風信子(ひやしんす)の☆本の紹介&エッセー☆俳句

濫読・雑読の風信子(ひやしんす)が気の向くままに、お気に入りの本を紹介いたします。

☆ 風信子が、放射能被爆に怯えるのは、これで2回目なのです。

2011年04月10日 | ☆政治・経済・世の中
2月9日に書いたブログのタイトルは、「☆母から聞いた。宮崎神宮で浴びた、グラマン機の機銃掃射。」ですが、

文章の最後の方では父の様子がでてきます。

『~母達が空襲から逃げ伸びてハアハア息を切らしていた頃、

長崎の軍事工場で魚雷を作っていた16歳の父は、原爆投下後の市内中心部で毎日、黒こげの遺体の埋葬の奉仕活動を続けていました。

2週間ほど作業を続ければ、宮崎へ帰る汽車の乗車券が出ると聞き、とにかくも帰ろうと手伝っていたそうです。

(夜学へ行けるというので、宮崎からはるか長崎まで行ったらしいです。)

父は、「この世に神などいるもんか!」 と、その地獄図をみて思ったそうです。~』



上の内容から分かるように、私は被爆2世ということになります。

父は、生きて宮崎市に戻りましたが、本人に直接きくと、紫斑病らしきものになったり原因不明の熱で寝込んだり青年期は大変だったようです。結婚してからも何度も肺炎を起こすので母は心配したそうです。

私はというと、思春期を極端に痩せていて、病弱(貧血、起立性低血圧、急性腎炎など)に過ごしたので、将来は白血病になるのではと不安にさいなまされました。

(父は、2度ほど長崎での被爆について詳細に話してくれました。最初は爆心地より2キロと言い、2回目は、「お前が心配するからと2キロと言ったけど本当は0.5キロでの被爆だったんだ。軍需工場の中だったので生き延びたが、外の人は黒こげだったよ。」という事でした。)

その後、学校図書館で「閃光は今もなお」(宮崎県内被爆者25年目の証言)等を読んで、放射能が原因の病気が遺伝するということを知りました。

親には言いませんでしたが、貧血がひどく身体がだるい時には、もしかして原爆症ではと頭の中に怯えが走りました。

(朝、だるくて起き上がれなくて、食事も欲しくなく、一週間ほど寝てばかりいてトイレに行くだけがやっとという事も中学時代や高校時代にありました。不思議と春休みと夏休みでしたので学校はほとんど休んだことはないのですが・・・。)

幸いにして、今の私は元気(普通)ですが、子供の頃の病気に対する深い不安を考えると、これからも、なるだけ正確な情報を伝えていこうと思います。



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