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歳を取らないと分からないことが人生には沢山あります。若い方にも知っていただきたいことを書いています。

日章丸事件

2015-01-28 06:23:48 | 日記

1953年5月9日、出光の石油タンカー日章丸が、石油を満載してイランから川崎港に帰港しました。当時、世界中の石油の取引はすべて国際石油資本(メジャー)の支配下にあり、産油国の石油もその国の自由にはならず、利益にも繫がっていませんでした。

出光はメジャーの支配に逆らって、イラン石油をあえて買った世界で唯一の企業でした。この件は産油国との直接取引の先駆けとなり、敗戦後の日本では、国際社会に一矢を報いた快挙として喝采を浴びました。

第二次世界大戦後のイランは独立してはいたものの、依然として大英帝国の影響下にあり、世界最大と推測されていたイランの石油資源もイギリス資本に支配され、イランの国庫にもイラン国民にも石油の利益は回らない状況にありました。

イランは1951年に、石油の国有化を宣言します。イギリスは中東に軍艦を派遣し、イランに石油を買付に来たタンカーを撃沈すると、国際社会に宣言しました。このイギリスの態度にイランは硬化しましたが、これはアバダーン危機と呼ばれ、戦争が起きてもおかしくない情勢となっていました。

アメリカ占領下の日本は、1949年3月にGHQにより石油精製が解禁され、翌年から石油の生産が始まりましたが、メジャーの息のかかった外資系精製会社を優遇するGHQや日本政府の政策に、製油所を持たずメジャーの供給ルートに属さない民族系の出光やゼネラル物産などは、不満を持ち政府に陳情を続けていました。

当時イランは、アングロ・イラニアン石油(後のBP)と争っていました。出光興産出光佐三社長は、メジャーのやり方は国際法上の正当性が無いと判断し、イラン国民の貧窮の救済と、日本の経済発展の足枷になっている石油不足の解消を目指して、極秘裏に日章丸のイラン派遣を決意したのです。出光は現金に困っているイランから、市場価格の30%以下で原油を買い付けました。

出光のトップは伝説的実業家となった出光佐三で、この取引で大きな利益を挙げることになりました。彼はイランを助けると同時に、敗戦後7年に及ぶアメリカの占領からようやく抜け出した日本人の心に、誇りを取り戻したのです。

 

実は1951年に国有化した時点から、イランはメジャーの支配をかいくぐって、石油を購入してくれる相手を必死に探していました。そんな時、出光興産専務の出光計助に、出光佐三と同郷のブジリストン社長石橋正二郎から電話が入りました。 

石橋社長は娘婿の通産官僚や政府関係者を介して、ニューヨークにいるイラン人バイヤーが、イラン石油の購入者を探していることを知り、メジャーの息のかかっていない民族系の出光に打診してきたのです。出光は当初、イランの石油国有化はまだ国際的に承認されておらず、国際的商慣習や商業道徳上許されないとして断りました。

 1952年(昭和27年)4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本は独立を回復します。同じころアメリカがイランと技術協定を結び、イランの石油国有化を受け入れて、アメリカ石油資本のイランへの進出を図ります。6月にはソ連が、イランと通商条約を結びました。

 一方、イタリアとスイスの共同出資会社のタンカーがイランの原油千トンを購入して帰る途中、アラビア沖でイギリス海軍に拿捕されます。1952年(昭和27年)7月、ハーグの国際司法裁判所は、かねてイギリス政府が提訴していたイランとの石油紛争問題に、当裁判所には管轄権がないとして提訴を退けました。 

しかしメジャーの包囲網は続き、世界中どこからもイラン石油の購入者は現れません。そんな中で出光だけが、イラン石油購入の意志を固めたのです。講和条約発効後まもない日本政府は、このことで対英関係の悪化を招くことを恐れ、積極的な援助はしませんでした。 

出光は1952年(昭和27年)暮れから1953年(昭和28年)2月にかけて、イラン政府と困難な交渉を続けた結果、購入契約の調印に漕ぎつけました。1953年3月23日、出光は1951年1月に就航したばかりの虎の子の日章丸二世号1万8774トンを、イラン石油購入のため密かに神戸港を出港させます。イギリス海軍から隠れる形で航路も偽装し、4月10日イランに到着しました。

到着の時点でこのことは世界中に報道されて、国際的な事件となります。日本でも一民間企業が、当時、世界第二の海軍力を持つイギリスに喧嘩を売った事件として報道され、連日、一面記事を賑わせました。

4月15日ガソリンと軽油を積みこんだ日章丸が、国際世論が注目する中でアバダーン港を出港します。警戒の手薄な浅瀬や、機雷の浮遊する危険海域を通過してイギリス海軍の裏をかき、海上封鎖を突破して2万2千キロLを満載して5月9日に川崎港に到着しました。

これ対し英国アングロ・イラニアン社は積み荷の所有権を主張して、出光を東京地裁に提訴します。「日章丸事件」として法廷で争われることになり、裁判の経過は連日、新聞でも大きく取り上げられました。裁判と同時に、出光を処分するよう日本政府には圧力がかかったものの、イギリスによる石油独占を不快としていたアメリカの黙認や、喝采を叫ぶ世論が後押ししました。

裁判では出光側の正当性が認められて5月27日仮押さえ処分が却下され、アングロ・イラニアン社は即日東京高裁に控訴しますが、10月29日に取り下げて出光側の勝訴が確定しました。これを嚆矢として、石油の自由貿易が始まったのです。

その後、イランでのメジャーの締め付けが再び強化され、1956年(昭和31年)に取引は終了しました。しかしこの事件は、産油国との直接取引の先駆けをなすもので、日本人の目を中東へ向けるきっかけになりました。このときからイランは親日国となり、日本との信頼関係を深める歴史的な一歩となったのです。 

信念をもって日章丸事件を演出した出光佐三氏は、1976年(昭和56年)95歳で亡くなりました。日経新聞の「私の履歴書」には、「なぜ私が手をつけたかというと、英国と米国と共同して共同販売会社をつくり、イランの油を売ろうと申し込んでいる。米国、英国が買いにいくなら私が買いにいったっていいだろう。そう思って私は行って買ってきた。すると「その石油はドロボウ品」と英国からインネンをつけてきた。私たちの仕事は国家の仕事であるという見地から、仕事をすすめて行きたいという気持をもっている。いままでの世界カルテルは世界に非常な貢献をしているが、出光はカルテルにはじめから終わりまでいじめつけられた。私はカルテルの過去の恩義を恩義として考えたい。」と述べておられます。ここに戦前派の日本人の、気骨を見ることができます。

「題名のない音楽会」は、出光興産の提供するテレビの長寿番組ですが、出光氏は「芸術に中断はない」と云い切り、現在でも番組途中でのCMは入りません。

 



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