室内楽の愉しみ

ピアニストで作曲・編曲家の中山育美の音楽活動&ジャンルを超えた音楽フォーラム

初詣

2008-01-04 14:17:08 | Weblog
昨日、3日は仕事で出掛けたので、恒例の鎌倉初詣は今日にスライドになりました。

ゆうべ「じゃあ、明日八幡さまへ行きましょう。8時出発で」そう言うと、母は「神様を信じないと云うあなた達とは行かないわよ」と、中途半端な”信仰論”で私と父に牽制をします。これも毎年恒例だったなあ・・と思い出し、「私たちはジンクスで行っているの。一緒に行かないで、もし何かイヤな事が起こったら、おっ母さまのせいだからね」 この台詞は功を奏し、今朝は大人しく同行してくれました。

”信仰”って何だろう?”神様”ってどこにいるんだろう?死んだらどうなるんだろう?
かなり小さい時から、たぶん7~8歳の頃には考え始めていました。

小学校4年の時に、伯母の夫、つまり伯父が病気で亡くなり、大ショックを受けました。たぶん1~2回しか会っていなかった人でも、とにかくその”死”を目の当たりにし、病気のせいでお骨を拾おうにもくずれて粉になってしまう物質を目の当たりにして、頭の中でどう整理したらいいか分からない事態になりました。つまり殆どノイローゼに近かったと思います。

それから、”生命”とは何か?”宇宙”とは?”宗教”とは?”哲学”とは?手に触れた本を次々と読みました。小学生にはかなり背伸びのTimelife社の科学の本のシリーズも買ってもらいました。知識で不安を消そうとしていたのでしょう。

”聖書”も読みました。”シッタールダ”の本も読みました。その後も科学、宗教、歴史の知識をつめこんで行くと「人はなぜ”信仰”を必要とするのか」にぶち当たります。古今東西、”宗教”は為政者の道具として利用されてきました。以前、神学者の口から「キリストは存在しなかった」と聞いた時は「そんな思い切った事を言っちゃっていいのかな・・」と思いましたが、”ダ・ヴィンチ・コード”を見るまでもなく、現代では、すっかり”死海文書”の発掘などで証明されている事もいっぱいあるのに、キリスト教徒は未だに”信仰”を手放しません。

一方、暮れにNHKで放送した「あなたの好きな仏像」では、熱心な仏教徒という事ではなくても、その仏像を見ていると自然と拝む気になる、癒される、ありがたみを感じる、というお話が多く出ていました。日本人は情緒的だけれど、だからこそ、”信仰”の本質をとらえているのではないでしょうか?

特定の宗教のさんということではなく、途轍もない何かとつながっており、その外界には行かれないけれど、とにかく困った時「間に合いますように!」「見つかりますように!」「助かりますように!」とお願いする対象が”神様”で、その入り口が神社であり、お寺であり、教会なのです。初詣をしなくても、家内安全、絶対健康かもしれない。でも、行かなくて何かイヤな事があったとしたら「あ~、今年は行かなかったから・・」と思ったりするので、恒例の行事はやっておきたい訳であります。

三が日の鎌倉は、朝8時を過ぎると車が通行止めになるので、いつも7時に出てお参りを済ませ、お札を買い換え、8時前に海岸線134号線に抜けるのですが、今日4日は、8時を過ぎても大丈夫。八幡さま隣の県営駐車場もやっていて、私営が¥1500のところを¥400で済みました。お参りして”開運守り”(を買うと言ってはいけなくて)の初穂料を納めて「ヨカマイリでした」と言われ、参道をぐるっと一回り。駐車場に戻って来て「破魔矢は今年は買わないんですか?ジンクスで毎年同じ事をすると言っていたのに」と母に指摘され、「ジンクスだから、買いに行ってきます」と父と再び階段を登り、お札のコーナーへ。¥1800「ヨカマイリでした」をもう一度聞きました。

どーせバイトのお兄ちゃん、お姉ちゃんだな・・。そう言えば、お伊勢参りも江戸時代の地域復興政策だったというしなあ・・、などの知識が頭をよぎりながら車に戻り、海岸線へ向かいました。ちょうどお腹が空き始めたので、持ってきた暮れの頂き物のクッキーを出して配りました。母も別のお菓子を持って来ていて配りっこ。

穏やかに光る七里ヶ浜を見ながらお菓子をムシャムシャするこの状態が”家族”であり”平和”なのであって、これがずっと続いて欲しいから、これを確認する為の”初詣”なんだ、と改めて思いました。