古代日本の歴史を謎解き

日本の古代史の謎に挑戦します。

魏志倭人伝に紹介される「邪馬台国」は九州である。

2017-10-29 13:01:18 | 歴史
邪馬台国 九州説 近畿説 二分する所ですでが
魏志倭人伝を読む限りは、九州説しか考えられません。

厄介なのが
・南(行)して、邪馬壹にいたる。女王の都。水行十日、陸行一月である。
この出発点を奴国にすると、南なら九州の鹿児島を飛び出してします。
東に間違いであるとして、近畿へたどり着く、
ここは、出発点を帯方郡と解釈すると九州説がすっきりします。
その他にも、魏志倭人伝には
・(帯方)郡から女王国にいたるのに一万二千余里ある。
・奴国、不弥国から残り1300里

水行十日は、帯方郡から末盧国がちょうど水行十日です。
陸行一月ですが、末盧国から不弥国までが700里で7日ですから
末盧国から二千里は、20日の計算になり、陸行一月(28日)近い
有明海側に移動するには山を越える必要があり、末盧国から不弥国まで移動するより
難路であった。(途中に小さな国々が沢山あった)

更に
・周旋するこ と(めぐりまわれば)五千余里ばかりである。
・その南に狗奴国(くなこく)がある。
・女王国の東(方)に、千余里を渡海すると、また国がある。みな倭 種である。
末盧国(松浦半島)から奴国(博多湾)までが500里です。
狗邪韓国(プサン)から末盧国(松浦半島)までが船で3日、3000里です。
周囲5千里は、円形であれば直径が1500里ほど
松浦半島から博多湾の3倍程の直径の円を想像します。
また、東端は海に面しており、次の倭人の国まではプサン<=>対馬ほど
南には陸続きで狗奴国です。

倭国の領域が九州から山陰、瀬戸内海から近畿に地域であるとすれば
周囲5000里には、到底入らない。
近畿が倭国の東端であるなら、船で千里に国がない、
狗奴国が、奈良の南(吉野・熊野)の場合、当時の国は海岸、河川沿いですので
和歌山の太平洋側である。奈良盆地まで攻め入るには、難路であり離れすぎです。

魏志倭人伝など、大陸の史記ですが、
日本列島の全ての事を大陸人が知っていたわけではないです。
漢委奴国王の金印が贈られた漢の時代に大陸人が知っていたのは
伊都国に一大率と役人が住み、奴国など周囲の国には大率を配置して、交易を管理していた。
倭国は、玄界灘湾岸の国々までです。

魏志倭人伝に紹介される倭国は、伊都国が支配した地域の南側に、邪馬台国があり
更に、その南に狗奴国がある事を紹介しています。
東には海があり船で渡った場所には、倭人の国があるとしか紹介されていません。
多分、四国 或いは 瀬戸内海湾岸の国でしょう。
もちろん日本列島には、大陸人(漢、魏)が知らない国々がまだ沢山あります。
山陰地方(出雲)西晋の陳寿の時代にこの地域まで知ることが出来た。
瀬戸内海の国々、近畿地方、伊勢地方から関東までそれぞれの地域に歴史はあります。

しかし、古墳時代を得て、飛鳥時代に歴史に登場するのが、ヤマト(倭)朝廷です。
邪馬台国もヤマトと発音します。
国と言葉も倭国にはなかったので、大陸の役人、伊都国の一大率でしょう。
奴国は、ナと自らを呼び、邪馬台国はヤマトと自分達の地域を呼んでいただけの事です。
伊都国だけが、特別に良い漢字が使われています。
伊は 治める人 の都です。

倭国(玄界灘湾岸)は、大陸(漢人)の国です。
倭人の国は、邪馬台国と出雲国が境界線です。
邪馬台国が伊都国の影響を逃れるために東方へ移住、宮崎を出発して近畿へ
この過去の歴史が、日本神話の天孫降臨であり、神武東征だと思います。
天皇家の三種の神器の鏡も魏国から卑弥呼に送られた、銅鏡が始まりです。
近畿の遺跡でも多くの銅鏡が発見されていますが、多くが日本製とされています。
この銅鏡は、先祖が卑弥呼であり銅鏡を使った神事が伝承された事実ではないでしょうか。