どうでもいいこと

M野の日々と52文字以上

仕事が溜まる

2015-04-13 01:13:03 | 日記

 

4月3日からずっと写真を撮っております。ただ量が半端じゃないんですね。1日大体600カット程度でしょうか。うち3日分は自分でチェックしなくてもいい撮影なので助かっていますが、現在1600カット在庫が残っています。明日も撮影です。在庫はいつ無くなるのでしょうか。この撮影の嵐は19日まで続きますが、それ以降も1日400カット前後の撮影になるのでしょうか。

脊髄反射的な仕事ばかりなのですが、以外とカットのことは覚えているものです。でも時間が経つと忘れてしまうので早いうちに処理しなければいけないのですがどうもままなりません。

A4サイズ2ページで、50枚以上の写真を使うことは少ないです。理論的にはその写真を用意するのに失敗も含めて、100枚用意するのが最低値です。ところが全部正面から撮ったものとかだけだとチト動きがなさすぎる。そこで右からとか左からとか撮って行くと3倍の300カットになる。そしてスナップというものになると、被写体がどんどん変わって行くからさらにカットが増えて行くわけです。シュチエーションでも撮れる写真と撮れない写真が出てきます。そうなってカット数が減らせるわけですが、2000人以上が関わるイベントだととにかく取り続けないと、何が起きるかわからないわけです。まあそうして在庫の山を気づくわけです。

 

 

自分の音楽の聴き方が、ずいぶん変わったものだと最近気がついた。どうも聞いている最中から音をバラバラにしてしまっているようなのだ。単純化して一音だけを聞き取りながら全体のバランスを聞いているという変な聴き方だ。どうもバッハを聞きすぎたせいかもしれない。通奏低音の動きと対位法的なバランスがどうなっているのかは、通奏低音に集中していないとわからない世界がある。それを何にでもやらかしてしまっているようだ。

ダンスの撮影は足しか見ていない、そんな私だが、音楽もそのようだ。

シェーンベルクが書いたメモを基したリーン編曲室内楽奏版のマーラー「大地の歌」を聞きながら、そう思った。この程度の音数でいいのに何故あんなに壮大なものにしてしまったのだろうか。

まあそうでないと、説得力がなかったからだと思うところはある。新しいことをやりたくても小さいと注目されない。だから壮大にした、そういったことは大いにあると思う。

 

 

近所の桜が咲いた。

最近はプーランクばっかり聞いている。ガーシュインも聞いている。単純と言われている奴らだ。だが発見はある。

なんで日本のポップスてあんなに複雑で面倒くさいのだろうか。2000年以降はかなり高度すぎて、そのうち無調に突入する可能性すらあるだろう。メロディーラインを追っかけて行けばいいだけなのだが、バックが凄まじくめんどくさい。

この辺りはMPEGの圧縮での問題があって、音圧レベルが一定になるように編曲しないと、不可逆圧縮の悪いところがいっぱい出てしまうからだと考えている。だから複雑にしてしまうのだ。

なぜ人は新しさを求めるのかという問題も、ある。