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歳を取らないと分からないことが人生には沢山あります。若い方にも知っていただきたいことを書いています。

B-29(1)

2020-11-26 06:21:11 | 日記

「B-29」による第二次世界大戦末期の日本本土空襲は、1945年3月10日の東京大空襲から通常の爆弾をM69焼夷弾ナパーム(ゲル化ガソリン)に変えた反復無差別都市爆撃になり、全国100か所の都市が焦土化して我が国は戦争継続力を失いました。

第二次世界大戦は1939年ドイツ軍によるポーランド侵攻で始まりましたが、その5年前の1934年5月に米陸軍は1tの爆弾を積んで、8,000km以上を飛べる爆撃機の計画を発足させました。

1940年6月5機をボーイング社に予備発注(XB-29)、1941年5月には250機を発注する意向が告げられ、1942年9月試作機が初飛行し、1943年6月実用実験機のYB-29が米陸軍航空軍に引き渡されました。

高空では気圧と気温が低下するので乗員は酸素マスクと防寒着の着用が必須ですが、B-29では機体前部の操縦室と機体後部の機関砲座を与圧室として冷暖房を完備し搭乗員は通常の飛行服でよく、爆弾槽を開閉する必要から操縦室と機関砲座を直径85㎝の管で繋ぎ移動しました。

B-29は全長30.18m、全幅43.04mで4.5tの爆弾を積み、速度は570km/h、6,380kmの距離を飛びました。全備重量63,000㎏はB-17の2倍となりましたが翼面積は21%増に留まり、翼面荷重がB-17の2倍で長さ10mの巨大なフラップを用いました。機体の全表面に沈頭鋲を使用して空気抵抗を局限まで減らし、繋ぎ目も重ねずに溶接をしています。

ボーイングB-29

従来操縦席の計器盤はエンジン関係の計器で埋め尽くされていましたが、B-29では専門の航空機関士を乗せてそれらの計器をすべて機関士の前に置き、パイロットが操縦に専念できるようにしました。

B-29のコックピット

機長席および副操縦士席の前のガラス張りの最先端部が爆撃手席

B-29の航空機関士席

航空機関士が搭乗し操縦と分業化された

エンジンはライト社製で、複列星型の9気筒2列18気筒で排気タービン2基の付いたR-3350を4基装着し、電子装置で自動制御されて高度10,000mまで2,000馬力を維持しました。B-17と比較すると戦闘重量で2倍の巨体をB-17より30%速い速度で飛行させ、最高速度570 km/h、巡航速度467 km/hという戦闘機並みの高速となりました。

B29は機動性も極めて高く戦闘機に匹敵したと云われ、試作機が一緒に飛行していたF6Fヘルキャットの前で急上昇ののち宙返りをして、ヘルキャットのパイロットを驚かせたと云います。

R-3350は軽量化のために多用されたマグネシウム合金が過熱して発火しやすいエンジンとなり、試作2号機はエンジン火災で墜落、1944年9月までの試験飛行で合計19回のエンジンの過熱トラブルによる事故が発生し、火炎放射器と綽名されました。

初期には250時間ごと、後には750時間ごとにエンジンを交換することになり、エンジン交換は5時間30分で完了しましたが、取り外したエンジンは本国に送り返して再整備されていました。

エンジン発火の問題は最終的に解決には至らず、戦争が終わりサイパン島から本国に向けて帰還するときも、1機が離陸直後にエンジン火災で墜落したほどです。

B-29には当時のアメリカの最先端の電子装備が配備され、初期型では長距離航法にナビゲーターAN/APN-4LORANが用いられ、高高度爆撃と飛行に使用されたレーダーはAN/APO-13で夜間爆撃用にも使用されました。

B-29の射撃システムは射手が与圧室で遠隔操作する集中火器管制方式になり、5か所(胴体上面の前後部、下面の前後部、尾部)に火器を備え、目標への弾道計算を含むすべての計算をアナログ・コンピューター5台で行い、命中率は驚異的に向上しました。

