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歳を取らないと分からないことが人生には沢山あります。若い方にも知っていただきたいことを書いています。

文化露寇(北方の日露の接点1)

2019-04-18 06:16:20 | 日記

2019年2月6日の参院予算委員会で、大塚耕平議員の「固有の領土という言葉を使ってご答弁いただけませんか」と云う質問に対し、安倍首相は「我が国固有の領土」と遂に云わず「我が国が主権を有する島々」と云い替えました。我が国が主権を有する島々では、現在のロシアの主権に抵触するでしょう。

1945年8月8日ソ連はヤルタ協定に従い対日宣戦布告し、8月11日南樺太に侵攻を開始して8月25日に占領、8月28日から9月1日までに択捉・国後・色丹島を占領、9月3日から5日にかけて歯舞群島を占領しました。8月18日カムチャツカ半島から千島列島に侵入し8月31日までに得撫島以北の北千島を占領しています。

日本は8月14日ポツダム宣言を受諾し、9月2日降伏文書に調印しました。第二次大戦の終戦の日は8月15日ではなく降伏文書に調印した9月2日ですが、歯舞群島の占領は9月2日以後です。ポツダム宣言の第8条には日本国の主権は、本州、北海道、九州及び四国とわれらの決定した諸小島に限られなければならないと記載されています。

46年1月29日GHQ指令第677号では、日本の範囲から除かれる地域に千島列島、歯舞群島(水晶、勇留、秋勇留、志発、多楽島を含む)、色丹島が含まれています。1946年2月2日ソ連最高会議は南樺太及び千島列島を1945年9月20日に溯って国有化宣言しました。

1951年のサンフランシスコ平和条約で我が国は千島列島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄しました。この時の平和条約国会で、政府は千島列島の範囲には国後島・択捉島が含まれると説明しています。

1955年6月日ソ間で国交正常化交渉が開始されましたが、北方領土問題で難航し交渉は一時中断します。1956年2月日本政府は、千島列島に国後島・択捉島が含まれるとした1951年の国会答弁を取り消しました。

日ソ共同宣言は1956年10月19日日本ソ連が署名し、同年12月12日に発効した外交文書(条約)です。日ソ両国は戦争状態を終結し外交関係を回復すること、引き続き平和条約締結交渉を行い条約締結後にソ連は日本へ歯舞群島色丹島を引き渡すことが含まれています。2島の引き渡しは日本領の2島の返還ではなくソ連領の2島の譲渡です。

 

ペリーの黒船来航はよく知られていますが、ロシアフランスイギリスなどの我が国北方への来航についてはあまり知られていません。ロシア帝国18世紀に入るとオホーツクペトロパブロフスクを拠点に、千島アイヌへのキリスト教布教や毛皮税の徴収を行い、得撫島に移民団を送るなど千島列島へ進出しました。

日本も松前藩1754年宝暦4年)に国後場所を設置しアイヌとの交易を開始しました。1759年に松前藩士が択捉島や国後島のアイヌから北千島に赤衣を着た外国人が居住している報告を受け、ロシア人の千島列島への進出を認識しています。

1778年安永7年)ロシア帝国ヤクーツクの商人パベル・レベデフ=ラストチキンが3回目の試みで蝦夷(北海道)厚岸に到着することに成功しました。鎖国中の日本と接触した最初のロシア人です。

国後島のアイヌの案内で部下のドミトリー・シャバリンとシベリア貴族のイワン・アンチーピンが松前藩士と会い、松前藩主に贈り物をして交易を求めましたが、幕府との相談を要するため翌年再訪するように言い渡されます。

ラストチキンは翌年再訪しますが藩主の松前道広は幕府に告げず、独断で蝦夷地での交易を拒否しました。藩主への贈り物は返却され貿易を求めるなら長崎に行くように云われましたが、ロシアにとって長崎が遠くて不便なことは明らかでした。

1787年天明7年)フランスの海軍士官で探検家ラ・ペルーズ伯ジャン=フランソワ・ド・ガロー千島列島琉球列島を探検しました。宗谷海峡の国際名称ラ・ペルーズ海峡は彼にちなんだものです。

ラ・ペルーズは1785年 ルイ16世より太平洋探検を命じられて太平洋を横断し、アジアで最初に到達したのはマカオです。済州島沖を通過して日本海に入り、7月6日に奥蝦夷(樺太)に到着しました。

樺太とアジア大陸の間の間宮海峡を調査するため北上しましたが、水深がきわめて浅いので断念し、進路を南へ変えて8月に宗谷海峡を航海、アイヌと出会って千島列島を探検し、1787年9月7日カムチャツカ半島ペトロパブロフスクに到着しました。

探検隊にはジャン・バルテルミ・ド・レセップススエズ運河開発者の叔父)が加わっていましたが、この地で下船して1年がかりでロシアを横断して探検記録をフランスへ持ち帰り、ラ・ペルーズ探検隊唯一の生還者となりました。

幕府も老中田沼意次の時代に蝦夷地探検隊を派遣し、1786年天明6年)に最上徳内が幕吏として初めて択捉島へ渡っています。同島北東端のシャルシャムでロシア人と遭遇しました。

1792年寛政4年)ロシア帝国の軍人のアダム・ラクスマンが神昌丸漂流民の光太夫ら3名を伴い、シベリア総督の親書を持った使節として根室に上陸、江戸での通商交渉を求めました。

