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歳を取らないと分からないことが人生には沢山あります。若い方にも知っていただきたいことを書いています。

三里塚闘争

2017-07-26 06:08:58 | 日記

「三里塚闘争」は、成田空港建設に反対する三里塚農村地区の地元住民が起こし、反国家権力闘争を掲げる新左翼活動家が加わって拡大した空港反対闘争です。開港直前の「成田空港管制塔占拠事件」は居合わせたマスコミによって全世界に報道されました。

千葉県北部は古代から野生馬の産地で、江戸時代には小金五牧佐倉七牧が設けられました。明治政府は牧羊場を開き、後に下総御料牧場になります。谷津田と呼ばれる湿田に江戸時代から続く集落が古村と呼ばれ、強固な村落共同体が形成されていました。明治大正期に原野を開墾した天神峰もあり、1923年(大正12年)に御料牧場の2,000町歩が払い下げられ開墾されています。

敗戦直後の1946年(昭和21年)にも、御料牧場の1,000町歩と県有林の一部が払い下げられて三里塚や東峰の開墾が始められました。入植者は元満蒙開拓団引揚者や、米国統治で帰れなくなった沖縄出身者で占められました。入植者は昼間は古村で小作として働き、夜になると月明かりで開墾作業を行い、脱落者から農地を買い取り過酷な環境に耐えた者だけが生き残りました。

1960年代初め航空業界が大発展し、1970年には羽田空港の能力が限界に達することが明らかになります。羽田空港は住宅密集地が隣接し陸上では拡張できず、首都圏第二空港の開設が急務となりました。

運輸省の当初計画は超音速旅客機用主滑走路(4,000m)2本、横風用滑走路(3,600m)1本、国内線用滑走路(2,500m)2本、総敷地面積2,300haで、ニューヨーク国際空港(JFK)の2,000haを上回るものでした。

1965年11月の関係閣僚懇談会で建設地が千葉県の富里村に内定します。突如突きつけられた、村がほとんど消滅する巨大空港計画に地元住民は激しい反対運動を展開し、根回しされなかった自治体も強く反発しました。

運輸当局は地元農民との話し合いをどうするかをまったく決めておらず、「用地買収の条件」「代替地」「転業対策」「騒音対策」の対応の4つを示して抗議した千葉県に対しても、政府の決めたことと云う運輸官僚の態度が火に油を注ぎました。

1966年佐藤栄作内閣は友納武人千葉県知事と水面下で交渉を進め、富里案を縮小して北東に移動し、御料牧場を建設地に充てて用地収用を最小限に抑えることで合意しました。6月22日佐藤首相が三里塚・芝山地区での空港建設案を発表すると、寝耳に水の三里塚・芝山地区の住民らが富里同様に猛反発します。

政府は7月4日に新空港の位置と、平行滑走路4,000m・2,500m、横風用滑走路3,200m、総敷地面積1,065haの規模を閣議決定しました。富里案に比べ大幅に縮小されましたが、空港予定地の6割が民有地でその取得が課題となります。

成田市及び芝山町は反対一色でした。戦後入植した開拓の住民は資金の返済が終わって農業が軌道に乗り始めた時期でしたし、先祖代々の古村を守ろうとする芝山地区等の住民や、異なる背景を持つ様々な人々が反対しました。1966年7月20日に「三里塚芝山連合空港反対同盟」が結成され、初期段階での反対同盟は農民を中心に1,500戸の世帯で構成されました。

行政や「新東京国際空港公団」による住民説明が行われ、相場の4~5倍の畑一反100万円を基準に用地を買収し、代替地を1.5倍に増やす、離農する者には補償を出すなど、買い上げ価格を相当思い切る政府の意向が示されました。

これを受けて移転に応じる条件賛成派が相次ぎ、成田市議会と芝山町議会は反対決議を撤回します。1968年4月6日空港公団と条件賛成派4団体との間で「用地売り渡しに関する覚書」が取り交わされ、空港公団は空港用民有地の89%を確保しました。

買取価格は畑140万円、田153万円、宅地200万円、山林原野115万円となり、代替地の価格は買取額の3分の2に抑えられましたが、必要な代替地が十分に確保できず、耕地が移転前よりも減少する問題が残りました。

