番外編 1 高尾団地取り壊し始まる続編です。初めての方は番外編 1 もお読みください。
平成28年10月19日高尾団地に行きました。9月21日から約1ヶ月経っているのですが
北面は最上階まで足場だけは、組み上がっているのですが
南面は足場もまだのようで
しかし、大将軍駅に上る階段とエスカレーターの上には瓦礫が積もって解体工事は始まっているようです。
南西角の2階建の低層部分はユンボで破砕されています。低層部分を解体してから10階までの足場を組むようです。
低層部分が除去された開口部からはモノレールの軌道とプラットホームが見えます。
今日はモノレールの手柄山駅(モノレールの展示室)に行きます
大将軍駅を出たモノレールは方向を変え船場川に沿って南下します。市街地では危険防止のため軌道の撤去が進んで
いますが船場川沿いは軌道が見られるところが多いです。(廃線マニアでないので写真は1枚だけです。)
姫路水族館(山の上の水族館として地味ながら少し知られた存在です。ウミガメの研究でマスコミにも時々登場し
ます。季節の話題程度ですが。)の入口が展示場です。モノレールの手柄山駅の軌道階が水族館の入口でホーム階は
その上です。モノレールを見るだけなら無料です。良心的です。勘ぐれば無料の施設なら赤字を追求される心配があ
りません。(鉄ちゃんではありません。あくまでも高尾団地のお話ですの車両の説明はありません。)
モノレールの姫路駅です。仮設駅です。本格的な姫路駅は作られないまま廃線になってしまいました。駅のイメージ
はよく出ています。
大将軍駅です。おそらく予算の限られた中、なかなかの力作ですが、姫路モノレールを近代産業遺産として残すためには
資料と記憶の有るうちに大将軍駅の大きな模型を作っていただきたいと思います。それに柱の数が間違ってませんか?
手柄山駅です。手柄山のイメージで色々な施設が寄せ集めて有ります。
手柄山駅の屋上から見た、姫路城と高尾団地です。南面の足場がまだ組み上がっていないので曇っているのが残念
ですが最後の勇姿です。高尾団地の廊下の窓からは姫路城がよく見えていたのですがこんなにビルにかこまれてし
まっていたのですねえ。新幹線の下の電車が走っているのが在来線の高架です。高尾団地の完成当時は在来線のは
地上を走っていましたが今と違って新幹線も高い建物も有りませんでしたので電車の窓からは大都会を思わす巨大な
高尾団地が見えたはずです。
右下に見えるのはモノレールの軌道です。この後の船場川から離れ手柄山駅までの間は駐車場の整備等で軌道・
橋脚ともに全て撤去されています。
慰霊塔の北の目立たないところに建つモノレールを作った石見元秀市長の銅像です。左手に巻いた図面を持って
います。昭和21年7月市長に就任、昭和22年4月初代の公選市長となり以後5期20年間市長を務めました。
昭和42年4月モノレールの営業不振で選挙に敗れるまでは‥‥。
石見元秀市長と言えば手柄山の太平洋戦全国戦災都市空爆戦没者慰霊塔(写真 左)や名古山霊園の仏舎利塔
(写真 右)とお墓ばかり作ったイメージがありますが‥‥
焦土の中、市長に就任した石見元秀市長は、市民が食うや食わずの生活者をしている中、姫路市の年間予算を
超える大金を使って大手前通を作ってしまいました。今、私達が普通に見ている風景はその発想力と決断の賜物
です。(お城がメインに写っていますが手前の道が大手前通です)昔は大手前通とは言わずに50メートル道路と
言ってましたが100メートル道路の構想もあったようです。移転問題等で実際に着工できたのは昭和24年、完成
したのは昭和32年2月です。
こちらは残った「下駄履き住宅」 市街地改造事業(船場地区)
「下駄履き住宅」(詳しくは番外編 1 をご覧ください)とは高尾団地のように住宅ビルの低層部に店舗・事務所
等の施設があるもので、店舗・事務所等を下駄にたとえて住宅が下駄を履いている「下駄履き住宅」と昔は呼んで
いました。
