ヒロシマ平和映画祭 Hiroshima Peace Film Festival

2013年12月、第5回開催!

今回は、過去上映作品のなかから、「今こそ、もう一度」な作品プラスαを上映予定。

ヒロシマ平和映画祭2013 12月に開催

2013年12月、第5回開催。 今年のテーマは「異郷の記憶」。 毎回50本近い作品を上映してきて第5回なので、今回は過去上映作品のなかから、「今こそ、もう一度」な作品を20本程度にプラスαな企画をしようともぞもぞしています。 一部プログラムの隠れテーマは「日本を取り戻す!」です(笑)。

東北行(8)「ザ・ゾーン」・怒りのチョッケツ

2011-05-25 15:40:23 | 日記
本来は、相馬からふたたび福島に戻り、徐々に東京に戻ることにしていた。
しかし、やはり立入禁止区域ギリギリまで行ってみるべきではないかと、
6号を南下、さらに海側の地方道74号や他の国道なども走りながら南下する。
何台もすれ違う、なぜか佐賀県警のパトカー、機動隊、作業員を乗せているようなバスもすれ違う。
結局、海沿いの県道で、ガードレールで簡単なバリケードをしただけでの封鎖に出会う。
近隣には誰もいないが、想像していたような防護服の機動隊も報道陣も、なーんにも誰もいない。

私なぞが心配してやる筋合いでもないが、この国、だいじょうぶか?
たしかに、ゾーンの外側に続く道にすべて警官などを配置することは大変なことになるかもしれない。
しかし、いろいろな意味で、本気で封鎖する気があるとは思えない。
正直、今までのすべての緊張感・責任感・義務感のなさ、
天井知らずの傲慢さと背中合わせの底なしの無能さを象徴するかのような風景だった。

いったん、北に戻り、主要道12号か62号で飯舘村にも向かってみることにする。
走る南相馬はほとんどゴーストタウンのようだ。
結局、12号で入っていった飯舘村は、美しい田園の村で、
飯館牛をブランド牛にしようとしてきた工夫などが見てとれる。
しかし、その村では、まだ日が落ちる前なのに、道にも家にもほとんど人の気配がない。

この辺から、ハンドルを握るチョッケツ武田21歳の様子がおかしくなってくる。
「なんだよ、こりゃ、こんな街があってもいいのかよ、ふざけやがって」。
とめどなく怒りの言葉が湧いてくる。

それはそうだろう。
今まで見てきたのは、破壊しつくされ、それでも人びとが動きまわる街だった。
それがどうだ。
その被害が軽微だったり免れた街や村に人がいない、住めない。

放っておいても、地震や津波は来る。
それだけでも多くの人びとが苦しむ。
にもかかわらず、原発やら戦争やらで、人びとは災厄を増やすのだ。
さらにいえば、それをメシのタネにするヤツまで無数にいる。

想定できなかったとすれば、ちんけな技術的な問題ではない。
起きた時のリスクの巨大さを隠すこと。
さらに現在でも隠すような連中が力をもっていること。
また、それを許すほどに、あまり入れられたくはないが、
私たち、この国の国民がバカだったということ。
そういうことだ。

チョッケツ武田は怒りのあまり迷走する。
南三陸ほどの暗闇ではなかった。
が、しばし、私たちは、ハンドルを握ったチョッケツを統御不能となり、
フクシマを彷徨うことになる。

(つづく)

東北行(7)相馬:複合災害の最前線/境界の街

2011-05-25 15:09:44 | 日記
国道45号を東松島を抜け、三陸道で仙台に戻る。
いったん、仙台で降りて、ちょいと用事をすませて、
東部道路を南下、山元で降りて、相馬を目指す。
相馬でもう一軒、お見舞いに行くのだ。

相馬駅の海側、もう少し海に行くと甚大な被害となっている海辺となる。
ここで訪れたお宅は、仙台の東部道路同様、国道6号のバイパスの盛り土が堤防となって難を逃れた。
ご夫婦二人のお宅に、親類縁者で一時18人の大家族に膨らんで、
一日二食に減らしてなんとかやりすごしたそう。

