「マッキーのつれづれ日記」

進学教室の主宰が、豊富な経験を基に、教育や受験必勝法を伝授。また、時事問題・趣味の山登り・美術鑑賞などについて綴る。

マッキーの随想:義理の祖父の生物学研究

2013年12月03日 | 時事随想



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 アメリカの動物学者で標本採集に来日し、東京大学教授を務め後進の指導に当たり、大森貝塚を発掘したエドワード・シルヴェスター・モースについて、2回にわたってこのブログで綴りました。モースは、日本に初めてダーウィン進化論を体系的に紹介した人物でもありました。

 今日は、やはり生物学研究に生涯を費やした、私の義理の祖父について綴ろうと思います。そこでまず、そのことと関連して、昭和天皇のご著書「相模湾産ヒドロ虫類」という分厚い2冊の本について述べます。多くの方が知っているとおり、陛下は生物学を熱心に研究されていて、大正15年頃からヒドロ虫類のご研究を始められました。

 昭和6年から小さな採取船で底引き網を使われて相模湾の海底生物を採集し、研究されています。その成果によって、多くの新種のエビやウミウシや貝類などを、世の中に発表されました。ご採取された貝類は1121種にもなり、そのうち110種が新種であったそうです。
その成果を集大成した書物の序文は、極めて珍しいことですが、陛下自らが書かれています。まず、その貴重な序文全文を載せますのでご覧ください。



序 文

 昭和のはじめから現在までの永い年月にわたって,公務の余暇に,主として相模湾の海域でヒドロ虫類を採集し,研究をつづけてきた。ヒドロゾアの研究をはじめたのは故服部廣太郎博士のすすめによる。はじめの約20年間は同博士のもとに研究をすすめ,昭和20年以後は故冨山一郎博士の助言と辻村初来君の補肋を受けて研究をすすめてきた。その間の或る時期には故佐藤忠雄及ぴ故菊池健三の両博士が助言をしてくれた。

 昭和19年までは相模湾の東海域および相模灘の沖の瀬で採集したが,その後は海上での採集が困難となり,採集を中止した。昭和24年に採集船による作業を再開し,昭和46年までは葉山滞在中に採集をつづけ, 昭和47年からは南伊豆須崎滞在中に採集をした。採集船としては「三浦丸」の次に「葉山丸」が用途につき,昭和20年から23年まで中断したが,昭和31年まで運行し,その後は「はたぐも」が昭和46年まで用途につき,共に葉山滞在中に採集のため使用した。更に昭和47年からは「まつなみ」が用途につき,須崎滞在中に採集のため使用した。
 
 採集船の船長はじめ航海士,機関士と生物学研究所員およぴ漁師達が協力して採集にあたり,採集方法は主として底曳網(ドレッジ)によった。
採集船の初期には故西園寺八郎御用掛と故土屋正直侍従が船長達を助け,殊に西園寺考案の底曳網は研究材料を採取するのに役に立った。研究所員故真田浩男君は採集船に乗るために船酔を鍛錬によって克服して,熱心に採集にあたった。漁師達も綱の操作をはじめ採集に携わり,潜水夫は採集に熟練した人達であった。採集場所は中深りの如き砂泥のところもあるが,主として甘鯛場の如き岩場で作業したので,網が時々破損した。和船の「竹」および「桃」は磯へ渡るとき,採集船へ乗り移るときに用いたが,昭和 22,23年頃は,大型の採集船が無かったため,採集にも用いた。
 
このたび相模湾産ヒドロ虫類の研究報告を2部に分け,まず最初にその�無鞘類を発表することにした。
この研究の結果については故内田亨博士および,朝比奈正二郎,山田真弓の両博士から校閲を受け,辻村初来君は報告作成を終始手伝ってくれた。プレパラートの製作には真田浩男,清水達哉,写真撮影には斎藤次男,小見康夫の諸君があたり,写生には真田浩男,駄場博子の両君があたった。

 外国の学者 E.Stechow,E.Jaderholm,C.M.Fraser,E.Le1oup氏らは相模湾産ヒドロ虫類の標本について研究し,私が送付した標本について同定してくれたこともある。その好意に対して深く感謝する。上記の採集に際しての関係者,研究その他についての協力者にも深く感謝の意を表する。この著がヒドロ虫類の研究に寄与し,相模湾の生物相を明らかにするための参考になれば幸である。