船場地区は、姫路城総構の西に位置し城外ではありますが、東西に西国街道が走り、南北に船場川(水運)また
姫路御坊とも呼ばれる船場本徳寺の有る江戸時代から商人の町として栄えた所です。姫路城の中堀が埋め立てられ
て国道2号線となり、その延長で船場地区では西国街道の少し南を通りました。2車線の当時の人々がびっくりす
るような立派な道路でしたが車社会の到来と共に渋滞と排気ガス問題に悩まされることになります。車社会の
解決策の一つが姫路モノレールで有った訳でありますが船場地区では国道2号線の27メートルへの拡幅4車線化が
計画されました。昭和36年11月船場地区市街地改造計画が策定され、地方都市では初めての市街地改造事業が
開始されました。昭和39年9月の琴岡ビルの着工から昭和47年5月の船場東ビルの完成まで約8年の大事業で
した。この間に市長は石見元秀市長から吉田戸豊信市長に替わっていました。
市街地改造事業は写真のように高層化により道路などの公共用地を確保すると共に街の不燃化を実現し、土地の
高度利用をはかるものです。道路の拡張で立ち退きとなった建物は1・2階は店舗・事務所等、3・4階は住宅
のビル「下駄履き住宅」(写真 左)となっています。船場地区では600メートル余りにわたって西から、琴岡ビル
・船岡ビル・日新ビル・元町西ビル・元町東ビル(以上4階建)船場西ビル・船場東ビル(各7階建)のビルが
連なります。(写真 左 は日新ビルから東部分です。)
ここに来て一つ疑問が出てきました。道路の拡張だけでは4階建でいいのではないのでしょうか。なぜ7階建なの
でしょうか。右の写真の石垣は中堀に面した西の端の門、埋門の石垣です。以前は中堀の土塁に沿って家が建って
いました。これらの人々の移転先を確保するため7階建になったのではないのでしょうか。(この部分は推測です)
ここに一つの都市伝説があります。船場東ビルと船場西ビルは3階部分の謎の空間とその形状から実はモノレールの
駅の予定だった‥‥。しかし右の写真のスロープからわかるように3階は駐車場です。せっかく拡幅された国道が駐
車場代わりになっては意味がありません。きっと駐車場法による附置義務が有ったのでしょう。しかし、もしモノレ
ールが黒字であれば拡幅された国道2号線の上をモノレールが走っていたかも知れません。
昭和41年5月17日、東京モノレールに次いで日本で2番目、公営交通としては日本初のモノレールとして 開業、
姫路大博覧会はその後の地方博覧会の先駆けとなり、船場地区の市街地改造事業は6大都市を除けば日本初、当時の
姫路は輝いてました。高尾団地・大将軍駅の解体をきっかけに姫路モノレール50年が注目を集め、田中角栄の再評
価に合せるように石見元秀市長がローカルに再評価されています。現在の石見利勝市長の父親が石見元秀市長であり
多少の「ヨイショ」があると思いますが。この後もモノレールの橋脚や軌道の撤去に20億とか40億の費用がかかる
とも言われています。しかし百年たてば文化財、船場川に映る軌道と橋脚はなかなかのものきっと活用の道はあると
思います。幻のモノレール船場駅もあります。高尾団地の記憶と共に末永く伝えてほしいと思います。
(鉄ちゃんからは異議がが有ると思います。昭和32年12月に開通した上野動物園のモノレールは、東京都交通局
上野懸垂線と呼ばれるれっきとした鉄道事業法に基づく公共交通機関で姫路モノレールは公営交通としても2番目だ。
しかしこれは却下。オリンピックには銀メダルがあってもノーベル賞に銀メダルは有りません。当時日本では全国至る所
でモノレールの計画が有りました。1番で有ることに意義があるんですよ、蓮舫さん。これは余計なことで。)
古い地図が出てきました。昭和49年モノレールが走った最後の年のものです。
上の▲に挟まれた部分が市街地改造事業(船場地区)です。
下の3個の▲はモノレール駅のです。 ▲ ▲ ▲
手柄山駅 大将軍駅 姫路駅
番外編 13 高尾団地・姫路モノレール大将軍駅 解体工事完了 まとめ(2018.1.26)があります。
