「シベリア出兵」は第一次世界大戦中に連合国(イギリス・アメリカ・フランス・イタリア・カナダ・日本・中国)が「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」ことを名目に、シベリアに共同出兵したロシア革命に対する干渉戦争です。
1918年(大正7年)から1925年までの7年間、我が国は最大時に7万3千名の大兵力が東シベリア一帯を占領してバイカル湖畔まで達しましたが、戦死者3千5百名、零下40度の極寒による死傷者が1万名に達し、戦費は10億円を越え、何ら利するところなく撤兵した「知られざる戦争」です。
第一次世界大戦ではヨーロッパでドイツ帝国・オーストリア・ハンガリー帝国などの同盟国と、フランス・イギリス・ロシア帝国などの連合国が戦いましたが、戦争が長期化するにつれてロシア軍は敗走を重ね国家経済が破綻しました。
ロシアでは1917年の2月革命に続き、11月に10月革命(ユリウス暦)が起きて1918年ロマノフ王朝が倒され、ボルシェビキ政権がドイツ帝国と単独講和し第一次世界大戦から離脱しました。
この結果ドイツは東部戦線の兵力を西部戦線に回すことが出来、英仏は大攻勢をかけられて苦戦します。連合国はドイツの目を再び東部に向けさせること、ロシアの革命政権を打倒することを意図して「チェコ軍捕囚の救出」を名分にロシア極東のウラジオストクへの出兵を決めました。
英仏には極東に大部隊を派遣する余力はなく、陸軍の主力を温存していた日本とアメリカにシベリア出兵を打診します。日本では参謀本部、本野一郎外相、後藤新平内相らの主体的かつ大規模に出兵すべきという積極論と、元老山縣有朋、憲政会総裁加藤高明、立憲政友会総裁原敬らの米国と協定した上で出兵させる消極論が対立しましたが、日米両国は兵力を1万2千名の同数とし、出兵範囲をウラジオストクに限定する協定を結び、シベリアに出兵しました。
シベリア出兵の各国軍によるウラジオストクでの軍事パレード
日本軍は1918年8月2日にウラジオストクに上陸、米軍も7千名を送り込みましたが、日本軍は参謀本部の独断で増派を続け、10月末には7万3千の大軍となりハバロフスクや東シベリア一帯を占領しました。
ウラジオストク派遣軍(1918年8月18日)
1918年11月ドイツで革命がおこりドイツ帝国が打倒されて第一次世界大戦が終わり、1919年秋にはロシアで白軍のコルチャーク政権が崩壊し革命政権の打倒は不可能になりました。シベリア出兵の目的がなくなった英仏は撤兵を決め、アメリカも1920年1月シベリア撤退を決めます。
原敬内閣は居留民保護の目的とロシア過激派が朝鮮や満州に及ぼす影響を防ぐため、列国の撤兵後も駐兵を継続しました。当時の日本は領土獲得の野心があり、革命政権のイデオロギーが天皇制とは相容れず、共産主義の日本への波及をなんとしても阻止しようとしていたのです。しかしアメリカなどの対日不信感が高まり、1922年にシベリアから撤兵します。
日本軍はウラジオストクより先には進軍しないと決めた当初の約束を無視し、ボルシェビキが組織したパルチザンとの戦闘を繰り返しながら、沿海州や満州を鉄道沿いにバイカル湖東部まで侵攻し、最終的にはバイカル湖西部のイルクーツクまで占領地を拡大しました。
シベリア地図
1919年1月アムール州マザノヴォ村でパルチザンが蜂起し、近隣の村を巻き込んで大規模な戦闘がおきます。日本軍は零下40℃の酷寒のため撤兵し村は一時パルチザンにより解放されましたが、前田多仲大尉の率いる討伐隊が再び侵攻、手当たりしだいに村々を焼き、農民を虐殺し、パルチザンが逃げたマザノヴォ村を再び占領、近隣のソハチノ村に到着すると逃げ遅れた村民すべてを銃殺し、村を徹底的に焼き払いました。