相馬漁港は、日本でも有数の漁港のひとつで、特にひらめ、蟹などの漁獲高は有名らしい。
先に訪れた若林区のお宅でも、いい「ささかま」には、
相馬のひらめが入っているものだとおっしゃっていた。
実は、相馬のこのお宅は、私が会社員時代に最も長く時間を過ごした部下・同僚のご実家で、
以前に、ホントに旨い蟹を送ってくださったりしていた。

地震直後に連絡がとれたもの、津波以後に連絡が取れないと聞いて心配していたのだが、
無事がわかりお見舞いに訪ねることにしたのだ。
「相馬漁港は全滅。田んぼは海水をかぶって全部ダメ。
今のところ、原発から海沿いに風が吹くことはないから少し安心はしているけど、
何かの時のためにリュックひとつもって避難できるようにしています」。
10年前までは、お父さんが板さんで小料理屋をやっていた家だ。
かつては生活の糧でもあり、大好きなはずの魚介類も、
今では「放射能が怖くて食べられない」とおっしゃる。
そんななか、と同時に、南相馬などからの避難民で、
空いていたアパートなども満室状態となっているともいう。

相馬は、駅周辺の街なかや国道6号はいたって普通の感じでもある。
しかし、海側に出るとその津波被害のさすまじさに愕然とする。
また、駅に寄ると、常磐線が津波で破壊され、さらに原発事故の「ゾーン」のなかなので、
まったくもって復旧のメドが立っていないという現実にも直面する。

そしてなによりも、見過ごされがちだが、
この街は、実は、地震・津波と原発の複合災害の最前線・境界の街であり、
可視的・不可視的な恐怖にさらされているのだということにも気づかされた。

(つづく)

東北行(6)女川~女川原発~わたんちゃ辺り

2011-05-25 12:49:06 | 日記
かもめたちは、はじめ私たちに驚いていたが、
そのうち、よくいえば人なつこく、悪くいえばなめているかのように、近寄るように飛んでくる。
港や船の上から見たことはあるが、こうして見ると、まったくすずめみたいだ。

かもめと遊んでいる場合ではないので、女川および女川原発に行ってみることにした。
サンキュッパを行けば、すぐに女川に出る。
今さらいうまでもないが、女川町市街地の被害も半端ではない。
ここは、地域や全国の漁業関係者の支援も強いのかと思うほどの多くの民間業者が多く入っていた気仙沼、
ほとんど作業が行われていないかのような南三陸の志津川・歌津と違って、
大量の自衛隊が投入されていた。

全体のオペレーションとかがあったり、担当や日程の都合なのかもしれないが、
一瞬、「原発があるから?」とか勘ぐってしまった。
とはいえ、細かいことはわからないままの、あくまで私の勘ぐりなので、間違っていたら申し訳ない。

主に自衛隊が作業を進める市街地を回って、たぶん、これだろうと地方道41号を入ると、
いったん山を上がり、女川湾の風景とその先の被災状況を左に見ながら進む。
しばらく行くと、原発にぶつかる。
実は、この間、行く先々で火力発電所などでも入って行き、
「見学に来ました」ととぼけていうのだが、もちろん入れてもらえない。
今回も案の定だったので、地方道2号に出て、万石浦に戻る。
いったん女川町市街にいったあとに、牡鹿半島を回って帰ってきた感じだ。

ちなみに、万石浦では、見覚えのあるようなものが多く浮かんでいて、やはりそれは牡蠣筏だった。
比較的、また奇跡的に被害が軽微だった万石浦の牡蠣養殖業を支援する動きも全国に広がっているらしい。

万石橋を渡ると、渡波(わたのは)に出る。
「わたんちゃ」と書いてある渡波駅で情報収集がてらひと休みすることにする。
一台の大きめのワンボックスカーが止まっていて、支援者が物資を配っていた。
白人の外国人、労働者風のおっさん、ヤンキー風のお兄ちゃん、
いかにもボランティア風のおねえちゃんという取り合わせで宇都宮ナンバー。

