我が国の稲作は縄文時代中期にはじまり、水稲栽培が大々的に行われるようになったのは縄文時代晩期から弥生時代早期にかけてです。米は長らく租・年貢として税の役割を務めてきました。
江戸時代には各藩の年貢米が大阪に集中し、貨幣経済の発達に連れて米切手や堂島米会所に代表される近代的商品取引システムが形成され、米が政治経済の中心に置かれました。
米は農民の主たる作物で食料として重要な地位を占めながら、階級や貧富の差、地域の差などによって、主食としての意義には大きな違いがありました。戦後の高度経済成長以前は畑作地帯などで、雑穀や芋などを主食にしていた農民も多かったとされています。
しかし各地域に残された農家の文書の研究が進んで、雑穀を中心とした食生活を強いられた貧しい農民像だけが、必ずしも実態ではないことが判ってきました。農民の文書の記録での近世の農民は、麦や雑穀などを混ぜた「かて飯」や雑炊で、一日に四合ほどの米を日常的に摂っていたことが推察されます。
戦前の日本の米の10a当りの収量は300㎏前後と現在の半分で、1933年(昭和8年)には作況指数120を記録し「減反」が打ち出されたことがありますが、翌年東北地方で冷害から凶作・飢饉が発生しています。
米は、戦前、通常の市場原理に基づいて取引されており、相場商品、投機の対象として流通に不安を来すことがありました。特に1918年(大正7年)の米騒動がおき、しばしば、社会問題になりましたが、1939年(昭和14年)4月に戦時体制の一環として米穀配給統制法が制定され、政府が米の流通を管理するようになりました。
日米開戦翌年の1942年(昭和17年)2月には食糧管理法が制定され、米の流通だけでなく魚介類や野菜・果物も配給制になり、国民の栄養状態は極度に悪化していきます。
米穀通帳は1942年4月1日から食糧管理制度の下で、米の配給を受けるために発行されていた通帳です。国民は一般用米穀類購入通帳がなければ米を手に入れることができず、紛失しても再発行は受けられず、譲渡・貸与・偽造・変造をすると罰則がありました。飲食店で米を使った食事をする時や旅館に宿泊して米飯の提供を受ける際は、米を持参するか旅行者用穀類購入通帳を提出しなければなりませんでした。
1942年4月から米穀の割当通帳制が東京、大阪、名古屋、京都、神戸、横浜の六大都市で実施されました。その後この制度は全国的に拡大され、12月には全国99%の市町村で実施されます。
米穀配給の基準割当量は一人一日二合三勺で、1945年5月まで変りませんでした。一日当りの米割当量を二合三勺としたのは栄養的見地ではなく、米の供給量から算出したようです。1940年8月までの1年間に全国俸給生活者の消費した一人当りの一日米消費量三合(430g)に比較すると2割強少なく、二合三勺(330g)の米で摂取できるのは熱量1,155kcal、炭水化物254.3g、蛋白質23.8g、脂肪1.7gでした。
この配給制度開始以後、部分的な増配措置がとられました。1941年12月より造船、鉄鋼、炭鉱その他の鉱山の労働者および沖仲仕に対し一合(140g)の増配、1942年3月より上記以外の労働者に対し五勺(70g)の増配をしました。六大都市の妊婦に五勺(70g)、7歳~20歳の青少年に対し四勺(60g)、薪炭生産者に対して一合(140g)の増配も行われました。
日本人の米の消費量は中等度の労作を行う成人で一日三~三・五合(430~500g)とされていたので、何等かの方法で不足分を補わなければ栄養が足りなくなります。配給制開始当時は配給量の不足分を補うパン、ウドン、ソバなどの入手が可能でしたが、その後日常生活に欠かせない生活物資はすべて配給制となり、野菜に至るまで食料品の余分な入手ができなくなりました。
