いのりむし日記

いのりむしの備忘録です。

Nakajima Hisae

何が異なるのだろう 1979 1986 2011

2011-09-28 | 脱原発

 福島の原発事故以降、最大といわれる9月19日の東京の「さよなら原発」デモ。6万人といわれる参加者。そして1000万人署名運動。そういった数が、どういう意味を持つのか考えあぐねている。
 他でもない日本国内で起こった世界でも最大級の原発事故が、多くの人々に衝撃を与えていることはいうまでもない。けれども、スリーマイルの事故もチェルノブイリも、起きた時点では未曾有の大事故、先の見えない不安を与えるに充分だったはずである。実際、原発反対運動も起こったし、現在注目されている原発の問題点についても、そのほとんどが、既に指摘されてきたことである。
 脱原発が志向する生活スタイルや価値観の見直しも、1970年代から続く反原発運動で語られてきた。しかし、多くの人々は、原子力発電所建設を見直すことを望まなかったのである。

 もう何度も同じような光景を見てきたような気がする。今回は何が異なるのだろうか。

 確かに、今、原発依存からの脱却を求める人々は多い。私も、解決できない使用済み燃料問題や事故時の影響の甚大さなど、リスクの大きな原発を望まない。福島の事故の収束への展望も見えず、安全基準の見直しと対応もままならない現状では、新たな原発計画を実施する社会状況にはないといえるだろう。
 只今の状況で、原発推進を声高に主張する人々は多くは無いように見えるかもしれないが、それは必ずしも「原発推進」の道が絶たれたことを意味しない。野田政権誕生直後、「脱原発」からの脱却を求め、原発推進を高らかに主張した読売新聞の例を見るまでもなく、原発をめぐる議論は、ますます複雑になってくるだろう。電気料金の値上げ、経済活動の停滞、原発ビジネスや科学技術研究からの脱落など、人々の心を揺さぶるネタには事欠かない。

 このたびの福島の事故で、改めて感じたことは、原発依存志向や原発至上主義(と、とりあえず表現しておく)が、他のエネルギーの開発・研究を、いったいどれだけ抑圧してきたのかということだった。
 事故による原発への不信によって“原発神話”(原発安全神話ではない)の一画が崩れている今、これまで不遇をかこってきた研究が、花開く好機でもある。結局のところ、科学技術の問題は、新たな科学技術の開発で乗り越えられていくのではないか。そして、その時、政治は、思想は、何を語るのだろうか。

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 猫猫日記110927 | トップ | 原発問題メモ●再開された原子... »
最新の画像もっと見る

脱原発」カテゴリの最新記事