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国鉄戦後五大事故

2017-09-13 06:16:59 | 日記

国鉄戦後五大事故とは、JRが公共企業体日本国有鉄道だった1949年昭和24年)6月から1987年(昭和62年)4月の間に発生した、死者が100人を超える5つの事故の総称です。

5つの内2つは海難事故で、1954年(昭和29年)9月26日に台風15号で青函連絡船洞爺丸が沈没し、死者・行方不明者あわせて1155人に及んだ日本海難史上最大の惨事と、1955年(昭和30年)5月11日に宇高連絡船同士が衝突して、修学旅行中の児童を中心に死者168名を出した紫雲丸沈没事故です。

桜木町事故は1951年(昭和26年)4月24日13時45分頃、神奈川県横浜市桜木町駅構内で発生した列車火災事故で、乗客はドアが開かなかったため脱出できず多くの死傷者を出しました。

当日京浜東北線桜木町駅構内の上り線で、碍子交換工事を行っていた電気工事作業員が誤ってスパナを落とし、上り線の架線が固定されず垂れ下がってしまいました。

作業員は上り線に列車を進入させないように手配しましたが、手配されていなかった下り線から下り電車がポイントを越えて上り線に進入し、垂れ下がっていた架線に先頭車のパンタグラフが絡まりました。

パンタグラフは破損して車体と接触した状態になり、電流の短絡が発生して激しい火花とともに可燃性の塗料に着火し、車両は木製の屋根から炎上し始めました。先頭車両が全焼、2両目が半焼して焼死者106人・重軽傷者92人を出す大惨事になりました。

短絡が起きていたため自動扉は開かず、事故車両のは中段が固定式の3段構造で、開口部の高さは29cmしかなく脱出は非常に困難でした。乗務員や駅員も、外部から手動で自動扉を開けられる非常用ドアコックの位置を知りませんでした。

運転士が車端貫通路から乗客を救出しようとしましたが、当時の車両の貫通路は内開きの開き戸で外側から施錠されていて、辛うじて2両目の貫通路だけが開けられました。当時は近距離を走る電車の乗客が、間通路を通ることを想定していなかったのです。

1両目の乗客は脱出路がなく、高架線上での事故だったため集まった群衆も何もできず、助けを求める乗客が焼け死んでいく姿をなすすべもなく見ている地獄絵図となりました。

 

被災した63系電車は戦時設計の車両で、重要な安全部品を省略したり粗悪な代用品を使用していました。可燃性の塗料ベニヤ板天井内張りなどが多用され、室外配線を碍子(がいし)支持の裸電線としていたり、一部の引き通し線を化粧板覆いもなく室内に露出させていて、電流短絡事故の際に必要な保安機器の一部も省略されていました。この事故の前から小規模な発煙・発火事故を日常的に起こしており、全焼して廃車となるものさえありました。

この車両の窓が二段式か、三段式でも中段も可動する構造になっていれば脱出が可能で、犠牲者は激減したであろうと云われています。1946年(昭和21年)に中央線を走行中の電車の扉が満員の乗客の圧力で外れて転落事故が起き、木製扉から鋼製扉へ交換されていたことがドアコックの表示不備と相まって裏目に出ました。

桜木町駅付近の架線に電気を供給していたのは横浜変電所と鶴見変電所でした。横浜変電所は高速度遮断器が作動して給電を停止しましたが、鶴見変電所の高速度遮断器は作動せず、約5分間架線に電気が流れたままになって火勢を強めました。

鶴見変電所ではこの事故の前に起きた汐留変電所の火災復旧のため、遮断器4機のうち2機が取り外されていて、川崎変電所からの電流を止めることができなかったのです。

当時は事故の際の、隣接変電所への電流遮断の連絡は電話でした。この事故を契機に、電流変化率から事故電流を検出する直流電力線故障選択装置が開発されました。

国鉄は事故の翌日モハ63形全車両の車体に車外コック位置を「▽」で標記し、車内にも座席下のコック位置を記したガリ版刷りの張り紙をする対策を打ちました。この後、自動扉つきの客車内には非常ドアコックの設置と表示が義務化され、緊急時にドアを乗客が手動で開けられるよう法令が改正されました。