 なお印刷,製本については丸善の諸君に世話になった。ここに感謝の意を表する。

     昭和63年1月

                        裕仁



 陛下の海洋生物ご採集船“葉山丸”の艇長を務められた片倉さん(海軍兵学校卒)という方の話がネットで見つかりました。陛下の研究のご様子と、戦前教育を受けた方の天皇に対する感じ方などがよく分かるので、少し抜粋して紹介しておきましょう。

「陛下のおなりー」葉山海岸の松並木にバラバラと人影が散る。朝4時起きでブラスワークや甲板洗いで充分清められた船を、海岸の水深ぎりぎりのところまで進め待つことしばし。やがて朝霧けむる御用邸方向から、一艘の和船が静かにこちらに向かってくる。あの中に陛下がおられる! 私の心臓の鼓動が速くなる。・・・

・・・「今日は初めてなので、片倉さんを陛下にご紹介しますから、ご挨拶をお願いします。」にこやかな入江侍従に親しく名前を呼ばれてびっくり。侍従にともなわれて船のご座所入り口で陛下をお迎えして最敬礼、頭を挙げると、ps12 呎尺の間に陛下のお顔が、「よろしく」と帽子を手で上にあげられた。ハハアーと再び最敬礼、足がガタガタ震えるのをどうしようもなかった。何十万何百万の同胞が、この方のために身を捧げた。そのお方が今、私の目の前におられる。・・・

・・・最後の袋が揚ると、それを大きな金のタライへあける。いるわ いるわ、小さな魚、ヒトデ、いろんな貝、なまこ そしてグロテスクなウミウシ(これがヒドラゾアといってご研究の対象)軽石や海藻や泥も混じって容器にあふれる。この中から別の容器にご研究対象の生物を選んで入れ、ご座所に運ぶ。陛下は更にこれから必要最小限のものを選ばれ、ご座所の水槽に入れてご観察。やがてホルマリンに漬けられる。珍しい貝などをお持ちするととてもお喜びになられる。それは皇太子のお土産にされるとか。・・・

・・・何度かの投網、揚網をくりかえし、日も西に傾く頃、帰路に着く。朝ご乗船になられた海岸で、陛下はじめ皆さんが下船され、そのあと我々はもう一仕事やらねばならない。「生物には親も子もあろうから元の場所へ戻してほしい」と陛下がお望みなので、また1時間もかけて泥も石も一緒に元へ戻し、ようやく夜の帳のおりる静かな海を基地へ急ぐ。こうして、長い長い第一日目は終わった。本当に感動と緊張に満ちた人生のひとコマであった。・・・

・・・シケの日を除き、冬休み約20日、夏休み約40日の出漁を続ける。陛下は当時御歳50歳、本当に葉山丸でのご生活を楽しんでいらっしゃったようだ。しかし、終戦後未だ日は浅く、陛下のお胸には常に幾多の股肱を無くされたお悲しみが秘められ、近くにいると痛いほどわかるとは侍従の言葉であった。当時の葉山丸は、そのままの姿で江田島に近い大三島の博物館に静かに眠っている。



 昭和天皇の生物学研究所で、天皇の海洋生物の研究を忠実に手伝った人物が、義理の祖父・真田浩男でした。戦前から戦後にかけて、天皇が記した序文で紹介されている研究に埋没した人生を送った人と言えるでしょう。故郷新潟を離れ、妻子と東京で過ごしました。子である私の義理の父や叔父たちは、渋谷・松濤で暮らしていました。その当時、渋谷・松濤には鍋島様の邸宅があり、鍋島様にお世話になるかたちで、そこに居住していたということです。

 採集したヒドロ虫類の中から新種を見つけ、それを克明にスケッチした生物画が、新潟にある実家に残っています。無論、その業績は自分のものとなるはずもないことでしたが、天皇の忠実なる下僕(しもべ)として、滅私奉公した人物だったようです。昭和天皇の侍従長を務められた入江相政氏には、この家族は何かと便宜をはかってもらったそうです。

ヒドロ虫類とは三省堂 大辞林によれば、以下の様な解説か載っています。

『腔腸動物門の一綱。ポリプ型とクラゲ型があり、さらに両方の世代を経過するものもある。ポリプ型のものは、サンゴ状・シダ状・ユリの花状など多様な外観を呈する。クラゲ型のものも、クラゲ状以外にひも状・円柱状など多様。カツオノエボシ・マミズクラゲ・ヌマヒドラ・サンゴモドキなど。』

