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歳を取らないと分からないことが人生には沢山あります。若い方にも知っていただきたいことを書いています。

ゴローニン事件(北方の日露の接点2)

2019-05-02 06:33:55 | 日記

1811年(文化8年)ロシア帝国海軍ディアナ号の艦長ゴローニン大尉は千島列島南部の測量を命じられ、ペトロパブロフスクから千島列島を南下して5月に択捉島の北端に上陸、松前奉行所調役下役石坂武兵衛と出会いました。

 

ゴローニンが薪水の補給を求めたところ、石坂は同島の振別に行くよう指示し、根室海峡を通って北上しオホーツクへ向かう計画だったゴローニンは、振別に向かわずに5月27日国後島の湾に入りました。

国後陣屋にいた松前奉行支配調役奈佐瀬左衛門は、文化露寇を受けて1807年12月に出されていた「ロシア船打払令」に従い南部藩兵に砲撃させ、ゴローニンは補給を受けたいと云うメッセージを樽に入れて送ります。

6月3日海岸で日本側の役人に会い陣屋に赴くよう要請されたロシア側は、6月4日ゴローニン、ムール少尉、フレブニコフ航海士、水夫4名と千島アイヌのアレキセイが陣屋を訪れ食事の接待を受けましたが、船に戻ろうとしたところを捕縛されます。

ディアナ号副艦長のリコルドはゴローニンを奪還すべく陣屋の砲台と砲撃戦を行いましたが、砲撃でゴローニン達の身に危険が及ぶのを恐れて一旦オホーツクへ撤退しました。

リコルドは9月にゴローニン救出の遠征隊を要請するためサンクトペテルブルクへ向いますが、イルクーツクで遠征隊の派遣願いが既に出されていることを知らされて待機した後、遠征隊派遣は却下され文化露寇で連行されていた良左衛門を連れオホーツクに戻ります。

ゴローニンらは7月2日箱館(函館)に送られ箱館詰吟味役大島栄次郎の予備尋問を受けて松前に移されました。8月27日からの松前奉行荒尾成章の取り調べでフヴォストフの襲撃がロシア政府の命令ではなく、ゴローニンもフヴォストフとは関係がないことが認められて、荒尾はゴローニンらを釈放するよう11月江戸に上申しましたが幕府は拒否します。

1812年(文化9年)牢獄から武家屋敷へ移されましたが、解放される見込みがないことを懸念したゴローニンら6名が3月25日に脱走しました。飢えと疲労で捕まり松前に護送されて牢獄入りします。幕府はゴローニンらに通訳へのロシア語教育を求め、間宮林蔵六分儀や天体観測儀、作図用具などの使用法を教わりました。

オホーツクに戻ったリコルドは1812年夏に国後島へ向かいました。8月3日に泊に到着し、良左衛門や1810年にカムチャツカ半島に漂着した歓喜丸の漂流民とゴローニンとの交換を求めますが、松前奉行調役並太田彦助は漂流民を受け取るもののゴローニンらは既に処刑したと偽りました。

リコルドはゴローニンの処刑を信じず、更なる情報を入手するために8月14日国後島沖で高田屋嘉兵衛の観世丸を拿捕し、嘉兵衛と水主の4人、アイヌのシトカの6名をペトロパブロフスクへ連行しました。

高田屋嘉兵衛は廻船商人として1796年(寛政9年)に蝦夷地箱館に進出し、国後島択捉島間の航路を開拓、漁場運営と廻船業で巨額の財を築き、箱館の発展に貢献していました。

1801年享和元年)択捉航路の発見・択捉島開拓の功で幕府から「蝦夷地定雇船頭」に任じられて苗字帯刀を許され、1806年文化3年)には大坂町奉行から蝦夷地産物売捌方を命じられています。1807年には箱館に造船所を建設し、兵庫から多数の船大工を呼び寄せ官船はじめ多くの船を建造しました。

嘉兵衛たちはペトロパブロフスクでリコルドと同居し、行動は自由でロシア語を学びます。嘉兵衛はゴローニンの捕縛はフヴォストフが暴虐の限りを尽くしたからで、幕府へ謝罪文書を提出すれば釈放されるとリコルドを説得します。カムチャツカ長官になっていたリコルドは、自分で謝罪文を書き自ら日露交渉に赴くことにしました。