機体は強靭な装甲に覆われて防御力が高く、日本軍の戦闘機の弾丸や対空砲火高射砲破片で無数の穴が開き、中にはそれが機体上部から下部に達するような大穴であっても、マリアナ諸島の基地まで自力で帰還でき、このような大きな損傷も修理して再出撃できました。

B-29尾部の銃座

20ミリ機関砲 1門と12.7ミリ連装機銃を装備

1942年9月21日XB-29が初飛行、試作2号機は1943年2月18日テスト飛行中にエンジン火災で操縦不能となり五階建ビルに激突、最初の事故喪失機となりました。

この事故には多数の目撃者がいたために米国内で報道され、日本もB-29の存在を掴んで「B-29対策委員会」を設置、海外調査機関を通じて資料を収集し量産開始は1943年9月~10月、生産累計は1944年6月末480機、同年末千数百機と予想しました。

1942年3月ヘンリー・ハーレー・ハップ・アーノルドがアメリカ陸軍航空軍司令官に任命されました。1943年6月実用実験機のYB-29が米陸軍航空軍に引き渡されて搭乗員の育成が最優先事項となり、アーノルドは本格的な運用開始を1年後と見積もり、ドイツはすでに敗戦が近いためB-29の戦略目標は日本になりました。

1943年8月インドのカルカッタを飛び立ち、中国の前進基地で爆弾を搭載したB-29が日本本土に向かう爆撃計画が検討されました。10月13日アーノルドは前進基地を四川省の成都とし、攻撃開始を1944年4月1日とする作戦案をルーズベルト大統領に提出、ルーズベルトは英国チャーチル首相に協力を要請、中国の蒋介石にも1944年3月末までに成都地区に5個の飛行場を建設するよう指示しました。

1943年11月アーノルドは日本本土爆撃のための第20爆撃集団を編成し、司令官にケネス・B・ウルフを任命し、11月4日のUP通信の取材に「高高度飛行用の新大型爆撃機は遠からず対日空襲に乗り出す」と語っています。

しかし実際の計画は遅々として進まず、インドと中国の飛行場建設は1944年4月までにどうにか2か所の基地が整備されましたが、それよりも遥かに進んでいなかったのがB-29の方で、1944年1月中旬までに97機が完成していたのに、飛行可能なのはわずか16機の惨状でした。

アーノルドは3月にインドに向け発進できるB-29が1機もないとの報告に愕然とし、陸軍航空用の各種部品の製造や調達に詳しいマイヤーズを指揮官に任命して製造指揮の統一を図りました。航空部品メーカーは最優先でB—29の部品だけを製造するよう命じられ、納入された部品は露天の飛行場に並べられたB-29に荒れ狂う吹雪の中で昼夜を問わず取り付けられました。

3月下旬に最初のB-29がインドへ飛びたち、4月15日には150機になりました。1944年4月4日統合参謀本部は直属の第20空軍を創設して司令官にアーノルドを据え、参謀長をヘイウッド・S・ハンセル准将としました。

我が国も日本本土のすべての大都市が爆撃圏内に入る中国からのB-29の出撃準備を見過ごしていたわけではなく、陸軍は10個師団40万人を動員して1944年4月に前進基地になりうる長沙、11月には桂林、柳州の飛行場を占領しています。

4月26日ビルマ戦線で単機移動中のB-29が「隼」2機と遭遇し、隼の多数の命中弾を受けながら、何の支障もなく飛行するのに日本軍は衝撃を受けます。

燃料や物資の蓄積ができた第20空軍は6月5日にタイバンコクを爆撃しました。48機が目標上空に到達して日本軍戦闘機と高射砲による激しい攻撃を受けましたが、戦闘中に失われたB-29は1機もなく、爆撃を終えて帰還中に5機が墜落しました。