「道ゆくボランティアで、いいノリを感じたら、支援物資を渡してあげてください」
とアドバイスされていたのを思い出す。
昨日、降ろし忘れた物資をいくつか託すことにする。
なかにあったウズラの卵の缶詰を見て、
外国人支援者が「おいしそう。ボク食べてもいい?」
「どーぞ、どーぞ」。
その間、チョッケツ武田は、おばあちゃんに話しかけられて、
「震災以降、よく歩くようになって元気になった」とかと。

しばしの路上の交流から、またクルマに乗り込む。
先に書いたように、水没に近いようななかで、
ここでは民家の片付けに入ろうとしているボランティアをかなり見かけた。
また、他の土地よりも、いかにもボランティア風の人びとを多く見かけようにも感じた。

45号を東松島に向かう途中、
朝にコーヒーを飲んだだけ、さらに昼も食べる時間がないかもということに気づく。
開いているコンビニを見つけ、食料を買い込むことにする。
(5)で書いたように名取市(仙台の南隣)で作っているおにぎりやサンドウィッチを選ぶ。

被災地の真ん中に近く、かつ国道沿いということもあるのだろう。
このコンビニは、ボランティアだけではなく、いかにもいかつい東北の労働者とでごった返している。
労働者かボランティアか、これほど即座に見分けがつくのも、ちょっと興味深い。
体格や身に着けているもの、買う食べ物のセンスがまるで違うのだ。
基礎体力の違いもあるのだろうが、いかにもいかつい労働者に比べて、
いかにもボランティアにしか見えない人たちは、心身ともに疲れているように、また心細そうに見えた。

(つづく)

東北行(5)万石浦:支援者をも支援せよ。

2011-05-25 12:01:09 | 日記
土地の名前を取り戻すたたかいとは、記憶を取り戻すたたかいである。
私たちが暗闇のなかで、ほんの少しでもその苦闘のあり方と共振できたとはいわない。
そして、ここでも新たな問題は、北上川にかかっていた河口に近い新大橋が落ちたことにあった。
いったん県道を西に向かい、45号に出て石巻市街を目指す。
目指しているのは、牡鹿半島の西付け根にあたる万石浦。
本来であればサンキュッパで女川を回って行けばいいのだが、それができないのだ。
石巻市街の詳細図を持っていないので迷いながら、
また道ゆく人を見つけて道を聞いてはなんとか辿り着く。

万石浦に面する北側の道を上がったところにある、
とある公民館が、支援者用支援施設および物流基地となっている。
山形からの支援者たちや地元で難を逃れた人たちが協力して運営している。
この万石浦は、あまりに入口が小さすぎて津波が入ってこれなくて難を逃れたそうだ。
が、それでも海をギリギリのところで走るサンキュッパは、満潮のためか冠水している。
ここもまた地盤が沈下しているのだ。

翌日、明るくなってから知ることになるのだが、
万石浦の西入口にあたる渡波(わたのは。駅には「わたんちゃ」と書いてあった)あたりは、
甚大な被害を受けた地域で、ほとんど水没しているかのようだった。

この万石浦の「基地」では、思わぬ再会やおもしろい出会いもあった。
また、現場から伝えてほしいということもいろいろあった。
しかし、若干、微妙なところもあるので、もう少し整理してから書きたいと思う。

ただ、少し、食べ物についてだけ。
実は、今回、できればどこかで広島風お好み焼きぐらいはつくろうとおもっていた。
しかし、なかなかタイミングなどが合わず、
結局、広島から運んだキャベツなど食材などはこの「基地」に支援物資として置いていくことにした。
もし、今後、いろいろなかたちで現地を訪れることがあれば、
やはり生野菜やちょっと変わった食べ物を持っていかれるといいかもしれない。
パンやレトルトの食品、決まりきったメニューの炊き出しで、
避難者も支援者も飽きたり健康のバランスを崩しかけているというのだ。
支援者も支援しなければいけない段階にとうに入っているのだ。

