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歳を取らないと分からないことが人生には沢山あります。若い方にも知っていただきたいことを書いています。

アヘン戦争

2018-04-04 06:09:36 | 日記

香港の雨傘運動は2014年の9月から12月に香港で起こった、香港特別行政区政府に対する抗議デモです。2016年の選挙で当選した民主派議員ら6人が、中国政府の圧力によって議員資格を剥奪されました。

2018年3月11日に補決選挙が行われましたが、今回は空席の4議席を争ったもので香港政府は民主派指導者の周庭氏の立候補を認めず、民主派が僅差で2議席を獲得して定数70議席のうち26議席を占めました。

我が国では英領香港の中国への返還時に約束された一国二制度を、中国政府が反故にすることへの香港人の抗議運動と捉えられていますが、香港が英国領になったのは1840年から2年間行われたアヘン戦争に敗れた結果です。

アヘンをへ密輸して巨利を得ていた英国と、アヘンを禁止していた清との間でおきたアヘン戦争が英国の勝利に終わり、1842年南京条約が締結されて清は英国に香港を割譲し多額の賠償金を支払いました。

 

1773年に英国の東インド会社はベンガルのアヘンの専売権を獲得し、1797年にはアヘンの製造権も獲得していました。当時の英国は清から陶磁器を大量に輸入していましたが清へ輸出できる商品がなく、大幅な輸入超過でした。英国は輸入超過の解消に清にアヘンを密輸し、1823年には最大の輸出商品になりました。

アヘンの密輸で貿易収支は逆転し、アヘンの支払いに銀が使われたため清国内の銀が激減しました。道光帝1838年林則徐欽差大臣に任じて広東に派遣し、密輸の取り締まりに当たらせます。林則徐はアヘン商人からの贈賄に応じず1839年3月に取り締まりを開始して、英国商人が持っていた総量1,400tを超えるアヘンを没収し処分しました。

 

1836年に英国はチャールズ・エリオットを清国貿易監察官として広東に派遣していましたが、エリオットは英国商人のもつアヘンの引き渡しには応じたものの密輸をしない誓約書の提出は拒否し、5月24日に広東在住の英国人を連れてマカオに退去します。

林則徐は8月15日に九竜半島での英国船員による現地民殺害を契機にマカオを武力で封鎖し、エリオットたちは8月26日マカオも放棄して船上へ避難しました。

英国はエリオットの広東派遣と同時に、英国東インド艦隊に軍事行動でエリオットに協力するよう通達を出していました。エリオットは到着した2隻のフリゲート艦を使って反撃に出て9月4日の九竜沖砲撃戦、11月3日の川鼻海戦で清国船団を壊滅させます。

英本国では1839年10月1日に清への東洋艦隊派遣が決定しました。アヘンの密輸が発端の開戦には批判もありましたが、出兵予算案は賛成271票、反対262票の僅差で承認されたのです。

1840年8月までに軍艦16隻、輸送船27隻、東インド会社の武装汽船4隻、陸兵4,000名が清に到着し、英国艦隊は林則徐が兵力を結集していた広州を避けて、兵力が手薄な沿岸地域を占領しながら北上し、大沽砲台を陥落させて首都北京に近い天津沖へ入りました。

 

驚いた道光帝は強硬派の林則徐に開戦の責を負わせ、和平派のキシャンを後任として英国軍と交渉に当たります。1841年1月20日にキシャンとエリオットの間で広東貿易の早期再開、香港割譲、賠償金600万ドルなどの川鼻条約が締結されました。

英国軍が撤収すると清政府内で強硬派が再び勢いを盛り返し、道光帝はキシャンを罷免して川鼻条約の正式な締結も拒否しました。英国軍は軍事行動を再開し、廈門舟山諸島寧波など揚子江以南の沿岸地域を次々に制圧します。

1842年春には英国艦隊がインドのセポイの6,700名、本国の2,000名の援軍、新たな汽走砲艦などの増強を受けて北航を再開し、5月に清が誇る満洲八旗軍が駐屯する乍浦を陥落させて揚子江へ進入、7月には鎮江を陥落させました。京杭大運河の運輸が止められて北京政府の戦意は完全に失われます。

1842年8月29日両国は南京条約に調印してアヘン戦争は終結しました。南京条約では従来の広東福建浙江の3港に福州上海を加えた5港を自由貿易港とし、英国への多額の賠償金香港の割譲が定められ、翌年の虎門寨追加条約では治外法権関税自主権の放棄、最恵国待遇条項の承認が定めらます。

英国は戦いには勝利しましたが、中国製の綿製品が英国綿製品の輸入を阻害して、交易上のメリットは得られませんでした。英国は次の機会を窺い第二次アヘン戦争と云われるアロー戦争をおこします。

林則徐のブレーンであった魏源は、林則徐が収集した英国・米国の情報を元に「海国図志」を著して夷国の脅威を述べ「夷の長技を師とし以て夷を制す」と訴えましたが中国社会全体としてははこの訴えに無関心でした。

清の敗戦は長崎に入港するオランダや清の商人を通じて幕末日本に伝わり、西洋諸国の軍事力の圧倒的優勢は我が国に衝撃を与えました。「海国図志」もすぐに伝えられ、林則徐の抱いた西洋列強への危惧の念は日本の外交に活かされます。