一方幕府も嘉兵衛が拿捕された後に方針を転換し、フヴォストフの襲撃は皇帝の命令ではないことをロシアが公的に証明すればゴローニンを釈放することにしました。このことをロシア側へ伝える説諭書をゴローニンに翻訳させロシア船の来航を待っていて、この幕府の方針は嘉兵衛の予想と一致するものでした。

1813年(文化10年)5月嘉兵衛とリコルドは国後島に向かい、泊に着くと嘉兵衛が陣屋に赴き経緯を説明して交渉の切っ掛けを作りました。嘉兵衛は船に持ち帰った「魯西亜船江相渡候諭書」をリコルドに渡します。

松前奉行は吟味役高橋重賢、柑本兵五郎を国後島に送り、リコルドは嘉兵衛を捕らえた当人なので、他のロシア政府高官の釈明書の提出を求めました。高橋と嘉兵衛は松前に着いて松前奉行に交渉内容を報告し、ゴローニンらは牢から出され引渡地である箱館へ移送されました。

リコルドはオホーツクでイルクーツク県知事とオホーツク長官の釈明書を手に入れ、若宮丸の漂流民でロシアに帰化していた通訳のキセリョフ善六と歓喜丸漂流民の久蔵を乗せて、7月28日オホーツクを出港しました。

8月28日に内浦湾に接近しましたが暴風雨に遭い、9月11日に絵鞆(室蘭市)に入港します。水先案内の嘉兵衛の手下が乗り込んで9月16日夜に箱館に到着しました。嘉兵衛はその夜ディアナ号を訪れリコルドとの再会を喜び合います。

9月18日リコルドはディアナ号を訪れた嘉兵衛にオホーツク長官の釈明書を手渡します。9月19日リコルドと士官2人、水兵10人、善六が上陸し、高橋と会見してイルクーツク県知事の釈明書を手渡しました。

松前奉行はロシア側の釈明を受け入れゴローニンらを解放し、久蔵を引き取りましたが通商開始は拒絶し、ディアナ号は9月29日に箱館を出港してペトロパブロフスクに帰港しました。

ゴローニンはリコルドとともに1813年冬にサンクトペテルブルクへ向かい1814年夏到着、両名とも飛び級で海軍中佐に昇進し年間1,500ルーブルの終身年金を与えられました。嘉兵衛もゴローニン事件解決の功績で幕府から金5両を下されています。

リコルドは箱館を去る際国境画定と国交樹立を希望し、翌年6~7月に択捉島で交渉したい旨の文書を日本側の役人に残しました。幕府は国交樹立は拒否し国境画定には応ずることにしましたが、高橋が6月8日に到着した時にはロシア船は立ち去った後で、実現するのは40年後のことになります。

1816年ゴローニンは日本での捕囚生活の手記を出版して各国語に翻訳され、日本に関する最も信頼のおける史料となりました。1821年オランダ商館長によりオランダ語版が江戸にもたらされ、1825年文政8年)に翻訳されて「遭厄日本記事」として出版されました。

「日本国魯西亜国通好条約」は、1855年2月7日安政2年12月21日)に伊豆の下田で日本ロシアの間で締結された条約です。本条約により択捉島得撫島の間に国境線が引かれ、樺太には国境を設けずこれまでどおり両国民の混住の地とすることが決められました。北方4島が我が国固有の領土であると云う主張はこの条約が根拠になっています。

エフィーミー・ヴァシーリエヴィチ・プチャーチンはロシア帝国の海軍軍人で1853年に長崎に来航、1855年には日露和親条約を締結するなどロシア帝国の極東における外交で活躍しました。

 

1842年イギリスが南京条約を結んでアヘン戦争を終結しました。プチャーチンは皇帝ニコライ1世に極東派遣を献言し1843年に清及び日本との交渉担当を命じられましたが、トルコへの進出が優先されてしまいました。

1852年 ペリー日本との条約締結のため出航したことを知ったロシアは、海軍中将に昇進していたプチャーチンを日本との条約締結の全権使節に任じ、平和的に交渉するよう命じました。

1852年9月プチャーチンはイギリスでボストーク号を購入、11月に旗艦パルラダ号がポーツマスに到着すると、ボストーク号を従え喜望峰を周って父島でオリバーツァ号、メンシコフ号と合流します。

プチャーチンに日本遠征を勧めたのはシーボルトです。プチャーチンはシーボルトの進言にしたがって、紳士的な態度を示すために日本の対外窓口である長崎に向かいました。

1853年8月22日(嘉永6年7月18日)ペリーに遅れること1か月半、4隻の艦隊が長崎に来航しました。長崎奉行大沢安宅に国書を呈し江戸から幕府の全権が到着するのを待ちましたが、イギリス艦隊が極東のロシア軍を攻撃するとの情報を得て一旦長崎を離れます。

