ヒロシマ平和映画祭 Hiroshima Peace Film Festival

2013年12月、第5回開催!

今回は、過去上映作品のなかから、「今こそ、もう一度」な作品プラスαを上映予定。

「ストローブ/ユイレと俺」

2011-12-10 09:05:25 | 日記
 義務教育である小学校と同じ年数、きっちりとバカみたいに在籍した大学時代も終盤に差し掛かっていた九十年代の中頃、東京のアテネフランセでストローブ/ユイレの全作品上映の開催が告げられた。合計20本ぐらいの上映作品数だったと思う。そのことを知るが早いか、即全回券というやつをなけなしの一万円ぐらいで購入し、体調を万全に整えた。全て通ったあげくに、複数回券があまりそうだという友人に恵んでもらったりして、繰り返し通った。卒論を書かねばならなかったが、それとこれとは別である。もちろん、卒論執筆には悪影響をおよぼした。

 何故、ストローブ/ユイレにそれほど期待を寄せていたのか?その名は映画狂の間では伝説だったのである。見ることが出来る機会がほぼ皆無で、唯一1本だけ「アンナ・マグダレーナ・バッハの日記」だけがビデオでレンタル出来た。まず、これがとんでもない代物で、当時はそんなに有名ではなかったグスタフ・レオンハルトがバッハ役、鬘をかぶってチェンバロを弾き倒し、しかも執拗な長回しで撮影されている。そして、アンナ・マグダレーナの日記から抜粋されるナレーションの内容は、これも執拗なまでに金と権力と政治の話のみ。ナレーションが口を開けばバッハをめぐる政治の話(しかも早口)、映像と音はバッハの最高級の演奏をしつこく愛想のかけらもなく見せ続ける。なんだこれは。演出とか、撮影とか、録音とか、そして何よりも映画そのものに思想があった。バッハをこの映画によって俺は知った。今でもバッハといえばここに立ち返ってしまう。いわば唯物論的バッハだ。

 ストローブ/ユイレの名前は「ニュー・ジャーマンシネマを読む」というフィルムアート社から出ていた本に載っていた。そこで彼らの作品紹介や作家紹介を読むにつけ、なんなんだこいつらはと注目せざるを得なかった。大体、この「ニュー・ジャーマンシネマを読む」という本はムチャクチャで、ファスビンダーからヴェンダースといった有名どころ以外の超マイナーなドイツの実験映画作家も平然と載せてあり(ヴェルナー・ネケスとかアレクサンドル・クルーゲとか。ちなみにクルーゲは最近「資本論」を映画化した)、しかも映画のタイトルの内容も解説も訳がわからないものばかり。ドイツ人の撮る映画というのはどうやら別の原理が働いているのだと感じたものだ。しかし、その中でもとりわけ訳が分からないのがストローブ/ユイレだった。第一、この人たちドイツ人ではない。アルジェリア戦争徴兵拒否でフランスで軍法裁判にかけられそうだったストローブがつれあいのユイレとドイツにとんだから、ドイツで映画を撮る事になったようだった。そして、彼らの映画のタイトルがやたら長く、しかも内容が全部政治的ときている。しかし、政治的といっても映画は文学を原作としたものが多く(古典から現代の作家まで)、一筋縄ではいかない。どうも映画に何の説明的な描写もないらしく、愛想のないこと甚だしいという。だが政治的。なんだこれは。近づくのは容易ではないな、そもそも日本でそんなにみることも出来ないだろう、と感じていた。

 そして、そのストローブ/ユイレを全作品ぶっ通しで2週間ぐらいかけて観る機会に授かるわけだが、これがもう、ゴダールですら足許にも及ばないほど過激なブツだった。彼らの映画のタイトルのひとつに「早すぎる、遅すぎる」という作品があるのだが、なんというか、そういう映画である。そして、映画を見るという事に取り憑いているあらゆるバイアスを取り払うかのように何も説明しないが、そこには歴史と言葉と世界が確実に開けているのである。とにかく頑固な映画である。捌きのノブ氏が「抵抗の塊」と評したが、まさにそうである。観る我々にも当然抵抗してくる。それを分からないと投げ出したり、分かった気になるのは可能であるが、そんなこともストローブ/ユイレは構ってくれない。逆にこんなことを言っているように思える。お前らには言葉があるから理解は出来ると。

 ちなみに、ストローブ/ユイレの日本での全作品上映を彼らは「広島と長崎における原子爆弾による死者と、現在の住民に捧げる」と言っていた。今回上映される「アンティゴネ」もブッシュ(親父の方)の新世界秩序によって犠牲となったイラクの死者と住民に捧げられていたと記憶している。耳と眼を凝らしてしっかりと見て頂きたい。私は当然市大に駆けつける。抵抗を止める気はないからである。私は思うのだが、広島はストローブ/ユイレに捧げられておきながら、この映画のような抵抗を捨ててしまおうとしているのではないか?抵抗から遠ざかってしまっているのではないだろうか?抵抗を止めず、また抵抗を取り戻し、抵抗に抵抗されるため、「抵抗としての文化」を語りましょう! (シャリバリ地下大学ガクチョー)

最新の画像もっと見る

コメントを投稿