離農した元地権者らは空港関連の警備業や店舗経営などに転じたため、元地権者が空港公団のガードマンとして闘争を続ける親族と対峙する事態も生じました。反対同盟に留まった者達の決意は固く、空港用地買収交渉を困難にする目的で土地一坪を地権者相互に売買し合う「一坪運動」が展開されます。

8月21日に友納知事が土地収用法に基づき、空港公団の土地の立入調査を通知します。10月10日外郭測量用のクイを打つため空港公団職員が機動隊に守られ空港建設予定地に現れ、反対派は座り込みによる阻止を試みましたが暴力的に排除されます。長期に亘る苛烈な実力闘争の幕開けでした。

測量クイ打ち阻止闘争で機動隊の威力を目の当たりにした農民たちは、同時期に発生した羽田事件で機動隊と渡り合った新左翼に期待し、「支援団体は党派を問わない」姿勢を取ります。

反国家権力闘争を掲げる新左翼各派にとって、三里塚闘争はベトナム戦争反戦運動や佐藤内閣への反発を象徴する恰好の闘争の場と映りました。反対同盟は、武装闘争路線の中核派共産同社青同解放派が主導する三派全学連の全面的支援を受けることになりました。

政府は一貫して妥協しない姿勢を貫き、1971年2月22日に建設予定地で第一次行政代執行を敢行し、反対同盟と機動隊が衝突しました。9月16日にも建設予定地で第二次行政代執行があり、激しい闘争によって機動隊員3名が死亡し双方に多数の負傷者を出しました。

1972年3月15日反対同盟はA滑走路南端のアプローチエリアの岩山地区に高さ63mの鉄塔(岩山大鉄塔)を建設し、飛行検査を中止に追い込みました。1977年 1月19日岩山大鉄塔撤去のための、重機を運び込む道路建設が着工されました。4月17日には三里塚第一公園に2万3千人が結集して「鉄塔防衛全国総決起集会」が開かれます。

5月2日空港公団は航空法違反として鉄塔撤去の仮処分を千葉地裁に申請し、5月4日千葉地裁は仮処分を決定します。5月6日 2,100人の機動隊が鉄塔周辺を制圧し、航空法違反部分だけでなく鉄塔を根元から切断撤去しました。

この日から反対派と機動隊の衝突が続き、5月8日には大規模な衝突が発生して「三里塚野戦病院」前でスクラムを組んでいた支援者が、頭部にガス弾の直撃を受けて2日後死亡しました。5月9日には報復と見られる襲撃により警察官1名が死亡します。

この中で一期地区工事が推進されました。滑走路1本での空港の開港が1978年3月30日に決まりましたが、開港目前の3月26日に「成田空港管制塔占拠事件」が起こります。 

「成田空港管制塔占拠事件」は、第四インターの和多田粂夫が立案したものです。空港周辺各所でのゲリラ活動や、大集団の空港包囲・突入闘争の陽動作戦を行う間に、地下排水溝から空港敷地に潜入した行動隊が管制塔を占拠する作戦で、共産主義者同盟戦旗派共産主義労働者党がこの作戦に応じました。この三派はいずれも赤ヘルを着用していて「赤ヘル三派」と呼ばれました。

3月25日夜「赤ヘル三派」の行動隊が排水溝から空港内への侵入を図ります。排水溝に入る際に7人が機動隊に捕捉されましたが、15人が空港内の排水溝内で夜を過ごしました。

空港は周囲を高さ3mのネットフェンスと9カ所のゲートで厳重に守られ、全国から動員した1万4千人の機動隊と空港公団警備員による警備体制を敷いていました。和多田は陽動作戦で機動隊の主力を空港敷地外に分散させ、手薄になった空港に突入して管制塔を占拠する作戦を立てていました。

3月26日早朝「開港阻止決戦・空港包囲大行動 総決起集会」が4千人の参加で開催され、横堀要塞支援に向かうグループ、第8ゲートからの空港への突入を目指すグループ、第6ゲート方向へ向かうグループの三集団に別れて行動を開始し、午後1時前には横堀要塞近くでデモ隊が機動隊と衝突、空港東側の航空保安協会研修センターや第6ゲートも攻撃されました。

東峰十字路周辺では、県道を封鎖するようにトラックを放置し放火し、その直後に陽動作戦の活動家や火炎瓶と廃油入りのドラム缶を載せたトラック2台が、パトカーを火炎瓶で追い立てながら空港に向かいます。トラックは第9ゲートに逃げ込んだパトカーに続いて空港内へ突入しました。第8ゲート部隊は午後1時20分頃、横堀要塞北側の松翁交差点で千葉県警察機動隊と衝突します。