また、かなり激甚な被害を受けた地域でも、営業を始めているお店も少なくないので、現地調達もある程度可能。
できるだけ、地元のお店で買い物をすることをお薦めしたい。
が、コンビニでもよく表示を見れば、たとえば名取市で作られたおにぎりとかも売っているので、
そういうものを率先して買うように工夫するのもいいだろう。

さて、その施設に泊めていただくことになったのだが、私はひとりでクルマで寝ることにした。
朝、起きると、そこは小川が流れていた。
あたかもすずめのように群れているのは、すべてかもめだった。
またしても、東北ビギナー、驚愕の光景だった。

(つづく)

東北行(4)東北ビギナー、栗原で無知を痛感する。

2011-05-25 02:59:44 | 日記
少し前後するが、南三陸からの南下の途中で暗闇に行き着くことになったのには、二つの理由がある。
ひとつは、山形・赤倉温泉に行くことになったこと。
ここに辿り着いた時も既に日が暮れてからだったが、夜中に温泉に漬かりながら見る、
いかにも温泉郷といった山あいの谷川の風景は、朝日のなかではいっそう美しかった。

もうひとつは、そこからどうしても栗原に行きたくなっていたこと。
おまけに、地図によると、栗原経由で気仙沼に抜けるとよさそうというのがあったからだ。

実は、前日に仙台若林区でお話を伺ったご夫人がこの栗原の出身で、
今回も津波の被害に隠れてあまり報道されていないが、
かつての地震では栗駒山が崩れたり、今回も地震の被害がひどいという。

東北に独自の組織と思われる「婦人防火クラブ」の活動や、
瓦よりも被害が少ない石屋根を、女川の雄勝岳で採れる石で作るといった話も聞いたので寄ってみたのだった。
道はかなりがたがたになっているが、
たしかに、その特殊な石屋根の家ばかりで、潰れた家もほとんど見かけなかった。

時間があれば、そこで一人暮らしをしているおばあさんを訪ねようと思ったが、
さすがに時間がなかったのが心残りだ。

宮城、山形、岩手、秋田が県境を接するこの辺りは栗駒国定公園ともなっていることは、
実は帰ってきてから知るほどに、私たちは不勉強かつ余裕がなかった。
が、山、湖、「栗っこ米」と呼ばれているらしいお米の獲れる田んぼが広がる風景は、
これまたとても美しかった。

また、この辺りは、中尊寺がある平泉にも通じていたり、
かつて「水沢県」という県が置かれた「奥州」の複雑な歴史もあるらしい。
仙台・若林でお世話になったご夫人の、どこか凛とした気品にもそうした背景があるのか、
と気づくのは少し時間がかかった。

(つづく)


東北行(3)志津川~石巻の暗闇で

2011-05-25 02:16:24 | 日記
さて、今回の旅の参加者には、ひとりも東北に詳しい人間はいない。
ほとんどが初めてに近い状態。
先述したように、カーナビもない。
カネもないから、そんなに詳しい地図も買えない。

朝日新聞に切り替えた時にくれた日本地図と、さすがにそれではまずかろうと、
16日に新宿で購入した最も安い部類のJAFの「関東」「東北」の地図だけ。
そこに、道の駅やら区役所やらで入手した地図や会った方々からの情報で手探りで突き進む、
きわめてアナログな旅だ。

すべてを破壊された瓦礫のなかからせめて道路を掘り起こす。
この営為は、単に物流経路の確保のためだけではない。
名前を取り戻すための第一歩だということだ。
そのことを初めて身体的に感じたのは南三陸の志津川地区のなかでだった。
ここはまず名前を取り戻そうとしてる。
道を掘り出し、道なきなかに道を造ることは、名前を取り戻すたたかいなのだ、と。

とはいえ、なんとか働いていたカンも急速に更けていく夜には勝てない。
夜間も作業を続行する照明だけが時折、道なき名なき道の暗闇を照らす。
しかし、まったく「ロスト」状態になってしまった。
海辺なのか川辺なのか。
たぶん、この辺だろうと思った地点に、奇跡的に営業していたガソリンスタンドに行き当たる。
「ここはどこですか? 石巻に出るにはどうすれば?」
「ここも石巻なんですが」
差し出した地図に、店員さんが指したポイントは私の予想とはまったく違う場所で愕然となった。
地図読みにも、初めての土地でも、ある程度のカンには自信があったのだが…。

