材だからこそ
いろんな角度から味わえる。懐が深い。
もちろん玉三郎には歌舞伎、
鼓童には音楽芸能の歴史と伝統があり
何百回と舞台に立ったものだけが持つ
ゆるぎなさがあってこそですけど。

ふだんから鼓童のライブって「祝祭」だと思うんだけど、
今回はアマテラス=玉三郎という神がいることで
それがよりハッキリと伝わった。
そうなんだよね。祭ってこういうことだよね。
神様とか自然とか、
とにかく怖れ敬う大きな何かに対して
太鼓を叩き歌を歌い舞を舞ってもてなす。
災いがおさまるようお願いしたり
無事であることを感謝したりする。


ひとつ面白かったのが、
アマテラスが岩屋戸から出てきたとき
ふっと太鼓の音が止む。
熱狂のあまり倒れたアメノウズメ(=小島千絵子さん)も
アマテラスを畏れて逃げてしまう。
このときの玉三郎のふっと沈んだ表情がよかった。

神も寂しいのだ。

やがて音楽が戻り、ウズメたちの踊りも戻って
フィナーレへ向かうんだけど、
賑やかに太鼓を打ち踊る人々を
アマテラスが目を細めてみてる。
「人間って楽しそう」という感じ。

「神が人間に憧れる瞬間」とでもいうのかな。
それは歌舞伎という世襲の世界にいる玉三郎から
より大衆芸能な鼓童への憧れかも、と思ったり。

そんなアマテラスに
ウズメは太鼓のバチさばきを教えてみせる。
嬉々として真似るアマテラス。そんな演出も面白い。
アマテラスの衣装が純白に金ラメなのに対し
ウズメはコリアン風味でカラフル。髪には椿の髪飾り。

でも考えてみれば
歌舞伎のルーツが出雲阿国とか遊女歌舞伎だとすれば
それってアメノウズメ直系。
女の傾き者(カブキモノ)なわけです。
玉三郎がウズメに踊りを教わる図ってのも
ある意味なーるほど、ですよね。

6/4までパブリックシアター。
6/9から6/25までは京都南座。

パブリックシアターは当日券あるそうなので
また行こうっと。






『さよなら絶望先生』久米田康治

2006年05月26日 00時15分40秒 | マンガ
「世の中に正しくツッコミを入れる」という意味で
忘れちゃいけないマンガがもうひとつ。

『さよなら絶望先生』久米田康治

生ものですのでお早めにお読みください。

そう。時事ネタギャグはすぐに風化するのだ。
しかも週刊連載。文字通り身を削って描いているかと思うと
涙なしには読めません。あれ?


それはそうと、このタイトルって
『さよなら!!岸壁先生』のもじりですね。きっと。
そんなの「少年チャンピオン」全盛期世代しか
わかりませんね。はい。










嘲うのでなく、笑うのだ。

2006年05月24日 00時27分27秒 | 日々
こないだからちょっと気になり続けているので
しつこく書きますが

「ふざけた現実」に対して
それ以上にふざけた態度でもって対抗すること。
それが太田光と西島大介の共通点であり
私がふたりに憧れる理由でもあるわけです。

こないだ書き忘れたけど
西島さんはそのへんのことを
アニメ『マクロス7』の主人公・熱気バサラを引き合いにして
コラムに書いてます。
バサラが「戦闘なんてくだらないぜ、俺の歌を聴けー!」と叫ぶシーンが
最高に笑えるって。
確かに笑える。しかもスカッとする。

そのコラムは
『土曜日の実験室 詩と批評とあと何か』に収録されてるので必読。


そして
もうひとつ思い出したこと、
それは、会社の友人の言葉。

イラク攻撃が始まったときのこと。
「あれだけ世界的に反戦デモが起こったのに
何の役にも立たなかったのだろうか」というようなことを
メールに書いた。

そしたら、こんな返事が来た。

「確かに最近、おかしな事が多すぎる。
そして、おかしいときには笑わなきゃいけない」


名言だ。

世の中、自分も含めて
笑うことが下手になっている気がする。
嘲うことばかり上手くなってる。

おかしな現実がまかり通りすぎて
ちゃんと可笑しがることができなくなってるんじゃないか。

笑うべきときにちゃんと笑うこと。
嘲うのではなく、笑い飛ばすこと。

心身の健康のためにも、ね。






J.マスシスのソロ

2006年05月22日 10時01分20秒 | 音楽
J.マスシス(もしくはマスキス)はお好き?
ダイナソーJrってバンドのフロントマンなんですけど。

いやね、ソロアルバムが出てたのを
この間初めて知りまして。
原マスミライブの客入れBGMで。

いろいろびっくり。

ダイナソーJrといえばグランジの雄、
J.マスシスといえば無気力大王、轟音ギター魔神、瀕死の重戦車
という風だったはずだが

この新譜ってば
アコースティックでオーガニックで地球に優しいんですもの。

ま、J.マスシスのボーカルは相変わらずダルなので
ダメ人間のロハス生活という感じ。クセになりそ。







○○である前に

2006年05月22日 10時00分27秒 | 日々
いつも乗換えをする駅のコンコースに
テーラーメイドというゴルフ用品会社のポスターが
連張りされている。

キャッチーコピー曰く、
「普通のサラリーマンである前に、私はひとりのゴルファーだ」

いるんですよ、こういう人が実際。

会社のデスクで何やってるかと思えば
ゴルフ雑誌読むかゴルフサイトチェックしてるかじゃん、おっさん!

まずは「普通のサラリーマン」であってくれ。







『アトモスフィア』西島大介

2006年05月20日 15時30分58秒 | マンガ
少し前に、
「あらゆることを『ありえる』と思うのが大人」
というようなことを書きましたが

やっぱりそれじゃあ駄目なんじゃないか。

西島大介の新刊『アトモスフィア』(全2巻)を読んで
そう思う。

主人公は「ふざけんな」と言わない女の子。

恋人が自分の部屋でほかの女と寝ていても、
その女が自分の分身(ドッペルゲンガー)でも
やがて分身現象が世界中で多発するようになっても

「ふざけんな」とは言わない。
「あらかじめ全てを赦してやってる」から。

てな感じで
とんでもなくSFなストーリーが
淡々と進んでいく、と思いきや。

やられた。
あのラスト。
なんなのだ一体。
「想像を超える結末」という言い方じゃ
全然足りない。
ぶっ壊れてます。


あまりにとんでもなく
あまりに馬鹿馬鹿しい現実を前に
「ありえなーい」と視界から追いやるのではなく
「ありえる」と受け入れてしまうのでもなく
「ふざけんな」と正しくツッコミを入れること。

もしくは
「ふざけた現実」以上にふざけた態度でもって対抗すること。
しかもそれを芸として見せること。
(これは太田光の受け売りですが)

西島さんはそれを実践できる
いまどきまっとうな表現者のひとりなのだな。