1951年内には戦時設計のすべての電車に車内の防火塗料の塗布、パンタグラフの絶縁強化、車端部の貫通路と貫通幌の設置などの応急処置を施し、続いて車内天井の鋼板化、貫通路拡張、三段窓の全段可動化など、800両への徹底的な体質改善工事をほぼ2年で行いました。

三河島事故は1962年(昭和37年)5月3日21時37分頃、常磐線三河島駅構内で発生した列車脱線多重衝突事故です。事故が発生した当日は東北地方で発生した地震と、東北本線古河駅で発生した脱線事故の影響で、常磐線のダイヤが乱れていました。

事故を起こした下り貨物列車(D51 牽引、45両編成)は、正常ダイヤなら三河島駅構内で貨物線からそのまま下り本線に入りますが、下り電車が上野駅出発の時点で2分30秒ほど遅れていたため、三河島駅で下り電車を待避することになりました。

下り貨物列車の機関士は三河島駅の場内信号機の黄信号で駅構内に入り、出発信号機の赤信号に気付き非常ブレーキをかけましたが間に合わず安全側線に進入して脱線し、先頭の機関車と次のタンク車が下り本線上に飛び出して下り本線を塞ぎました。

その直後に三河島駅を出発して下り本線を進行してきた下り電車(6両編成)が下り本線を塞いでいたタンク車に衝突、先頭車と2両目の車両が脱線して上り本線上に飛び出しました。

下り電車の衝突・脱線の時点では大きな怪我を負った乗客はおらず、1〜2両目の車両はパンタグラフが架線から外れて停電となったため、乗客は桜木町事故の教訓で分かりやすく整備された非常用ドアコックを操作して、列車外へ降りていました。

現場近くの三河島駅信号扱所の係員は、事故発生を受けて下り本線の信号を赤に切り替えた上で三河島駅の助役に事故発生を連絡し、助役は常磐線の運転指令に事故発生を通知しました。助役は関係箇所に事故発生を通知し、下り線の後続列車の運行を停止しましたが、この時点では支障状況が確認されていなかった上り線の運行を停止しませんでした。

一方、取手発上野行の上り電車(9両編成)は地震の影響で、定刻より約2分遅れて南千住駅を発車していました。南千住駅信号扱所が上り線支障の電話連絡を三河島駅信号扱所から受けた時は、上り電車がすでに信号扱所の前を通過中で止める手段はありませんでした。

 

上り電車の運転士は事故発生を知らずに運転を続け、約7分後に事故現場の近くに接近したところで線路上を南千住方向に歩く乗客を確認し、非常ブレーキを掛けましたが間に合わず、乗客をはねながら上り本線上に停止していた下り電車の先頭車と激突しました。これにより下り電車の先頭車と2両目の前部が原形を留めないまでに粉砕されました。

上り電車も先頭車が原形を留めずに粉砕され、2両目は築堤下に転落して線路脇の倉庫に突っ込み、3両目も築堤下に転落、4両目が脱線し、死者160人、負傷者296人を出す大惨事となりました。

事故現場は三河島駅からは数百m先で、駅員が直接確認することは困難でした。三河島駅信号扱所の職員はより近い位置にいましたが、当夜は新月で月明かりがなく事故の状況は現場に行かなければ視認できず、上り線支障の報告が遅れました。列車指令が下り線の事故発生を確認した時点で、同時に上り線の運転を停止しなかったことも事故が重なった原因とされます。

この事故を機に計画中の自動列車停止装置(ATS)が前倒しで国鉄全線に設置されることになり、1966年(昭和41年)までに整備を完了しました。全列車に軌道短絡器など防護七つ道具の整備を行い、常磐線に乗り入れる全列車を対象にまず信号炎管が取り付けられ、のちに列車防護無線装置が開発され装備されました。

鶴見事故は1963年(昭和38年)11月9日21時40分頃に国鉄東海道本線鶴見駅-新子安駅間で発生した列車脱線多重衝突事故です。貨物線を走行中の下り貨物列車(EF15形電気機関車牽引45両編成)の後部3両目のワラ1形貨車脱線し引きずられた後、架線柱に衝突して編成から外れ隣の東海道本線上り線を塞ぎ、貨物列車は非常制動が作動し停止しました。