さすがに動揺したが、店員さんは道を教えてくれて、
「この状態なら地元の人間でも迷いますよ。気をつけて」
走り出る時に、キャラメルをくれた。
ちょっとまた泣きそうになった。

(つづく)

東北行(2)仙台~山形・赤倉~栗原~宮城三陸

2011-05-24 23:56:53 | 日記
今回の旅は、やはり現場に行かねばならないという、かなり単純な欲求によるものだ。
たまたま、私の縁のある方々が東北各地にいらっしゃるので、支援というよりもお見舞いに行くという感じ。
ある程度の料理もできるように、材料や用具も積み込む。

実は、私は免許を持っていないので、ドライバーに負担をかけることになる。
しかし、なぜか、遠いむかし、家具配送助手などをやっていたこともあるので、積み込みや地図読みはある程度できる。
借りたクルマにはカーナビもついていないので、スケジュールも道順もすべて私が組み立て、ひたすら走るのだが、
随時、ノリで突っ込んでいく感じもある。

島崎藤村ゆかりの地の辺りの駐車場からハンドルを握ったチョッケツ武田(21歳)は、
カンで仙台港辺りを目指し、動物的なカンですさまじい現場に行き当たってしまった。
これまた。
相馬とはまた違った、住宅やクルマが徹底的に破壊され、既に廃車が山と積まれた場所に行き当たってしまう。
しばらく、その辺りをうろついたあと、若干の用意をしながら、若林区役所を訪ねたり。
仙台で最も甚大な被害を受けたと報道で有名になった若林区の知人の実家を訪ねる。
仙台東部道路が堤防となり、被害を免れたお宅。
その堤防となった東部道から南部道に切り替わってすぐのところで降り、お宅を探す。
東部道からの眺めがウソのように普通の住宅街となる。
災害はいつも不条理だ。
津波の被害を免れたものの、一時は暮らしも大変だったそうで、近隣で助け合った話しや、
地震や津波の多いこの地域での、むかしからの防災の工夫などもうかがった。
お母さんは、宮城県北部・栗原のご出身で、その地のことなども聞いたので、翌日、行ってみることにする。

実はこの日のうちに、石巻に行き、山形から支援に入っている方に出会う予定にしていた。
が、今日は山形・赤倉温泉の、自らが営んでいる温泉宿にいるので、そちらにどうぞということで訪問する。
仙台からは国道47号で北西に行く感じだ。
ここでもいろいろなお話をうかがい、被害や支援の現実を知る。

翌朝、山形・赤倉からいったん北東に宮城・栗原に向かい、そこから346号などで東に向かうと気仙沼に抜ける。
末吉という辺りで、既に内陸からすさまじい光景が広がり、海に出ると言葉を失う。
既に臭気がすさまじくなってくる。
ところどころ砂利道と化した国道45号を海沿いに向かう途中、
窓を閉めてもクルマのなかまで臭気を忍び込んでくる、いや、押し入ってくる。

瓦礫の山の気仙沼市街を抜け、気仙沼港でクルマを降りる。
ガタガタの港でも、離島に向けフェリーが接岸している。
その土地や、あるいは日本じゅうの漁業関係者たちだろうか、
気仙沼はすさまじい被害、瓦礫、臭気のなか、多くの車両や人びとが行き交ってもいた。
瓦礫を片付け、道を掘り出し、アスファルトのはげた砂利道で物資を運ぶ人びと。
人の営みのすごさにも強い感銘を受ける。

陸前高田からの岩手三陸にも向かってみたかったが、時間がなく南下することにする。
45号を走る。
気仙沼を抜け、あまりのすごさに受けた衝撃から少し逃げようと考えていると、
コンビニが開いているので、缶コーヒーで駐車場で少しひと休み。

