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歳を取らないと分からないことが人生には沢山あります。若い方にも知っていただきたいことを書いています。

富岡製糸場

2021-08-19 06:19:27 | 日記

富岡製糸場は群馬県に設立された日本初の本格的な器械製糸工場で、1872年(明治5年)創業当時の繰糸所、繭倉庫などが現存しています。日本の近代化だけではなく、世界の絹産業の技術革新や交流に大きく貢献しました。

フランスの技術を導入して設立された官営工場ですが、器械製糸工場としては当時世界最大でした。富岡に導入された器械は後続の製糸工場に取り入れられ、働いていた工女たちは各地に技術を伝えました。

1893年三井家に払い下げられ、1902年に原合名会社、1939年に片倉製糸紡績会社(現片倉工業)と経営母体は代わりましたが、第二次世界大戦中も空襲に遭わず1987年まで一貫して操業し続けました。操業停止後も片倉工業が施設の保存に努めてきたため、繰糸所を始め開業当初の木骨レンガ造の建造物群が良好な状態で残されています。

2005年に敷地全体が国の史跡になり、2006年に初期の主要建造物が重要文化財の指定を受け、2014年6月に「富岡製糸場と絹産業遺産群」として日本の近代化遺産で初の世界遺産に指定されました。

黒船来航で開国した直後の江戸時代には日本の生糸、蚕種の輸出が急速に伸びましたが、ヨーロッパで蚕の病気が大流行し養蚕業が壊滅的な打撃を被っていたこと、太平天国の乱で清国の生糸輸出が振るわなかったことが伸びの背景にありました。

1862年(文久2年)には日本からの輸出品の86%を生糸と蚕種が占めましたが、急激な需要の増大は質の低下を招いて我が国の生糸の国際的評価の低落につながり、日本製生糸の価格は1868年から下落に転じました。

明治政府は1870年(明治3年)に国策として器械製糸の官営模範工場の建設を図り、大隈重信、伊藤博文、渋沢栄一らがフランス公使館通訳アルベール・シャルル・デュ・ブスケと、エシュト・リリアンタール商会横浜支店長ガイゼンハイマーに器械製糸場建設の適任者の紹介を依頼し、エシュト・リリアンタール商会横浜支店勤務のポール・ブリューナの名が挙がりました。

ブリューナは長野、群馬、埼玉など各県を視察し富岡を建設地とすることを決め、横須賀製鉄所のお雇い外国人エドモン・オーギュスト・バスチャンに製糸工場の設計を依頼しました。バスチャンは木骨レンガ造の横須賀製鉄所を設計した経験を活かして、短期間のうちに主要建造物群の設計を完成します。

上州富岡製糸場 1872年(明治5年)

ブリューナは1871年3月器械購入と技術者雇用の目的でフランスに帰国しましたが、帰国前に地元の工女に在来の手法で糸を繰らせて我が国の手法の特徴を把握し、それを踏まえて製糸場用の器械を特注しました。年内の12月に妻とともに再来日します。

ブリューナ一行

日本側の責任者は尾高惇忠で1871年3月工場の着工に漕ぎつけました。レンガはまだ一般的な建築資材ではなく、明戸村(現深谷市)から瓦職人を呼び、良質の粘土を産する福島村(現甘楽町福島)に窯を築いて焼き上げました。

尾高惇忠

1872年2月12日に政府による工女募集が行われましたが「工女になると西洋人に生き血を吸われる」と噂話が広まって集まらず、尾高は噂を払拭するために娘の勇(ゆう)を最初の工女にしました。

富岡製糸場は1872年11月4日に操業を開始しましたが、当初は210人の工女で全体の半分の繰糸器を使って操業するにとどまり、旧士族の娘たちを集めて翌年1月の時点で404人、4月には556人にしました。

製糸場の中心をなす繰糸所は繰糸器300釜を擁した巨大建造物で、フランスやイタリアの製糸工場ですら繰糸器は150釜だった時代に世界最大規模でした。特徴的なのは揚返器を156窓も備えていたことです。