それまで異国船打払令など強硬な態度だった江戸幕府は、1842年(天保13年)に方針を転換して異国船への薪水給与令を打ち出し、欧米列強への態度を軟化させます。この幕府の対応がペリーの来航から開国へと繋がりました。

アロー号事件はアヘン戦争後の外国人排斥運動の象徴的な出来事で、1856年から1860年にかけて英仏連合軍と清の間で起こったアロー戦争の発端となりました。英仏連合軍は1860年北京を占領し北京条約が締結されます。

南京条約香港が割譲され、北京条約九龍半島南端が英国へ割譲され、1898年展拓香港界址専条新界の99年間租借が決まりました。1941年にはじまった太平洋戦争日本軍が香港を占領した時期がありますが、1945年に英国の領土に復帰しました。

 

1970年代に香港政庁は新界に開発の手を伸ばしましたが、1997年に租借期限の切れる新界の土地の権利について不安があり、1979年 マクレホース香港総督北京を訪れて協議を提案しましたが、中国は具体的な協議を避けます。

1982年9月にはサッチャー首相が訪中して英中交渉が開始されます。英国は租借期間の切れる新界しか念頭にありませんでしたが、中国が英国に割譲された香港島や九龍半島の返還を求めて実力行使を示唆したため英国が折れました。

1984年12月19日中英連合声明が発表され、英国は1997年7月1日に香港を中国に返還し、中国は一国二制度をもとに50年間社会主義政策を香港で実施しないことを約束します。返還後に香港特別行政区政府が成立して旧香港政庁の機構と職員は特別行政区政府へ移行し、香港駐在英軍が撤退して中国本土からの人民解放軍駐香港部隊が駐屯を開始しました。

一国二制度は中国の国家主権の枠組みの中で、中国本土から分離した領域に一定の自治や国際参加を可能とするものです。当初は台湾のために提案された構想でしたが、現在は香港ポルトガルの植民地だったマカオで実施されています。

中国は一国二制度のために全国人民代表大会で「特別行政区基本法」を制定しました。特別行政区基本法の最終解釈権は全国人民代表大会常務委員会にあり、中央政府の事務または中央政府と特別行政区の関係の解釈が判決に影響を及ぼす場合、香港の裁判所は常務委員会に解釈を求める必要があります。

2014年6月10日に公表された中国国務院新聞弁公室の白書では、香港特別行政区における一国二制度は「全て中央政府から与えられたもの」と明文化され、8月31日には全国人民代表大会常務委員会が2017年からの香港の普通選挙制で、事実上の親中派優遇、民主派締め出し策を設けることを発表したために雨傘運動の発端となりました。

香港の「高度の自治」を明記した1984年の「中英共同宣言」は1997年の返還から50年間適用されることになっていましたが、2014年11月に駐英中国大使館が「今は無効だ」との見解を英国に伝えたことが明らかになります。

香港の人々はまぎれもない中国人なのですが、香港人の感覚は少し違うようです。返還後の香港の人々の国籍は中国なのに香港人のパスポートは、香港特別行政区パスポートと海外在住英国市民パスポートの2種があります。日本で外国人登録をすると前者は香港(中国)になり、後者は香港(英国)になります。

 

パスポートが中国のものになると経済活動に大きな制約を受けるとして、香港返還後も香港人が特別扱いを受けられるようにパスポートを分けたのです。しかし「中華人民共和国国籍法」では中国血統であれば香港(英国)のパスポート所持者も中国公民で、英国領事館の保護は認められません。

香港人は自らを中国人ではなく、英領在住の華僑の感覚でいると指摘した人がいますが、云い得て妙だと思います。文化大革命を中国本土の外から見た香港人は共産党一党独裁の中国の支配を望まず、香港の返還が決まると同時にカナダオーストラリアへの移民ブームを起しました。

二世紀近く英領香港に住んだ香港人の母国離れの心情を知るにつけ、我々日本人も戦後70年間のアメリカの占領下に馴れ切って、我が国が独立国であるのを忘れているのではないかと思いたくなります。

敗戦直後アメリカによって我が国に民主主義がもたらされたのは確かですが、GHQが最初に行った政策は検閲でした。昭和20年(1945年)9月プレスコードによって軍国主義的なもの、戦前・戦中の日本を肯定するもの、連合国軍の行為を批判するもの、原子爆弾や無差別空襲の被害に関するものなどにつき、ラジオ・新聞・雑誌、本に至るまで厳しく取り締まられ、我が国から現代史が消えました。

東西対立の激化により民主主義は短時日で形骸化し、レッドパージが始まりました。我が国はソ連・中国・北朝鮮脅威論に引きずり回され、1951年のサンフランシスコ平和条約と同時に締結された「旧日米安全保障条約」で、アメリカ占領軍在日米軍として引き続き駐留することになりました。

その後も我が国の現代史は空白のまま残されていて、大正時代までのように史観が整理統合されていません。これまで私の手の届く範囲で、戦前派として体験してきた昭和の歴史の断片を書いてきましたが、ほぼ、書き尽くしました。

これほど長くこのブログが続くことになるとは考えてもいませんでしたが、読者の方も次第に増えてお蔭様で5年を超えることが出来ました。今後は毎週とはいきませんが、過去のブログも併せて読んで戴ければ幸いです。

 

 

 

 


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