さらに進むと。
これまた衝撃的な光景が。
45号が目の前でばっさりと落ち、巨大な河原が広がっている。
南三陸の歌津地区だ。
たまたまクルマを止めている男性がいるので、
「向こうに行くにはどうすればいいんですか?」
「だめだ」
もう一度聞いてみる。
「ない。戻れ!」
たぶん、家も流された方なのだろう。
無神経な質問に聞こえたかもしれない。
若干、反省しながら地図を見る。
45号を戻り、本吉から346号で内陸に戻ると迂回できるはず。
346号に入ると、途中に右手に抜け道が、書き立ての看板で指示されているので、それを降りていく。
渡れないと思った、河原のような街に出た、ようだ。
実際、もともとこの歌津地区がどのような姿だったのか知らないものには、
どこを走っているのか、さっぱりわからない。
橋が落ち、鉄道の高架(と、気づくには時間がかかったが)がボロボロに砕け、電車が転がる。

そうしてしばらくクルマを走らせると、志津川地区が眼前に広がる。
被爆直後の広島を想起させるような何もない灰色の写真で印象に残った街。
市街地全体が瓦礫。
掘り出された道が砂利道で下手をすると川のなかに脱輪してしまう。
そんななかを進む。
地元の人が「サンキュッパ」という398号を進めばいいのだが、
ところどころこれまた出来立ての手書きの看板以外は何もない。

街路表示もない、建物もない、道もあるようなないような。
ここで、暗くなってからはまったくのお手上げだった。

(つづく)



東北行(1)茨城~郡山~相馬~仙台

2011-05-24 22:38:11 | 日記
東北に行ってきました。
少し簡単に書いてみます。
(事務局CHO=東琢磨)

**********

15日朝に広島を出発、22日夜に戻りで、東北に行ってきた。
川崎・東京で若干の準備をして、17日の朝から一路、東北へ。
ここまでで既に、何人もの方々に協力を得ているが省略する。
とりあえず感謝。

常磐自動車道から北関東自動車道へ。
水戸南で降りて、国道6号、245号などでできるだけ海沿いを北上。
「ヒロシマ4」と勝手に名づけた広島からの労働者4名が亡くなったひたちなか火力発電所で弔意を捧げ、
沖縄の米軍フェンスと同じ光景の東海村を見て歩く。

より北上していくと、東北の入口とでもいうべき「勿来の関」。
そこから少し内陸に入ると、日本エネルギー史に名を残す常磐炭鉱だ。
さらにそこから国道49号で郡山へ。
福島の子どもたちを放射能から守る会の講演会に終了間際に辿り着く。
会場が、よそ者にはわかりにくいが、すごい人と熱気。
ビリビリするような危機感。

翌18日朝、片付けを手伝うため、若干早く会場に着き、会議にも参加。
福島の人びとが、自分たちを「ヒバクシャ」であると認識していることに少したじろぐ。
が、広島を僭称する御用学者が乗り込み、福島に迷惑をかけていることなどをあらためて肝に銘じる。
とても素敵な人びとだった。

さらに、国道4号で福島を目指す。
途中、福島大学に潜入。
学食で昼食がてら、生協の書店も見てみるが、さすがに震災・津波、原発関係の本も揃えてある。
福島から国道115号で相馬へ。
駅を越え海側に出てみると、いきなり衝撃的な光景が広がる。
いや、眼前に光景が広がるのではなく、身体が突然にそのなかに投げ込まれたような異様な出現の仕方だ。
既に、茨城でも見ていた光景がすさまじいスケールとなって広がる。
どこの惑星の光景だろうか。
クルマを降りてみると、人気のいない廃屋となった旅館からカタカタと音が聞こえてくる。

