室内楽の愉しみ

ピアニストで作曲・編曲家の中山育美の音楽活動&ジャンルを超えた音楽フォーラム

Made in Korea

2008-02-01 12:04:50 | Weblog
週末の深夜、ゆっくりお風呂から出るとよく"Weekend Japanology" というピーター・バラカン司会の番組を見ることがある。この間は”演歌”をテーマにしていた。

髪を乾かしながらだから所々しか聞こえなかったが、解説の日本人の方の「ジャパニーズ・ソウル」と何度も繰り返すのはよく聞こえた。しかし、あれこそが”ジャパニーズ・ソウル”と云うなら、私はジャパニーズじゃないの?・・とムラムラと反発したくなってきた。

八代亜紀が「お酒はぬるめの燗がいい~」と歌い始めた。この歌はむしろ好きな方だった・・けど、この日の歌い方は妙に口を広く開けない、いじけ、惨めさを強調した歌い方に感じられた。なんで閉塞感を強調して慰められると思うのだろう?傷に塩を塗り込んで「痛いでしょう?かわいそうねぇ~」と言いながら醤油たらして味噌また塗るみたいな、陰々滅々が好きな人が”日本人”だというんだろうか・・と思っていたら、先日、新説を聞いてきた。「演歌は日本製ではない!」

古賀政男が韓国で仕入れてきた韓国式の歌謡曲だというのだ。日本人が韓国に行って「韓国にも演歌があるんですね」と言ったら「何言ってるんですか!これは韓国の歌です」と言われるそうだ。どーりで・・と納得してしまった。どこか作為的に作られた感じがしていたのだ。

私の記憶では、私が子供の頃は全体的に”歌謡曲”と呼ばれていた。藤山一郎も美空ひばりも、笠置シズコも三橋三智也も橋幸夫もみな歌謡曲だった。グループサウンズでエレキギターやドラムが出てきた頃だって、まだ歌謡曲だった。三波春夫は演歌ではなく浪曲や音頭で、演歌とは別物だと思うが違うのだろうか?いつの間にか”演歌”というカテゴリーが作られ、それも意図的に作られ、産業化され、刷り込まれて行っているような気がする。

演歌研究をしたい訳ではない。ただ、どこに違和感があるのかを自分として確かめておきたいだけだ。ハッピーな時より試練や悲劇、恨みなどネガティブな感情の方が激烈であり、表現も強く、深みも出しやすい。世界中に”恨み節”は存在する。ブルースだって、タンゴだって、ネガティブな感情から生まれた音楽だ。

しかし最も典型的な演歌のテーマは、文句も云わずに健気にずっと待っている女。男に楯突くことなく散歩下がって男を立てる女だ。男にとって都合の良い女のイメージを日本的と捉えるのは間違っている。平塚らいてうが言うとおり「元始女性は太陽であつた」のだし、逃れられないツライ定めをみずから打開しようともしない、自らカギをかけた部屋でジレンマの鏡にうっとりするナルシストの世界だけが日本人の美学ではない筈だ。

相手の気持ちを細やかに汲み上げて、いきなり攻撃したりはしない日本人の性質に美学はあると思うけれど、演歌的ナルシストとは微妙にズレがあるように思う。だから演歌、イコール、ジャパニーズソウルなんて言わないで欲しい。

ついでに言うなら、言いたいことを上手く言えなくて「ホントはこう言いたかった」と喉を詰めて歌う浜崎あゆみも演歌。コブクロも演歌。尾崎豊らも音楽自体はポップス調でも内容は演歌側だ。思いついたままに例を挙げたけれど、閉じられた世界の中でジレンマを歌っている。確かに若い世代でも閉じられたナルシストの世界に心を寄せる日本人は多いのかもしれない。私の好みではないが美学はあるかもしれない。

三橋三智也の”古城”は良い歌だった。子供ながらに美しいニッポンを感じたものだった。ままならぬ大きな存在の自然に対して清々しく心情を重ね合わせる美学こそ、日本人のオリジナル・アイデンティティじゃないかな?