1944年4月六大都市で小学児童に対する学校給食が始まり、パン食と代用食の併用で一日七勺(100g)分の給食が行なわれました。同年夏から学童疎開が実施されましたが、都市に残った一部児童についてはこの給食が続けられました。
米の配給量を節約し米のビタミン B-1を供給するために、1939年(昭和14年)11月勅令によって、「米穀搗精(とうせい)等制限令」が公布されます。搗精とは精米のことで、精米によって米の重量が94%以下にならないように指定され、七分搗(づ)き米を流通させました。
戦争が続いて物資の不足は深刻になり、米の代わりに芋類、大麦や高粱(コーリャン)が配給されました。1945年(昭和20年)の端境期(はざかいき)には米の在庫が不足し、配給の遅配、欠配が起きました。7月から米の配給量が更に削減されて一人一日当たり二合一勺(300g)になりましたが、これは米の配給開始前の消費量の30%減に相当します。
戦後の食糧難はさらに深刻さを極めます。1945年10月の東京上野駅での餓死者は1日平均2.5人で、大阪でも毎月60人以上の栄養失調による死亡者を出しました。闇が隆盛であった戦後の混乱期にヤミを拒否し、判検事は法の威信に徹しなければならぬと一切のヤミを拒否して配給生活を守り続け、極度の栄養失調から肺浸潤で倒れた青年判事の話が伝えられました。
仙台市の全市域18校の6年男子についての調査では、1941年(昭和16年)以降毎年発育の低下が進み、敗戦翌年の1946年(昭和21年度)には平均身長で5㎝、平均体重で3㎏少なく戦前の5年生と同じ体格で、仙台市としては空前の劣小な体格となりました。1948年に全国で学校給食が実施されると発育は好転し始め、1年毎に戦前の標準身長体重に戻っていきます。
1946年ララ物資の援助があり、1947年から1951年(昭和26年)まではガリオア・エロア資金として総額20億ドルの経済援助が行われました。その60%以上が食糧輸入に充てられましたが、食糧不足の解決は難しく配給の遅配が相次ぐ事態となっていました。
配給量の米を外食券に替えると、一日三回使えば20日分そこそこしかありません。ヤミ市以外では食べるものがまったく手に入らないため、都会の学校で寮生活をする学生は故郷から食料を送ってもらえない場合、一日二食で食いつなぎ、出なくても済む授業の時は、寮で寝ていて体力の消耗を防ぐ状況も起きました。
アメリカの占領政策の一環として学校給食には輸入小麦粉が充てられ、給食はパンと脱脂粉乳が主体となりました。食糧の供給に余裕ができた1952年(昭和27年)には、「栄養改善法」が施行されて米偏重の是正が叫ばれて欧米風の食事を理想としたこともあり、戦前一人一石(160㎏)と云われていた米の年間消費量は、1962年(昭和37年)に戦後最高の118.3㎏に達したのをピークに、以後、年々減少しました。
1960年代になると事実上米の配給はなくなりましたが、食管制度上の規定では米穀通帳が必要でした。1969年(昭和44年)からは自主流通米制度が発足し、1972年3月28日には米穀が物価統制令の除外項目となりました。1979年(昭和54年)7月22日の読売新聞では、国務大臣のうち米穀通帳を使っているのは法務大臣古井喜実だけだったと報道されています。
日本人にとって米を主食とすることは有史以来の宿願でした。昭和40年代初頭に肥料や農業機械の導入などによって生産性が向上し、ようやく米の自給が実現できて、名実ともに米が日本人の主食となったのです。
しかしアメリカの小麦戦略はすでに定着していて、学校給食でのパンへの馴れや栄養改善運動による食事の欧風化で、米離れに拍車がかかりました。米の余剰が発生し、生産者からの買取価格よりも消費者への売渡価格が安い逆ザヤの食管制度のため、食管会計の赤字が拡大しました。
政府は1970年(昭和45年)に新規の開田の禁止、政府米買入限度の設定と自主流通米制度を導入し、一定の転作面積の配分を柱とした本格的な生産調整を開始しました。八郎潟の干拓事業によって誕生した秋田県大潟村の入植は1967年に始まったばかりでしたが、この年を最後に入植者の募集は取り消されました。