平成28年10月19日高尾団地に行きました。9月21日から約1ヶ月経っているのですが
北面は最上階まで足場だけは、組み上がっているのですが
南面は足場もまだのようで
しかし、大将軍駅に上る階段とエスカレーターの上には瓦礫が積もって解体工事は始まっているようです。
南西角の2階建の低層部分はユンボで破砕されています。低層部分を解体してから10階までの足場を組むようです。
低層部分が除去された開口部からはモノレールの軌道とプラットホームが見えます。
今日はモノレールの手柄山駅(モノレールの展示室)に行きます
大将軍駅を出たモノレールは方向を変え船場川に沿って南下します。市街地では危険防止のため軌道の撤去が進んで
いますが船場川沿いは軌道が見られるところが多いです。(廃線マニアでないので写真は1枚だけです。)
姫路水族館(山の上の水族館として地味ながら少し知られた存在です。ウミガメの研究でマスコミにも時々登場し
ます。季節の話題程度ですが。)の入口が展示場です。モノレールの手柄山駅の軌道階が水族館の入口でホーム階は
その上です。モノレールを見るだけなら無料です。良心的です。勘ぐれば無料の施設なら赤字を追求される心配があ
りません。(鉄ちゃんではありません。あくまでも高尾団地のお話ですの車両の説明はありません。)
モノレールの姫路駅です。仮設駅です。本格的な姫路駅は作られないまま廃線になってしまいました。駅のイメージ
はよく出ています。
大将軍駅です。おそらく予算の限られた中、なかなかの力作ですが、姫路モノレールを近代産業遺産として残すためには
資料と記憶の有るうちに大将軍駅の大きな模型を作っていただきたいと思います。それに柱の数が間違ってませんか?
手柄山駅です。手柄山のイメージで色々な施設が寄せ集めて有ります。
手柄山駅の屋上から見た、姫路城と高尾団地です。南面の足場がまだ組み上がっていないので曇っているのが残念
ですが最後の勇姿です。高尾団地の廊下の窓からは姫路城がよく見えていたのですがこんなにビルにかこまれてし
まっていたのですねえ。新幹線の下の電車が走っているのが在来線の高架です。高尾団地の完成当時は在来線のは
地上を走っていましたが今と違って新幹線も高い建物も有りませんでしたので電車の窓からは大都会を思わす巨大な
高尾団地が見えたはずです。
右下に見えるのはモノレールの軌道です。この後の船場川から離れ手柄山駅までの間は駐車場の整備等で軌道・
橋脚ともに全て撤去されています。
慰霊塔の北の目立たないところに建つモノレールを作った石見元秀市長の銅像です。左手に巻いた図面を持って
います。昭和21年7月市長に就任、昭和22年4月初代の公選市長となり以後5期20年間市長を務めました。
昭和42年4月モノレールの営業不振で選挙に敗れるまでは‥‥。
石見元秀市長と言えば手柄山の太平洋戦全国戦災都市空爆戦没者慰霊塔(写真 左)や名古山霊園の仏舎利塔
(写真 右)とお墓ばかり作ったイメージがありますが‥‥
焦土の中、市長に就任した石見元秀市長は、市民が食うや食わずの生活者をしている中、姫路市の年間予算を
超える大金を使って大手前通を作ってしまいました。今、私達が普通に見ている風景はその発想力と決断の賜物
です。(お城がメインに写っていますが手前の道が大手前通です)昔は大手前通とは言わずに50メートル道路と
言ってましたが100メートル道路の構想もあったようです。移転問題等で実際に着工できたのは昭和24年、完成
したのは昭和32年2月です。
こちらは残った「下駄履き住宅」 市街地改造事業(船場地区)
「下駄履き住宅」(詳しくは番外編 1 をご覧ください)とは高尾団地のように住宅ビルの低層部に店舗・事務所
等の施設があるもので、店舗・事務所等を下駄にたとえて住宅が下駄を履いている「下駄履き住宅」と昔は呼んで
いました。
船場地区は、姫路城総構の西に位置し城外ではありますが、東西に西国街道が走り、南北に船場川(水運)また