1854年1月3日(嘉永6年12月5日)再び長崎に戻り、幕府全権の川路聖謨筒井政憲と会談しました。交渉はまとまとまりませんでしたが将来日本が他国と通商条約を締結した場合、ロシアにも同一の条件の待遇を与えることが合意されました。

2月5日プチャーチンはマニラへ向かい船の修理を行いましたが、旗艦パルラダ号は老朽艦であったため9月にロシア沿海州でディアナ号に乗り換えました。

旗艦以外の3隻はイギリス艦隊との戦闘に備えて沿海州に残り、プチャーチンはディアナ号で再び日本に向かいます。10月21日箱館に入港しましたが同地での交渉を拒否されて大阪へ向かいました。

翌月天保山沖に到着しましたが大阪奉行より下田へ回るよう要請され、12月3日に下田に入港しました。幕府は川路聖謨、筒井政憲らを派遣してプチャーチンと交渉します。

交渉開始直後の1854年12月23日(嘉永7年11月4日)安政東海地震が起きて下田も大きな被害を受け、ディアナ号も津波で大破し乗組員に死傷者が出ました。ディアナ号が波にさらわれた日本人数名を救助し、船医が診たことは幕府に好印象を与えます。

 

プチャーチンは艦の修理を幕府に要請し、伊豆の戸田村(へだむら 沼津市)が修理地に決まって戸田港へ向かいました。その途中1855年1月15日(安政元年11月27日)宮島村(富士市)沖で強い風波により浸水してディアナ号は沈没しましたが、周囲の村人の救助もあって乗組員は無事でした。

プチャーチンは幕府から代船の建造許可を得て、ディアナ号にあった他の船の設計図を元に、日本の船大工による代船の建造が始りました。中断されていた外交交渉も再開され、2月7日(安政元年12月21日)プチャーチンは遂に日露和親条約の締結に成功します。

1855年4月26日(安政2年3月10日)3か月で代船が完成、戸田村民の好意に感激したプチャーチンは「ヘダ号」と命名しました。ヘダ号は60人乗りのため一行全員が乗ることは出来ず、前月下田に入港していたアメリカ船を雇い159名の部下を先発させ、プチャーチンは5月8日部下47名と共にヘダ号でペトロパブロフスクに向かいました。

5月21日プチャーチンはペトロパブロフスクに到着しましたが、前年に英仏連合艦隊がペトロパブロフスクを攻撃し、ロシア軍は英仏艦隊を撃退したものの兵力が少なかったためペトロパブロフスクからは撤退していて、6月20日プチャーチンはニコラエフスクに到着しました。その後陸路で11月にペテルブルクに帰還します。

1859年伯爵に叙され海軍大将元帥に栄進し、1881年(明治14年)には日露友好の功績で日本政府から勲一等旭日章が贈られています。

 

1856年クリミア戦争が終るとロシアの樺太開発が本格化し、日露間で紛争が頻発するようになりました。1875年明治8年)「樺太・千島交換条約」が締結され日本は樺太での権益を放棄し、ロシアが得撫島以北の千島18島を日本に譲渡する交換条約で千島全島が日本領になります。

日露戦争は1904年明治37年)2月8日から1905年(明治38年)9月5日まで戦われましたが、日本海海戦後に小村寿太郎外務大臣から要請を受けたアメリカのセオドア・ルーズベルト大統領が、1905年6月6日に日本・ロシア両国に講和勧告を行いました。和平交渉の進む中で日本軍は7月に樺太全島を占領し、この占領がきっかけとなって後の講和条約で北緯50度以南の樺太(南樺太)が日本領になりました。

18世紀以来日露間では国同士の厳しいやり取りがあり、両国民の武力衝突も頻発しましたが、その一方で漂流民が手厚い保護を受けるなど、帆船時代に北海の荒海に立ち向かった航海者同士の間では、国や民族を超えた海の男の気脈が相通じた歴史があり救われる思いがします。

日ソ共同宣言は今も有効と確認されていますから、我が国がロシアと平和条約を締結すれば2島の引き渡しも見えて来るでしょうが、平和条約交渉を始める以前の問題として、日本政府の4島の帰属に対する認識をロシアから厳しく問われ、日米安保の解消を迫られるようでは前途が思いやられます。

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