その現場へ12両編成の上り電車と、同じく12両編成の下り電車が東海道本線上をほぼ同時に進入してきました。90km/h前後で進入した上り電車は貨車と衝突、先頭車は下り線方向に弾き出され、架線の異常を発見して減速していた下り電車の4両目の側面に衝突して串刺しにした後、後続車両に押されて横向きになりながら5両目の車体も半分以上を削り取って停止しました。

下り電車の4・5両目は原形を留めないほどに粉砕され、5両目に乗り上げた形で停止した上り電車の先頭車も大破し、上下列車合わせて死者161名、重軽傷者120名を出す大惨事となりました。

 

貨物列車の運転士は脱線直後に発煙筒を焚きましたが短時間で消えてしまい、上り電車の運転士が見落としたものとされています。事故後ワラ1形貨車がカーブから直線になる地点でレールに乗り上げていた痕跡が認められ、ワラ1形は配備前の実車試験が省略されていて、軽負荷時の激しいピッチング特性が見逃されていたことも後日明らかになりました。

1967年(昭和42年)からは廃線となった根室本線狩勝峠旧線を利用し、貨物の積載状態や空車と積載車の編成具合から運転速度や加減速度等、さまざまな条件に基づいて実際に車両を脱線させる大規模な脱線原因調査が行われました。1972年(昭和47年)2月に一応の結論を出し、護輪軌条の追加設置・レール塗油器の設置・2軸貨車のリンク改良・車輪踏面形状の改良などに繋がることになります。

公社になる前の国鉄で戦後の混乱期に、この五大事故に劣らない大事故が2つ起きています。1945年(昭和20年)8月24日 7時40分頃、八高線小宮駅-拝島駅間の多摩川橋梁中央部で上り列車と下り列車が正面衝突して客車が川に転落し、少なくとも105名の死亡、67名の重軽傷者が確認されました。

当日は暴風雨で信号故障と通信途絶が重なり、徒歩連絡の駅務員に安全確認を託したところ、双方の駅長の思い込みが食い違って事故を引き起こしたものです。列車は超満員で多数の乗客が増水した多摩川の濁流に呑まれ、確認できなかった死者も相当いた筈と云われています。

1947年(昭和22年)2月25日の朝、同じ八高線の八王子発高崎行きの超満員の列車が東飯能駅-高麗川駅間の20下り勾配で、速度超過により半径250mのカーブを曲がりきれず後部4両が脱線し、築堤上から5.6m下の畑に転落、客車が大破し184名が死亡、495名が負傷する大事故となりました。

木造客車の脆弱性が露呈され、木造客車の台車と台枠の上に鋼製車体を載せ換える改造が実施されました。正面衝突事故は敗戦直後のことで広く伝わってはいませんが、2度とも100名を超える死者を出した大惨事でした。

いずれの事故も強い衝撃を国民に与えた悲惨な事故でしたが、現在では風化しています。敗戦翌年の3月に都心の中央線で、ドアを開け放し横に木の板を一本打ち付けただけの、ギシギシ軋む貨車に乗せられた経験のある私には、戦後の車両整備の不良、運行管理の不十分さの時代背景がある程度理解できるのですが、2005年(平成17年)4月25日のJR福知山線脱線転覆事故については、今更なんでと云う憤りを感じます。

自動車の完全自動運転化は目前です。レーダー、LIDAR(レーザー画像検出と測距)、GPSカメラで周囲の環境を認識して車が自律走行します。専用軌道を走ることに限定される鉄道は、一般公道を走る車よりもはるかに容易に完全自動化ができる筈です。

安全確認も機関士の目視でいい筈はありません。車体にも監視装置を備え、軌道に沿って監視装置を常設し、常時、すべての軌道上の安全監視体制を構築しなければ、車より高速で、はるかに重量の大きい列車を止めるのには間に合わないでしょう。

管制センターのITシステムにすべての安全確認と運行を任せ、列車の運転は自動化して乗務員は緊急対応のバックアップに回わるべきです。必要性を疑問視されているリニア新幹線より、現運行路線の安全確保の方が、当然、優先ではないでしょうか。

 


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