姫路御坊とも呼ばれる船場本徳寺の有る江戸時代から商人の町として栄えた所です。姫路城の中堀が埋め立てられ
て国道2号線となり、その延長で船場地区では西国街道の少し南を通りました。2車線の当時の人々がびっくりす
るような立派な道路でしたが車社会の到来と共に渋滞と排気ガス問題に悩まされることになります。車社会の
解決策の一つが姫路モノレールで有った訳でありますが船場地区では国道2号線の27メートルへの拡幅4車線化が
計画されました。昭和36年11月船場地区市街地改造計画が策定され、地方都市では初めての市街地改造事業が
開始されました。昭和39年9月の琴岡ビルの着工から昭和47年5月の船場東ビルの完成まで約8年の大事業で
した。この間に市長は石見元秀市長から吉田戸豊信市長に替わっていました。
市街地改造事業は写真のように高層化により道路などの公共用地を確保すると共に街の不燃化を実現し、土地の
高度利用をはかるものです。道路の拡張で立ち退きとなった建物は1・2階は店舗・事務所等、3・4階は住宅
のビル「下駄履き住宅」(写真 左)となっています。船場地区では600メートル余りにわたって西から、琴岡ビル
・船岡ビル・日新ビル・元町西ビル・元町東ビル(以上4階建)船場西ビル・船場東ビル(各7階建)のビルが
連なります。(写真 左 は日新ビルから東部分です。)
ここに来て一つ疑問が出てきました。道路の拡張だけでは4階建でいいのではないのでしょうか。なぜ7階建なの
でしょうか。右の写真の石垣は中堀に面した西の端の門、埋門の石垣です。以前は中堀の土塁に沿って家が建って
いました。これらの人々の移転先を確保するため7階建になったのではないのでしょうか。(この部分は推測です)
ここに一つの都市伝説があります。船場東ビルと船場西ビルは3階部分の謎の空間とその形状から実はモノレールの
駅の予定だった‥‥。しかし右の写真のスロープからわかるように3階は駐車場です。せっかく拡幅された国道が駐
車場代わりになっては意味がありません。きっと駐車場法による附置義務が有ったのでしょう。しかし、もしモノレ
ールが黒字であれば拡幅された国道2号線の上をモノレールが走っていたかも知れません。
昭和41年5月17日、東京モノレールに次いで日本で2番目、公営交通としては日本初のモノレールとして 開業、
姫路大博覧会はその後の地方博覧会の先駆けとなり、船場地区の市街地改造事業は6大都市を除けば日本初、当時の
姫路は輝いてました。高尾団地・大将軍駅の解体をきっかけに姫路モノレール50年が注目を集め、田中角栄の再評
価に合せるように石見元秀市長がローカルに再評価されています。現在の石見利勝市長の父親が石見元秀市長であり
多少の「ヨイショ」があると思いますが。この後もモノレールの橋脚や軌道の撤去に20億とか40億の費用がかかる
とも言われています。しかし百年たてば文化財、船場川に映る軌道と橋脚はなかなかのものきっと活用の道はあると
思います。幻のモノレール船場駅もあります。高尾団地の記憶と共に末永く伝えてほしいと思います。
(鉄ちゃんからは異議がが有ると思います。昭和32年12月に開通した上野動物園のモノレールは、東京都交通局
上野懸垂線と呼ばれるれっきとした鉄道事業法に基づく公共交通機関で姫路モノレールは公営交通としても2番目だ。
しかしこれは却下。オリンピックには銀メダルがあってもノーベル賞に銀メダルは有りません。当時日本では全国至る所
でモノレールの計画が有りました。1番で有ることに意義があるんですよ、蓮舫さん。これは余計なことで。)
古い地図が出てきました。昭和49年モノレールが走った最後の年のものです。
上の▲に挟まれた部分が市街地改造事業(船場地区)です。
下の3個の▲はモノレール駅のです。 ▲ ▲ ▲
手柄山駅 大将軍駅 姫路駅
番外編 13 高尾団地・姫路モノレール大将軍駅 解体工事完了 まとめ(2018.1.26)があります。