1919年2月歩兵第十二旅団長山田四郎少将は「過激派軍ハ時ニハ良民ヲ装イ其実質ヲ判別スルニ由ナキニ依リ、今後村落中ノ人民ニシテ日露軍兵ニ敵対スルモノアルトキハ、容赦ナク該村人民ノ過激派軍ニ加担スルモノト認メ其村落ヲ焼棄スヘシ」と命じました。
日本軍の「出兵史」には「2月13日インノケンチェフスカヤ村における掃討作戦で第12師団第3大隊第8中隊は同村を早暁襲撃し、パルチザンが逃亡したのち無抵抗の村民をパルチザンのシンパとみなして手当たり次第に100名以上刺殺・銃殺し、物品略奪・食料徴発・家屋放火などの蛮行を行った。組織的な虐殺・略奪はパルチザンに対する報復措置であった」と記録されています。
2月25日田中勝輔少佐率いる歩兵第72連隊第3大隊が、アムール州のユフタでパルチザン部隊に包囲されて26日全滅しました。その後友軍が発見した日本軍将兵の死体は、武器弾薬も持ち物もすべて奪われ衣服をはぎ取られていて、即死でなくても極寒での凍死でした。
この事件が日本軍の報復を呼び起こします。イワノフカ村で武装解除要求に従わないボルシェビキに対抗するため、反革命派が日本軍に応援を依頼したことから3月22日この村を強制的に捜索し武器を押収、革命分子を逮捕、銃殺しました。
ウラジオストク派遣軍政務部が事件後、村民に対して行なった聞き取り調査報告書には「本村が日本軍に包囲されたのは三月二十二日午前十時である。其日村民は平和に家業をして居た。凡そ二時間程の間に約二百発の砲弾が飛来して五、六軒の農家が焼けた。村民は驚き恐れて四方に逃亡するものあり地下室に隠るるもあった」。
「間もなく日本兵とコサック兵が現れ、枯草を軒下に積み石油を注ぎ放火し始めた。女子供は恐れ戦き泣き叫んだ。男子は多く殺され或は捕へられ、或者等は一列に並べられて一斉射撃の下に斃れた。絶命せざるものは一々銃剣で刺し殺された。最も惨酷なるは十五名の村民が一棟の物置小屋に押し込められ、外から火を放たれて生きながら焼け死んだことである」。
1920年3月トリャピーチン率いる4,000名のパルチザン部隊が黒竜江(アムール川)河口のニコライエフスク港(尼港)を包囲し、日本陸軍守備隊(第14師団歩兵第2連隊第3大隊)と日本人居留民約700名が殺害され、122名が捕虜になりました。
5月になってアムール川の氷が解け日本の救援部隊が到着すると、パルチザンは日本人捕虜と反革命派の現地住民 6,000人以上を殺害し、ニコライエフスク市街を焼き払って撤退しました。
尼港事件
この尼港事件は日本ではボルシェビキの残虐行為として広く報道され、日本は報復として対岸の北樺太を占領、1925年に日ソが国交を結ぶまで石油産地の北樺太の占領を継続しました。
日本軍の公式記録として将兵の士気の低さ、軍紀の乱れが強く指摘されている点で、シベリア出兵は異常な出兵です。朝鮮軍司令官兵站業務実施報告に「一般ニ士気発揚シアラサルカ如シ 即チ戦争ノ目的ヲ了解シアラサルノミナラス官費満州旅行位ノ心得ニテ出征シアルモノ大部ヲ占ムルノ有様ナリ」と記録されています。
ウラジオストクでは某参謀将校が毎日「裸踊りの観覧にうつつを抜かし」、戦線が泥沼化した1920年の段階でも同地の派遣軍首脳部は「三井、三菱に出入りして、玉突きや碁将棋に日を消しており」少壮将校は「酒楼に遊蕩していた」とされます。
この状況は兵士に匿名で告発され、外務省記録「出兵及撤兵」には黒竜会機関紙「亜細亜時論」へ投稿された告発書「改革カ亡国カ 隊改良ニ関スル絶叫書」が載っています。
「絶叫書」の内容は全8節からなり、軍紀頽廃ノ実例は(イ)敬礼ヲ避ケル(ロ)社会主義ノ気分漲ル(ハ)殆ト盗ヲナササルモノナシ(ニ)計手ハ皆泥棒(ホ)歩哨ノ無価値の各小節に分かれています。
(ハ)では民家から鵞鳥・鶏・豚・牛を盗んで食べる兵士を糾弾しており、派遣軍司令部もこの事態を把握して禁止しましたがまったく効果なく、ロシア側の資料にも日本兵は薪及鶏類を窃み、駅員其他の家屋に押入り婦人を辱めたとあります。