気を取り直して、6号を北上、これは岩沼で4号と合流し仙台に向かう。
暗くなり、あまり様子が分からないまま、仙台駅東口でクルマを止める。
いろいろあり、私ひとりで夜の街に探索に出てみる。
とあるバーで、少し仕事をかたづけたあと、適当なタイミングで話題に入り込み、マスターやお客さんたちと話し込む。
お客二人は地元の若者。
ひとりは東北学院大学の学生、ひとりは彼の幼なじみで冠婚葬祭屋の営業くん。
ともに21歳。
ふたりともとてもいいやつでいろいろトーク。
冠婚葬祭屋くんは、遺体の身元確認のお手伝いや遺体を洗ったりの日々だったそう。
一段落すると「営業してこい」と。
「営業って」。
「飲みたくもなるよね」
マスターも含めて、名刺に携帯も書いてくれて「困ったことあったら、すぐに電話ください!」
仙台。泣ける。

(つづく)

5月17日、矢ケ崎克馬さん講演会@福島・郡山

2011-05-11 19:31:29 | 共催イベント
15日から、とことことと東北をめざすことにしました。
そこで、ちょうど友人からこんな案内があったので、まずはこれを目指していこうと。

矢ケ崎センセとも数年ぶりですし、福島の方々とも交流できそうで、
ちょうどいいタイミングかな、と。

(事務局CHO)


(以下、転送・転載、歓迎)

   *   *   *   *   *

◆講演会◆
 「内部被曝を避けるために
   ーー怒りを胸に、楽天性を保って、最大防御を」

  講師  矢ヶ崎 克馬氏(琉球大学名誉教授)


 講師紹介 
  昨年『隠された被曝』(新日本出版社)という著書を出した、日本でも稀有
  な内部被曝の研究者です。3月のうちに福島を訪れて県内で土・空気・水の
  汚染実態の測定を行っています。機会あるごとに私たち福島県民に対して共感
  と助言を寄せて下さっています。

 【日時】 2011年5月17日(火) 18:00 ~ 20:30
       (開場は17 : 30)
 【場所】 郡山カルチャーパーク内カルチャーセンター 展示室
      所在地:福島県郡山市安積町成田字東丸山61番地
      (会場TEL 024-947-1600)
      アクセス:http://www.koriyamaculturepark.com/access

 【入場無料】

  *子連れでの参加も歓迎いたします。


◆「内部被曝」とは
 体の中に入ってしまった放射性物質が体の内側から放射線を発し続けること。
少しの量でも積算の被曝量が大きく、これを防ぐためにしっかりした対策を取る
ことが必要です。

 私たちはこれからも、放射能で汚染されたこの福島の地で生きていきます。

 その覚悟として、いたずらに怯えるのでも何かにすがるのでもなく、一人ひとり
が内部被曝について正確な知識と有効な対策法を持つことが大切です。
 それこそが本当の意味での「安心」・「安全」につながっていくのですから。


 【主催】 「子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク」
   お問い合わせ先(世話人)
    早尾 貴紀(070-6615-2989)/ p-sabbar@mrg.biglobe.ne.jp
    小河原 律香(090-2367-9345)/ pekapekao@gmail.com



(チラシ裏面より)

◆被ばくを強要される子どもたち
 文科省は、福島県内の子どもたちが学校での活動中に浴びても良い放射線量の
基準として、年間20ミリシーベルトを適用しています。
 これは、原発労働者の許容上限(5年で100ミリ)と同じ水準の被曝を強いる
もので、白血病などを発症した場合には労災認定もされうるという、異常に高い
数値です。

◆無視された内部被ばく
 しかも、文科省の20ミリシーベルトには、「内部被曝」が考慮に入れられて
いないのです。内部被曝というのは、体内に入った放射性物質が体の中から直接
に放射線を発し続けることです。
 ですから微量でも積算の被曝量は大きく、将来的な影響も深刻なものとなります。
体外から放射線を浴びる外部被曝だけでなく、内部被曝についてもしっかりと調査
し対策をしなければなりません。

◆根拠なき「安全」が不幸を生む
 さらに福島県に任命された「放射線健康リスク管理アドバイザー」は、年間100
ミリシーベルトでも健康被害の因果関係はないとして、県内各地で「もう福島は
安全である」と講演して回っています。
 いま福島県で進行している事態は、チェルノブイリ原発事故の5年後や10年後
(甲状腺癌や白血病の増加)を思い出しつつ自分たちの子どもの将来を考えたと
きに、あまりに安全からかけ離れた深刻な事態だと言わざるを得ません。