富岡製糸場の繰糸場 明治時代 

揚返(あげかえし)は小枠に一度巻き取った生糸を大枠に巻き直す工程で、湿度の高い日本では一度巻き取っただけでは生糸が再び膠着する恐れがあり、ブリューナが器械を特注したのは、日本の気候に合わせた再繰式を導入するためでした。

工女たちの労働環境は充実していて、先進的な七曜制の導入で日曜の休み、年末年始と夏期に10日の休暇、1日8時間の労働で食費・寮費・医療費は製糸場持ちで制服も貸与され、1877年(明治10年)には変則的な小学校である工女余暇学校も始まりました。

しかし官営としてのさまざまな規律や作業場の騒音など若い工女たちにとってストレスもあり、1年から3年の満期を迎えずに退職する者も多く、不熟練工を多数抱えて赤字の一因となりました。

様々な身分の若い女性が一緒に生活することから上流出身の女性の身なりに合わせたがる工女も多く、出入りの呉服商、小間物商から月賦で服飾品を購入して借金を重ねる事例もしばしば見受けられました。

工女たちはブリューナが連れてきたフランス人の女性技術指導者たちから製糸技術を学び熟練度によって等級に分けられましたが、1873年5月には尾高勇ら一等工女の手になる生糸がウィーン万国博覧会で「二等進歩賞牌」を受賞しました。

この受賞は富岡製糸場の評価を高めリヨンやミラノの絹織物に富岡製の生糸が使われました。工女たちは後に日本全国各地に建設された製糸工場で繰糸の方法を伝授します。

初期の富岡製糸場は不熟練工の問題やブリューナ以下のお雇い外国人たちの高額の俸給で大幅な赤字でしたが、1875年12月でお雇い外国人はいなくなります。

お雇い外国人への支出がなくなり、尾高所長の大胆な繭の思惑買いなどが功を奏して黒字に転換しましたが、尾高の思惑買いは政府との対立を招き1876年11月に所長を退きました。エシュト・リリアンタール社を経てリヨンに輸出されていた生糸は、1877年に三井物産により日本人の手で輸出されるようになります。

1878年(明治11年)松方正義はパリの万国博覧会で富岡の生糸の質の低下を指摘され、かねてから富岡製糸所の民営化も含めた抜本改革を提言していた内務省官吏の速水堅曹に富岡製糸所の改革を任せることにします。

速水堅曹(第3代、第5代所長)

第3代所長に任命された速水は1880年11月5日の「官営工場払下概則」の制定と前後して、富岡製糸所の生糸の直輸出を一手に担う横浜同伸会社の設立に関わり所長を辞任して同伸会社の社長に就任しました。

実は松方との間で民間人となった速水が富岡製糸所を5年間借り受ける内諾がされていましたが、政府はこれを認めず、当時の民間資本には富岡製糸所の巨大さが手に余り、払い下げを希望する民間人は現れませんでした。

1885年(明治18年)速水が第5代所長として復帰します。速水は同伸会社社長時代に富岡製糸所の生糸の輸出を一手に引き受け、ニューヨークにも輸出するようになっていて米仏両国で富岡の生糸の評価を高めました。

1891年6月富岡製糸所払い下げの最初の入札が行われましたが調わず、1893年(明治26年)の入札で三井家への払い下げが決定しました。三井家時代の経営は順調で、繰糸所に加えて木造平屋建ての第二工場を新設したほか、第一工場(旧繰糸所)からは揚返器を撤去し、西置繭所1階に揚返場を新設しました。この時期に開業当初の繰糸器、揚返器が新型に換り、新体制の下で生産された生糸はすべてアメリカへ輸出されました。

寄宿舎も新設されましたが工女の半数は通勤になり、工女の労働時間は開業当初に比べると6月の実働時間が11時間55分、12月には8時間55分と伸びています。長時間労働で疲れた工女たちは読み書きや裁縫を教える夜学には熱心でありませんでした。

三井は富岡以外に3つの製糸工場を抱えていて4工場を併せた収益は好調とは云えず、1902年(明治35年)4工場すべてを原富太郎の原合名会社に譲渡し、原合名会社は1902年10月に原富岡製糸所と名を改めました。