(ロ)社会主義ノ気分漲ルは、兵士が社会主義へ感化されたのではなく、青年将校が理屈に合わない命令をだし、兵士が不服を示そうものなら社会主義だと決めつけ、兵士の不満が鬱積したことを指します。
治安当局が作成した内偵資料「秘 帰還兵ノ言動」では将校、下士官の横暴な振舞いを指摘する内容が圧倒的多数を占め、将校は「戦地では常ニ部下ノ機嫌ヲ取ッテ居ル」という声も相当数ありました。
将校は兵士による「歩兵隊式」の仕返しを恐れていたとされます。歩兵第72連隊兵士の証言によれば、第2中隊では「中隊長ハ下士以下ニ対シテ圧制ナリ」として「下士以下全員著剣シ中隊事務室ニ押掛ケ」中隊長に詫びを入れさせ、第1中隊では平素傲慢な特務曹長が、機関銃隊では中隊長が、それぞれ「歩兵隊式」の洗礼をうけ全治1か月の重傷を負いました。
これらはいずれもウラジオストク滞在中の事件で「戦場なら彼等は命幾何あっても足らん 弾丸は向ふへばかりは飛ばん」と云われました。戦線が泥沼化した1920年頃には、前線の兵士は一日も早い帰国を望むようになったとされます。
シベリアには19世紀から20世紀初頭にかけロシアによって流刑にされた15万人から20万人のポーランド人家族が劣悪な環境下で暮らしていました。1917年にロシア革命が起こると革命軍と反革命軍がシベリア各地で戦い、ポーランド人たちもそれに巻き込まれて大半のポーランド人は家財を失って難民となり、餓死、病死、凍死が続出し、多数の孤児が取り残されました。
この悲惨な状況にウラジオストク在住のポーランド人たちが1919年「ポーランド救済委員会」を設立し、会長にはアンナ・ビェルケヴィチ女史が就任しましたが、孤児の救済に万策尽きたアンナは日本に赴き外務省を訪れます。1920年6月18日のことでした。
孤児の救済を要請された日本は、赤十字社を中心にポーランド孤児救出に動きます。1920年7月から5回にわたり375名の孤児たちが東京に送られ、1922年8月に388名の孤児と付添39名の計427名が3回に分けて大阪に送られ救済されました。
救出されたポーランド孤児たち
この活動によって約800名のポーランド孤児が祖国へ帰ることが出来、これがシベリア出兵中の我が国の唯一の美談です。ポーランドではこの孤児救出を高く評価し、現代に至るも大切に語り継がれています。
私は1985年ごろ蓼科温泉の古びた温泉宿で、押し入れの内側の板壁に貼られ茶色に変色した新聞に、ポーランド孤児引き取りの記事が載っているのを偶然見つけました。
実は私の母方の祖父は海軍を退役したのち赤十字に籍があり、ポーランド孤児を迎えに行ったことを母親から聞かされていましたが、半世紀を超えたその新聞記事との奇遇に驚いたものでした。
我が国のシベリアからの撤兵は、1921年ワシントン会議に出席した海軍大臣加藤友三郎全権が条件の整い次第日本も撤兵すると約束し、1922年総理大臣となった加藤が1921年10月末日までの沿海州からの撤兵を決めましたが、北樺太の占領は1925年まで続けられました。
尼港事件はボルシェビキの残虐行為として我が国で大々的に報道されたのでよく知られていますが、シベリア出兵は全国的な米騒動の原因として知られているに過ぎず、7年間にも及ぶ出兵が我が国に何の利ももたらさず、軍の正式記録に軍紀の乱れや蛮行が残された異常な歴史は知られていません。
尼港事件をボルシェビキの残虐行為として憤るのであれば、日本軍の残虐行為も恥ずべきでしょう。「改革カ亡国カ 隊改良ニ関スル絶叫書」が残こされ、当時の兵士の危機感が示されているのは救いですが、戦争の本質は平時には許されざる殺人が最高の栄誉となる異常さです。
敗戦後70年以上経過した我が国では戦争の実態が若い人達に正しく伝わっているとは思えなくなりましたが、人を狂気に追い込む戦争はいかなる理由があろうとも絶対にしてはならないのです。