 こうした意味で、このたび招聘する矢ヶ崎克馬氏のような内部被曝の専門家こそ
県のアドバイザーとなるにふさわしい方であり、これから私たちがしっかりと防護
や除染を行なっていくに際しても、的確な分析と助言を提示してくださるものと思
います。

5月29日広島『ミツバチの羽音と地球の回転』自主上映会・講演会

2011-05-05 08:30:14 | 告知・募集
友人から届いた広島での自主上映会・講演会のお知らせです。
どうぞぜひご覧ください。
(エンヤートット)

*********


2011年5月29日(日)
映画『ミツバチの羽音と地球の回転』上映会・講演会

~未来のエネルギーをどうするのか?祝島とスウェーデンでエネルギーの自立に取り組む人々の物語~

「ヒバクシャー世界の終わりに」「六ヶ所村ラプソディー」に続く、鎌仲ひとみ監督待望の最新作!
山口県上関町の原発建設計画に向き合う人々と、石油や原発エネルギーからの転換を図るスウェーデンの取り組みを描いた長編ドキュメンタリー映画「ミツバチの羽音と地球の回転」、必見です! 
 当日、監督は来場されませんが ゲストに広島出身で自然エネルギー専門家の竹村英明さんをお招きして、未来のエネルギーについてお話していただきます。

会場では映画の舞台となった祝島(山口県上関町)の写真展示、夜の部の横川シネマでは鎌仲ひとみ監督の書籍・DVDや祝島の特産品の販売、ドリンク販売なども行います。

【昼の部】
日時 2011年5月29日(日)
上映 10:30~(開場 10:00)
ゲストトーク 14:00~ 竹村英明さん講演、質疑応答

会場
広島市まちづくり市民交流プラザ 北棟6階マルチメディアスタジオ
(広島市中区袋町6-36)

交通アクセス:http://www.cf.city.hiroshima.jp/m-plaza/kotsu.html

【夜の部】
日時 (同日)2011年5月29日(日)
上映 17:00~(開場 16:30)
ゲストトーク 19:30~ 竹村英明さん講演、質疑応答

会場
横川シネマ!!
(広島市西区横川町3-1-12)
交通アクセス:http://yokogawa-cine.jugem.jp/?cid=7

上映作品
『ミツバチの羽音と地球の回転』 (2010年/カラー/DV/135分)
監督:鎌仲ひとみ 制作:グループ現代
作品公式サイト http://888earth.net

参加費
大人 映画鑑賞またはゲストトークいずれか参加の場合は1000円、両方参加の場合は1800円
高校生 映画鑑賞またはゲストトークいずれか参加の場合は500円、両方参加の場合は800円
(中学生以下は無料となります。)

※詳しくは、次のお問い合わせ先へご連絡ください。
お問い合わせ先
tel: 090-4658-3312(沖横田)
E-mail: okihideo@hotmail.com(沖横田)

主催
チームミツバチ(『ミツバチの羽音と地球の回転』自主上映会広島実行委員会)
ブログURL http://blog.goo.ne.jp/mitsubachi_hiroshima/

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竹村英明
広島県生まれ。自然エネルギー専門家。2004年環境エネルギー政策研究所に入る。
自然エネルギー事業の実践を経て、同研究所を母体として生まれたエナジーグリーン社で事業部長を務める。
「1% for 祝島」祝島自然エネルギー100%プロジェクトに関わる。
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竹村英明さんブログ
http://blog.goo.ne.jp/h-take888
「1% for 祝島」祝島自然エネルギー100%プロジェクト
http://www.iwai100.jp/index.html
エナジーグリーン社ホームページ
http://energygreen.co.jp/

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鎌仲ひとみ監督のつぶやき
@kama38 (http://twitter.com/#!/kama38)
映画公式アカウント
@888earth (http://twitter.com/#!/888earth)
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