アーノルドはバンコク空襲の翌日「6月中旬に予定されているマリアナ諸島へのアメリカ軍の上陸作戦と呼応するため、日本本土への早期の攻撃を要求する」と日本本土空襲を命じます。

6月13日83機のB-29がインドから成都に進出、6月15日成都から八幡製鐵所を目標に63機が九州上空に到達しました。夜の11時31分に済州島レーダー基地から「彼我不明機、東進中」という至急電が西部軍司令部に入り、西部軍は午前0時24分に空襲警報を発令しました。

飛行第四戦隊複座戦闘機「屠龍」8機を出撃させ、1時11分に高度2,000mから3,000mで北九州上空に現れたB-29に屠龍が攻撃を仕掛けましたが、探照灯頼みの夜間目視では攻撃の機会が限られました。

樫出勇中尉らが7機の撃墜を報告し、米国側の記録も同じく7機で、墜落機2機の残骸には屠龍の37㎜機関砲弾などの弾痕が多数残されていて、日本軍は屠龍による撃墜と認定しました。

日本本土に初来襲したB-29を迎撃した二式複座戦闘機「屠龍」

墜落機の残骸の中にマニュアルと機内装備品のステンシルがあり、来襲したのは新型B-29であったことが分かりましたが、敵搭乗員の撮影したフィルムが発見され飛行するB-29の細部まで写っていて、日本は初めてB-29の全貌を知りえました。

B-29は灯火管制のため目視爆撃ができず、レーダー爆撃を行いましたが八幡製鐵所の被害は軽微で、八幡市街に落下した爆弾で市民322名が犠牲になりました。

このB-29日本本土初空襲が日米双方に与えた衝撃は実際の爆撃の効果以上で、日本の一部の新聞は「八幡への攻撃は日本全土に不安の大波を立たせることになった」と書き、アメリカではノルマンディ上陸作戦に匹敵するすばらしいニュースと報じられました。

アーノルドはウルフに日本本土爆撃に加えて、満州やスマトラの精油施設などの爆撃を命じましたが、八幡空襲後の中国国内基地の燃料備蓄はわずか1,900tで当面の作戦実施は不可能でした。

アーノルドはウルフに代えてヨーロッパ戦線で勇名をはせた38歳のカーチス・ルメイ少将を後任に据えます。ルメイが着任するまでの間司令官代理だったサンダース准将は7月7日に18機で長崎、佐世保大村、八幡、26日に60機で満州鞍山の昭和製鋼所、8月10日に60機がパレンバンの製油所、同日に29機が長崎の工業地帯を爆撃しましたが、いずれも大した成果を上げえませんでした。

日本での爆撃はいずれも夜間の慣れないレーダー爆撃で、これでは成果を上げられないと認識したサンダースは、次の北九州への爆撃では高高度昼間精密爆撃を行う許可を取りました。

8月20日61機による白昼3度目の八幡爆撃が行われましたが「屠龍」「飛燕」「疾風」82機が迎撃し、7,000mで侵入してきたB-29を8,000mで日本軍機が待ち構えていました。

そのなかで野辺重夫軍曹が「野辺、体当たり敢行」と発信して編隊長機に突入、両機はバラバラになって落下し、編隊長機のエンジンが編隊2番機に命中し、同機も左翼を失い錐揉みで落下しました。他の迎撃機も活躍し、森本曹長の屠龍が4機の最大の戦果を挙げるなど撃墜確実が12機、損害は3機未帰還、5機被弾でした。

米軍側の損失記録では出撃61機中14機損失と報告しています。61機の出撃に対しての損失率は15.9%となり第二次世界大戦中のB-29の出撃の中では最悪の損失率となりました。八幡製鐵所は相当の損害を被り、大規模な火災も発生して操業停止に追い込まれましたが、48時間後には復旧しています。