この生産調整の導入は、米の生産拡大の基盤整備事業が行われていた最中のもので、米の生産調整には強い反発が各方面からおきました。生産可能面積の取り扱いを巡って大潟村の既入植者が、長年にわたって国と対立しました。
政府は田圃に麦・豆・牧草・園芸作物等の作付けをする転作奨励金を出して転作を推進する一方、稲作に関する土地改良事業などの補助金の交付には転作の達成を要件とするなど、制度的には農家の自主的な取組みですが、実質的には転作制度が義務化されて促進されました。
生産拡大の基盤整備事業の効果が生産調整導入以降に現れはじめ、単位面積あたりの生産量が増加しました。農家の多くは補助金を目当てに転作に取り組みましたが、米を引き続き栽培するための条件として、止むを得ず、一部転作を受け入れる農家もありました。
水稲の作付け面積は 1969年(昭和44年)の 317万haをピークに、1975年(昭和50年)には 272万ha、1985年(昭和60年)には 232万haに減少、生産量も 1967年の 1,426万tをピークに、1975年には 1,309万t、1985年には 1,161万tに減少しました。
1985年(昭和60年)と1994年(平成6年)に凶作のため米を緊急輸入をした翌年を除いては、一貫して生産調整の強化が続けられて1995年には作付け面積 211万ha、生産量 1,072万tに、2000年(平成12年)以降は作付け面積 170万ha、生産量 900万t程度を推移し、作付け面積は半減、生産量は60%に減少しました。
日本人一人あたりの年間米消費量は、1990年代後半には一頃の半分以下の60㎏台に落ち込みました。生産調整が強化され続ける一方で転作奨励金の予算額は減少の一途を辿ったため転作に代わって休耕田や耕作放棄地が顕在化し、弥生時代以来長い時間をかけて開発され維持されてきた我が国の水田が荒れるに任されるようになりました。
この中で食管法が廃止されて食糧法に代わり、政府の米買入れの目的は価格維持から備蓄に移行して買入れ数量は大幅に削減され、米の価格は市場取引で形成されることになりました。2013年(平成25年)11月第二次安倍内閣は減反政策は2018年(平成30年)で終了すると発表しましたが、減反政策の終了とは転作補助金の打ち切りを意味します。
我が国の農業は将来的ビジョンを欠き、世界的に大規模農業経営が主流になる中で国際競争力を低下させてきました。1960年に米の配給がなくなり本格的な米の生産調整を開始した1970年以後も、必要のなくなった米穀通帳の発行が1981年(昭和56年)の食管法改正まで漫然と続けられた経緯は、まったく理解に苦しみます。TPP交渉で日本は、コメを「重要5項目」のトップに位置づけましたが、はたしてコメがTPPで論ずべき最重要項目だったのでしょうか。
戦後の農業政策で、GHQの指令により農地解放が実現したのは大いに評価できるとして、小規模の土地の所有者が大幅に増加した結果は兼業農家が多くを占め、食糧管理制度温存による米優先農政を続けた結果は先進的な農業の担い手となり得る中核的農家が育たず、農家の後継者不足対策もまったく立っていないのが現状です。アメリカの大平原の農地は大規模な機械化がされていますが、100年前には全就労者の40%だった農業従事者は現在は2%で生産性を維持しています。
人の職場の半分以上が近くロボットに奪われるだろうと云われている現在、農業の担い手を農家の出身者に限る旧弊を破り、新しいIT農業へ切り替えて、植物工場や、農地の共同利用による大規模な露地栽培など、若い人たちにとって収益性の高い、余暇も楽しめる、魅力ある働き場所に変えれば、農業は輝きに満ちた職場に代わるでしょう。