1900年前後には繭質改良に積極的で蚕種を安価で配布する業者が現れ、蚕種の養蚕農家への配布は繭の品質向上と均質化に寄与しました。原富岡製糸所でも1906年(明治39年)からは蚕種の配布が無償で行なわれます。

原時代は第一次世界大戦や世界恐慌に見舞われて生産量が減少しましたが、間もなく20緒のTO式繰糸器および御法川式繰糸器を大増設して生産性が向上し、1936年には14万7千㎏で過去最高の生産量になりました。

しかし満州事変や日中戦争によって国際情勢が不安定化し輸出先にも懸念を生じて、1938年に原合名会社は製糸事業の縮小に踏み切り、富岡製糸所は切り離され同年6月1日に株式会社富岡製糸所として独立しました。

1939年株式会社富岡製糸所は当時日本最大級の繊維企業であった片倉に合併されて片倉富岡製糸所となり、1940年には18万9千㎏の生産量で過去の最高記録を更新します。第二次世界大戦中も富岡製糸所は操業し続けましたが、男子を兵隊に取られた農村からは応募する工女が減り、繰糸機の増設によってカバーしました。

戦後の1946年(昭和21年)戦時中の統制経済下で結成された日本蚕糸統制株式会社がGHQに解散させられ、ここに合併されていた富岡製糸所も片倉工業株式会社富岡工場に戻りました。1952年(昭和27年)からは自動繰糸器を段階的に導入し、その後も最新型の機械への刷新を繰り返して、1974年(昭和49年)には生産量37万3,401㎏と富岡製糸場史上最高の生産高を挙げました。

しかし女性が和服を着る機会が減る世相の変化に加え、1972年(昭和47年)の日中国交正常化が中国産の廉価な生糸の輸入増加を招いて生産量は減少に向かい、1987年(昭和62年)操業を停止しました。

2005年(平成17年)「旧富岡製糸場」として国の史跡になり、2006年に建築物7棟他が一括して重要文化財の指定を受け、2014年に繰糸所、東西の置繭所の3棟が国宝に指定されます。

2012年UNESCO の世界遺産に推薦され、2013年に世界遺産委員会の諮問機関であるICOMOSの現地調査を経て、2014年第38回委員会で正式に世界遺産に登録されました。

繰糸所(国宝)は富岡製糸場の中心的な東西棟の細長い建物で、木骨レンガ造、平面規模は桁行140.4m、梁間12.3mです。フランスから輸入した大きなガラス窓で採光され、300釜のフランス式繰糸器が設置されました。

  

繰糸所

  

富岡製糸場で使用されていたフランス式繰糸器のレプリカ

東置繭所(国宝)と西置繭所(国宝)は1872年の竣工で、繰糸所の北側に建つ南北の細長い建物です。東西置繭所とも桁行104.4m、梁間12.3m、木骨レンガ造2階建で、2階部分が繭置き場に使われ32tの繭を収容できたとされます。

東繭倉庫(東置繭所)

首長館(重要文化財)は木骨レンガ造、ブリューナ一家が滞在するために建設された建物で916.8㎡と広く、1879年にブリューナが帰国すると工女向けの教育施設に転用され、戦後には片倉富岡学園の校舎として使われました。

 

首長館(2015年3月)

女工館(重要文化財)は首長館と同じく1873年の竣工で、木骨レンガ造、2階建で、この建物はフランスから連れてきた4人の女性技術指導者たちのためのものでした。

女工館(2015年3月)

江戸時代末期に開国した我が国は生糸が主要な輸出品となり、富岡製糸場は明治以後の絹産業の技術革新・交流など官営工場として日本の近代化に大きく貢献しました。

富岡製糸場が操業を開始した1872年(明治5年)は日本最初の鉄道が新橋駅から横浜駅まで開通した年で、我が国の鉄道は150年の間にさまざまな変遷を経て世界の最先端のものになりましたが、富岡製糸場が100年を超えても大きな機構改革なしに国際的評価を維持して操業を続けてきたその先進性は世界遺産に登録された理由でもあるでしょう。

操業以来の木骨レンガ造りの建物は保存状態が非常によく、今日でも見学者は明治初期の和魂洋才を目にすることが出来ます。

 


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