午後1時5分頃地下の赤ヘル部隊15人が、マンホールから空港内道路に這い出しました。直後に数人の警官が発見して拳銃を向けたものの、最後の1人がマンホールを出た瞬間に「逃げろ」と叫んで逃走し、追跡を振り切って空港管理棟敷地内に突入しました。

管理棟玄関前は第9ゲート部隊のトラックの炎上の消火作業・逮捕活動で混乱していて、その隙をついた行動隊は管理棟に侵入して5人が管制塔1階で警官・機動隊と対峙している間に、10人がエレベーターを乗り継いで上層階へ向い管制室につながる階段を駆け上りました。

管制塔への途中に施錠された鉄製の扉があって開ける事が出来ず、行動隊が火炎瓶を投げつけて管制室に煙が充満したため、管制官5人は非常用ハッチで屋上へ脱出しました。

行動隊の6人は14階のマイクロ通信室のベランダを占拠して赤旗を垂らしたのち、パラボラアンテナの鉄骨をよじ登って16階のテラスにたどり着き、管制室の窓ガラスを壊して室内に入りました。管制塔の占拠に成功した行動隊はあらゆる管制用機器を破壊し、管制室内の書類を割れた窓からばら撒きました。航空管制システムは開港予定日までには修復しえない状態となり、管制塔屋上の管制官は、上空の警視庁ヘリコプターから吊り上げられて脱出しました。

管理棟周辺では数十分の衝突ののち、陽動作戦を終えた大部隊は撤収しますが、管制塔突入の行動隊、空港突入の大部隊、「横堀要塞」の篭城部隊、空港周辺各所のゲリラ部隊から計168人の逮捕者が出ました。開港直前の取材に来ていた多数のマスコミによって、この様子は全世界に発信されます。

1978年5月20日開港記念式典は厳戒中の空港ターミナルビル福永健司運輸相ほか関係者56名とマスメディアだけで行われ、ターミナルには一般乗客が一人もいませんでした。管制塔占拠事件は多くの人々の記憶に強く印象付けられていますが、開港予定日直前の一つの象徴的事件にすぎません。

三里塚闘争は、その以前も、その以後も、果てしなく続きました。開港の日も「滑走路人民占拠」をスローガンに、「赤ヘル三派」を中心に空港周辺の各所で空港反対派が機動隊と衝突しましたが空港侵入は阻止され、5月21日日航ロサンゼルス発の貨物機が第1便として着陸しました。

成田空港は2002年まで一本の滑走路で運用されたとは云え、世界各地からジャンボジェット機が飛来しました。2004年(平成16年)4月1日新東京国際空港公団は民営化されて「成田国際空港株式会社」となり、空港の名称も「成田国際空港」になりました。

2015年度の成田空港の運用実績は総旅客数3,794万1,435名で、利用者数は2年連続で過去最高を記録しました。LCC路線がアジア・太平洋路線を新設したことにより、国際線外国人旅客数は前年比21%増の1,290万667名と最高値を更新し、国内線旅客数も15%増の688万5,598名と7年連続で最高記録を示しました。

三里塚闘争はもはや世人の関心をまったく惹きませんが、2000年代に入っても反対派のゲリラ活動は依然として続きました。周辺地域には空港関連事業で働く多くの人が移り住み、地元住民の多くも経済的に空港へ依存するようになり、自治体も空港からの税収や交付金に頼るようになって、反対派住民は地域の「空港との共生・共栄」の声に押されて次第に孤立していきます。

2016年7月21日横堀現地闘争本部」の撤去を求めた裁判で、最高裁が闘争本部の撤去と土地の明け渡しを命じ、10月25日B滑走路の誘導路湾曲の主因となっている農家へ土地明け渡しと建物の撤去を命じました。2017年2月16日千葉県が駒井野の一坪共有地の引き渡しを求めていた裁判で、千葉地裁は所有者にすべての共有地の引き渡しを命じました。

「三里塚闘争」の本質は地元民の空港開設反対運動に止まらず、空港反対に名を借りた新左翼のベトナム戦争反戦運動や佐藤内閣への反国家権力闘争だったのです。三里塚闘争の世間の記憶は今やまったく失われていますが、三里塚闘争が半世紀にわたって続いていたことも、我が国の知られざる現代史です。

 



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