ラクスマンはシベリアイルクーツク光太夫ら6名の漂流者と出会い、光太夫を連れてペテルブルク女帝エカテリーナ2世に謁見、光太夫ら3名の送還とイルクーツク総督イワン・ピールの通商要望の信書を届けるロシア初の遣日使節を命じられます。1792年寛政4年)9月24日にエカテリーナ号でオホーツクを出発10月20日根室に到着しました。

松前藩は直ちに幕府に報告しましたが、老中松平定信は漂流民を受け取るが総督ピールの信書は受理せず通商を望むならば長崎に廻航させることを指示し、そのための宣諭使として目付石川忠房村上大学を派遣しました。

幕府は使節を丁寧に遇するよう命じ、松前藩士は冬営のための建物建設に協力して、ともに越冬しました。石川忠房は翌年3月に松前に到着し、エカテリーナ号は日本船が同行して砂原に向かう途中濃霧ではぐれ、単独で6月8日箱館(函館)に入港します。

ラクスマンは箱館から陸路で6月20日松前に到着、石川は長崎以外では国書を受理できないと伝え光太夫他1名を引き取りました。ラクスマンは長崎への入港許可証(信牌)を交付されて松前を去り、7月16日に箱館を出港してオホーツクに帰港しました。1794年日本に関する様々な書物や名品を女帝に献上し、1806年に「ラクスマン日本渡航日記」を書いています。

1804年文化元年)9月アーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルンが率いるロシアの世界一周遠征隊が、津太夫ら4名を連れ信牌を持って長崎に来航し、特使ニコライ・レザノフが交易を求めました。翌年春まで幕府と交渉しましたが最終的に拒否されます。

クルーゼンシュテルンはロシア海軍提督で探検家、ロシアで最初に世界周航(1803年1806年)を果たし、「日本海」を命名した人物として百科事典に載っています。

2隻の艦隊は遣日使節レザノフと津太夫ら4人の日本人漂流民、ロシアやヨーロッパの博物学者・天文学者・画家らを乗せてバルト海の軍港クロンシュタットを出港し、大西洋を横断してホーン岬を回り北太平洋に向かいました。

太平洋を横断した艦隊は1804年カムチャツカ半島から日本に向かいます。長崎での幕府との交渉は不調に終わり、レザノフは長崎で半年間幽閉に近い状態におかれ交渉もまったく進展しなかったことから、武力をもって開国を要求すべく樺太択捉島などの日本側の拠点を部下に攻撃させました。「文化露寇」(ぶんかろこう)です。

レザノフの部下ニコライ・フヴォストフは1806年(文化3年)に樺太の松前藩居留地を襲撃し、その後択捉島駐留の幕府軍を攻撃しました。文化3年9月11日(1806年10月22日)樺太の久春古丹に上陸しアイヌの子供1人を拉致し、13日にも再び上陸して運上屋の番人4名を捕えた後、米六百俵と雑貨を略奪、11箇所の家屋を焼き、魚網や船にも火を放ち、前日拉致した子供を解放して17日に去りました。

 

文化4年4月23日ロシア船2隻が択捉島内保湾に入港し、番人は紗那の幕府会所に通報しました。箱館奉行配下の関谷茂八郎は兵を率いて内保まで海路で向かいますが、その途中で内保の南部藩の番屋が襲撃されて番人5名が捕えられ、米、塩、什器、衣服が略奪されて火が放たれ、既に出帆したとの報を受けます。関谷は内保行きを中止して紗那に戻り守りを固めました。

4月29日ロシア船が紗那に向けて入港してきます。箱館奉行配下の通訳川口陽介に白旗を振らせ、上陸するロシア兵を迎え入れて対話の機会を得ようとしますが、ロシア兵は上陸直後に銃撃をしかけ川口は股部に貫通銃創を受けます。

幕吏も津軽・南部藩兵に応戦させますが、圧倒的な火力の差に日本側は苦戦し、夕刻ロシア兵は帰船して艦砲射撃で威嚇します。指揮官の戸田、関谷は紗那を撤退することにしますが、戸田は留別へ向けて撤退中に敗戦の責任を痛感して自害しました。

5月1日日本側が引き揚げた紗那幕府会所にロシア兵が上陸、倉庫を破り米、酒、雑貨、武器、金屏風などを略奪した後放火します。翌2日にも上陸し、負傷してその場に留まっていた南部藩の砲術師大村治五平が捕虜となりました。

5月3日ロシア船は紗那を去り、捕虜となった大村治五平や番人達は解放され宗谷に帰還しました。文化露寇でロシアが日本から分捕った品々は、現在サンクトペテルブルクの人類学・民俗学博物館に収蔵されています。

幕府は新たに松前奉行の下に津軽藩南部藩庄内藩久保田藩から3,000名の武士を集め、宗谷斜里など蝦夷地の要所の警護にあてました。ロシア側の軍事行動はロシア皇帝の許可を得ておらず、ロシア皇帝は1808年全軍に撤退を命じ、これに伴い蝦夷地に配置された諸藩の警護藩士も撤収しました。

喜望峰経由で1806年8月に母港クロンシュタットに戻ったクルーゼンシュテルンは、詳細な航海記を1810年サンクトペテルブルクで出版し、各国で翻訳されました。太平洋の地図を含む図録が1827年に出版されています。

幕府は1806年1月に「ロシア船撫恤令」を出してロシアの漂着船に食糧等を支給して速やかに帰帆させる方針としていましたが、文化露寇を受けて1807年12月には「ロシア船打払令」を出しました。これが後のゴローニン事件に繋がっていきます。

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