7月9日にサイパンが米軍の手に落ち、グアムテニアンも8月10日までに攻略されて、南部マリアナ諸島は米軍のものとなり日本の主要都市のほぼすべてがB-29の攻撃可能範囲に入りました。10月12日マリアナ諸島でB-29を運用する第21爆撃集団が新設され、司令官には第20空軍の参謀長であったハンセルが任命されました。

1944年11月1日中島飛行機武蔵野工場爆撃の偵察のためB-29が東京上空をはじめて飛行し、24日2.5tの爆弾を搭載したB-29が来襲しました。東部軍は第十飛行師団に迎撃を命じ、第三〇二海軍航空隊も加わって、鍾馗、零戦、飛燕、屠龍、月光と多種多様な100機以上が94機のB-29に襲い掛かりましたが、B-29は目標上空で9,150mを維持し日本軍機や高射砲弾の多くがその高度まで達しえませんでした。

体当たり攻撃のために編成されていた震天制空隊の見田義雄伍長の鍾馗が体当たりして撃墜した1機を含めて撃墜5機、損傷9機の戦果を報じましたが、アメリカ側の記録は体当たりによる損失1機と故障による不時着水1機の合計2機の損失としています。

日本軍は未帰還6機、一般市民の死者55名で、B-29はノルデン爆撃照準器を使って工場施設に精密照準爆撃を行ないましたが、命中率は2%程度で武蔵野工場の損害は軽微でした。

その3日後の11月27日、陸軍航空隊新海希典少佐率いる第二独立飛行隊の四式重爆2機がサイパン島イズリー飛行場を爆撃し、B-29の1機を完全撃破、11機を損傷し2機とも生還しました。日本軍のマリアナ諸島の航空基地攻撃は1945年2月2日まで続き19機のB-29を完全撃破もしくは大破、35機に損傷を与えアメリカ軍は245名の死傷者をだしました。

日本軍は延べ80機の出撃で37機を失いましたが、日本の損失の多くが戦闘機であったのに対し、アメリカ軍は高価なB-29多数と日本軍を上回る人的損害を被り、マリアナ諸島への航空攻撃は相応の効果を挙げました。

1944年11月24日の初空襲以降11回の東京近郊への爆撃は、心理的効果は大きいものの実質的な効果は少なく、12月13日の75機のB-29による名古屋の航空機工場への爆撃で、8,000mから9,800mで投下した爆弾の16%が目標の300m以内に初めて命中し、工場設備17%が破壊されて246名の技術者や作業員が死亡、同工場の生産能力は月産1,600台から1,200台に低下しました。

12月18日も名古屋爆撃で三菱の飛行機組み立て工場が狙われ、63機のB-29は目標の殆どが雲に覆われていたため前回と同じく高高度からレーダー爆撃を行い、工場の17%が破壊されて作業員400名が死傷し10日間の操業停止に追い込まれ、ハンセルによる高高度精密爆撃がようやく成果を上げました。

同じ12月18日に第20爆撃集団司令官ルメイは、焼夷弾を使用した大都市焼夷弾無差別爆撃の実験を中国で行っています。日本軍占領下の漢口でルメイ指揮の84機のB-29が500tの焼夷弾を市街に投下し、市街は3日にわたって燃え続け50%が灰燼に帰し、漢口の市民約20,000人が死亡しました。

第20空軍は焼夷弾による無差別爆撃の効果が大きいことを認識して、ハンセルに名古屋市街への焼夷弾による全面無差別爆撃を指示し、ハンセルは12月22日78機のB-29に焼夷弾だけを搭載して出撃させました。

爆撃は引き続き高高度で行われ、目標であった三菱の発動機工場は雲に覆われておりレーダー爆撃しましたがほとんど効果はなく、翌1945年1月3日にも焼夷弾による攻撃実験が97機のB-29により名古屋で行われましたが効果は少なく、日本側に空襲恐れるに足らずという安心感が広まることになりました。

 

B-29(2)に続きます。

 

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