昭和の時代を感じたいと思って手にした鏑木清方『紫陽花舎随筆』で、思いがけない一文に出会う。朝鮮戦争只中の1953(昭和23)年2月に書かれた「平和追求」という随筆。1950年に始まった朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国の争いは米国、ソ連、中国の駆け引きの中で混迷を続け、米国が核兵器の使用の可能性に言及する事態となっていた。戦争の悪夢がリアルに人びとの心を締め付けていた時代、市井の人びとのおだやかな暮らしを愛した日本画家は、次のように述べている。
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アメリカ一辺倒に反対するのもアメリカがいやなのではなく、そのためにほかに敵をつくることがいやだからである。日本はもうどこともいくさをしたくない。憲法で戦争放棄したのが他動的であろうとも、すくなくとも国民はひととき解放のよろこびを味わった。
一部では平和攻勢という妙な熟語があるようだが、歴史はじまって以来の人道の定義を粉砕した戦争悪を二度と世界にあらしめまいとする体験者のこころもちはひとすじに平和を願うものには主義や思想を超えて共感するものである。反共とか反米とか、そのどっちにも属すまい。ただ平和憲法を守りつづけよう。
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平成の終わりを迎えた2018年、憲法改正が取りざたされ、憲法前文がわかりにくから変えよなどと声高に主張する勢力もいる。しかし先人の労苦に報い、その希求したものを引き継ぐために、むしろこの憲法前文を噛みしめることのできる知力と心持ちを育てることこそが必要なのではないのか。
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アメリカ一辺倒に反対するのもアメリカがいやなのではなく、そのためにほかに敵をつくることがいやだからである。日本はもうどこともいくさをしたくない。憲法で戦争放棄したのが他動的であろうとも、すくなくとも国民はひととき解放のよろこびを味わった。
一部では平和攻勢という妙な熟語があるようだが、歴史はじまって以来の人道の定義を粉砕した戦争悪を二度と世界にあらしめまいとする体験者のこころもちはひとすじに平和を願うものには主義や思想を超えて共感するものである。反共とか反米とか、そのどっちにも属すまい。ただ平和憲法を守りつづけよう。
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平成の終わりを迎えた2018年、憲法改正が取りざたされ、憲法前文がわかりにくから変えよなどと声高に主張する勢力もいる。しかし先人の労苦に報い、その希求したものを引き継ぐために、むしろこの憲法前文を噛みしめることのできる知力と心持ちを育てることこそが必要なのではないのか。