室内楽の愉しみ

ピアニストで作曲・編曲家の中山育美の音楽活動&ジャンルを超えた音楽フォーラム

感動の研究

2007-06-03 23:40:12 | Weblog
6月1日、中野ゼロの東響 弦楽合奏団”6月のアヴェ・マリア”を聴きにいきました。
コンミス・大谷康子さんが独奏、司会、宣伝・・何でも一手に引き受け、立派にやっていらっしゃいました。演奏も来年三百歳になるという、素晴らしいヴァイオリンの柔らかい音色で、メリハリの利いた表情を付け、聴衆にメリハリが利いて見せる動作をし、充分商品価値のある演奏会を作っていらっしゃいました。以前の印象よりずっと、美容にも、話し方にも気を遣われている印象を受け、努力なさっているなあ、と感心しました。

アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク第1楽章、クライスラーの愛の喜びなどでも、ご自分なりの解釈、表現を作ってあり、一つとして手を抜いてある演奏はありません。・・にも関わらず、感動が無い、というか私にとっての感動が来ないのです。いったい、どうしてなんだろう・・?と、ずっと考えながら聴いていました。

演奏は何ひとつ”ほころび”も無く、ステージの進行も段取りも完璧、最後のアンコールは会場内でチェルダッシュを歩き弾きするサービスまで取り入れ、充分にお客さんを意識して作り上げたステージなのに、上手くやればやるほど、”商品的”な感じを受けます。もちろん、あそこまでやれたら凄い、と思える事をやってらしたのですが、やって見せる”計算”のようなモノが、かえって音楽にくっついているべき”心”を届きにくい感じにしているのでしょうか・・。

"be touched" 英語でも、フランス語でも、感動する事を”触られた”という言い方をしますが、何ものかに心が触られた、気持ちが届いて来る、という意味なんだと思います。もちろん、大谷さんのファンの方は、大谷さんの大谷さんによる、大谷さんの”エンターテイメント・ショウ”を充分に楽しまれ、感動もされた事でしょう。聞きたい人に、聞きたいものが届けば、需要と供給の関係が成り立っているのだから、それで充分結構なのですが、私が思う感動と違う、ということです。

逆に、どういう時に感動するのか・・?
私の今までの経験では、てらいや、わざとらしさが無く、気持ちと表現が、まさに真空状態なくらい隙間無くぴったりと合っている時に感動しています。それと、もう一種類、ここのブログにも何回か書いた”訳の解らない感動酵素が宙を漂っている時があります。沖縄出身のテノール・新垣勉さんの歌と、喧しくて耳が壊れそうだったのに何故か感動を覚えた春の新宿ジャズ祭りの全員集合デキシーランド・ジャズ。何やら解らない”魔法の粉”が撒かれている感じがするのです。

舘野泉さんのピアノを聴いている時にも”魔法の粉”が撒かれているのを感じる事がたびたびあります。”人間力・人間性”としか言いようがないでしょうか・・。この”魔法の粉”どうしたら撒くことができるのだろう、などと思ったりするだけでダメなんだと思います。いずれにしても、私に出来そうなのは気持ちと表現の真空状態を目指す事かな・・。