 皇室の方々は、何らかの学術研究をされているようです。昭和天皇や今上天皇、それに秋篠宮様が生物の研究で有名です。また、皇太子は大学で史学を専攻し、オックスフォード大学に留学し帰国後、日本の中世史を研究されています。特に「江戸の水運史」の研究では有名で、ケンブリッジ大学から名誉博士号を贈られているそうです。



 ところで、わが家の5歳児は、ミミズ・青虫・シャクトリ虫・アリ地獄・テントウムシの幼虫などなど、怖がらずに手に取り、観察することができます。しかし、この子と生き物に関して、この夏に驚いた出来事がありました。

 私は毎夏、シュノーケリングをするために、友人と伊豆下田・爪木崎海岸へ行きます。今年の夏は、この5歳児も海水浴兼磯遊びをさせるため、連れて行きました。そのために、wifeも初めて参加しました。

 岩礁帯の磯には、さまざまな生き物が住んでいます。その中でも、30cmほどに育ったナマコは、大物といって良いでしょう。大人でも、それを手に取るのを躊躇する方は多いはず。

 ところが、この子は、大きなナマコを両手に取り、「くにゅくにゅして可愛い!」と、今にも頬ずりしそうな格好をしたのです。私もwifeも、その様子に驚いてしまいました。『そのように育てたはずですが、思惑以上の反応だ!』と言うのが、二人の感想でした。

 しかし、この5歳児のこの反応は、私たちの前だけかも知れません。そのわけを以前のブログで綴りました。参考にお読みください。

マッキーの教育:ミミズは気持ち悪い生き物か?

 昭和天皇の生物学研究の助手を、自分の天命として仕事を行った真田浩男の曾孫が、自分の周りの生き物に興味を示し、海の生物にも怖がらずに接する姿を見たら、さぞ祖父は喜んだことだろうと思わずにはいられませんでした。


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2 コメント

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勉強できました (tsuguo-kodera)
2013-12-04 18:03:24
 素晴らしいですね。勉強になる記事をありがとうございました。
これまた懐かしい地名がありました。 石原裕次郎の主演の映画は舞台は葉山が多かったですね。
 私も中学校のとき生物部にいました。江ノ島に行きいろいろな生物と出会いました。でもウミウシは怖かったです。ナメクジの親玉、蛇の天敵だと誤解しました。
 また、大学である有名女優さんの弟を仲良くなりました。鎌倉の海岸が彼の家。夜遅くまで女優さんにお酌をしてもらいました。凄い人気だったのですよ。
 今もご兄弟はお元気のようです。年賀状でやり取りするだけですが。以上は表向きのコメントです。
 此処からが本音です。実は私も今生陛下と同じ、孤独の人でした。楽しい学園だったのに。不思議でしょう。
 ケンブリッジ、オックススフォードは研究打ち合わせで訪問したことがありました。島国同士考え方が似ていて、意思疎通は楽だったように感じていました。
 これからは昭和天皇のように、イギリスに留学する若い人が増えるのでは。イギリスは頼りになる国なのでは。私たちより経験値が高いため、大人の国のように思えます。
 若い人もイギリスへの留学や、共同研究を積極的に継続して欲しいと願っています。ありがとうございました
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Unknown (マッキー)
2013-12-05 16:02:36
 koderaさんは、湘南方面の思い出が多いようですね。加山雄三世代とも言えますね。私は、かつて車か電車で数年ごとに出かけた思い出程度でしょうか。それでも、海釣りに凝っていたときは、あの界隈の船宿から、よくアジ釣りなどをしましたので、海側から湘南を眺めました。

 ヨーロッパの外れの島国・イギリスと、アジアの外れの島国・日本は、比較すると面白い点が考えられます。ただし、大航海時代・産業革命を経て、その中心に存在した期間の長さからすれば、まだ比較にならないほど、イギリスには重厚な文化的ストックがあると思います。
 私の教室にも、教え子でイギリスの大学に進学した生徒がいます。違った文化に触れ、そうした文化を学ぶことは、広い視野で物事を考える素養を身に付けるばかりか、日本自体を再発見することもできると思います。
 今回のブログに関連するなら、イギリス王制の「君臨すれども統治せず」は、日本において遙か昔から行われてきたように思います。私は、天皇制を崇拝する者ではありませんが、奇跡的かつ世界遺産的な日本の天皇制を、「天皇制などやめてしまえ!」としてしまう考えには、賛同できません。
コメント、ありがとうございました。


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