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雨の中のもちつき

 朝から雨が・・・昨日には遠方の宅配するもちつきを行い今日は二日目のもちつきです!器材等の準備はそのままでしたので心配は無いのですが餅コメの蒸しは窯で行いますのでテントを設置してよかったと思いました。(数年前に風よけと埃避け・・・そして雨対策として購入したのですが役に立ちました!)

 今日は我が家と身内用の餅つきですので気らくに実施できましたが結局は寒い外仕事ですので濡れながらも無事午前中に終了いたしました。

 今年もなんだか色々なことがありましたが明日一日で新年を迎えますので急いで正月のお飾りを購入に茂原の旧町に出かけましたがもう神棚の藁鳥居は売り切れ(七本脚)で仕方何区12本脚にして神棚他「ゆずり葉」「裏白」など準備などあわただしく一日が早く感じました。

 

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房総三国の名称

 寒い日が続いております!今日はコロナ過の第三土曜日ですが星屑には行事案内が三つ重なりました・・・迷いましたが午後の「房総古代道セミナー」はこの期会を逃せば次回聞くことができないと判断して「市原市民会館」に向かいました。今回のテーマは「房総三国とフサ」です!

 単純になぜ「総」の国というのか?知りたいと思っておりましたが意外と複雑でした。結論から言うと三国が元々国の明確な容をしていなかったようでした。ただし、外房線の誉田駅から土気駅の間には上総・下総の境界の土塁が外房線脇にあることは若いころ地元農家の方に教えていただいて知っておりましたが・・・!

 

 よく忌部氏が東国に移るときに麻と梶の苗を持ってきて房総は麻の産地となりその言葉が(麻→房→総)言われますが・・・!

 もともと千葉県は房の国として明確なまとまりが無かった。7~8世紀の木簡から三国(上総・下総・安房)と記録はあるが、まとまりがない半島を統合したかったが仕方なく上・下地区としての名称を使ったみたいなお話で自分としては良くわかったような・・・判らないような・・・「房」の字もいろいろと変遷があってなんだか明確な線引きもあったものの明確な国としてのまとまりが無い半島なので適当に区分したみたいなお話でした。

 頭の悪い星屑の拝聴によれば、ようするに千葉県は小さな群ばっかりで歴史的三国ではないもののおおまかに分けて朝廷から国司などの配置がなされたという事みたいでした。星屑はなんだか明確な理解ができませんでした!

 

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二日目の古墳見学

 宿泊のホテル室内の狭かったことと深夜の排水管の音のようなものが時々・・・うるさくて持っていた耳栓してようやく就寝に・・・朝同行客と話すとどうやら冷蔵庫の音だったらしい・・・どうせ使わないのであうから電源切っておけばよかったのだ!

 ホテルを出て今日は「かみつけの里」博物館と古墳見学ですが昔車でここに来てたまたま古墳見学していたことを思い出し(ただし当時博物館はなかった)昔はたくさんあった桑畑の中には「福田総理」の生家近くであることを思い出しました。(桑畑の中にある長屋門のある農家つくりで門には書生が住む住居に使われたいた)その後市内に入りお昼は「とりへい」で美味しかったのでついついビールを飲んで共通チケットを使用できたので良かった!(使い残してももったいないので)

  

     

 午後は総社古墳と歴史資料館そして「大室山古墳群」の見学で一日が終了しました。無知な私にはガイドの説明による「耳学問」は勉強になりました。二日間殆ど高崎駅周辺の古墳巡りをしていたことになりましたが古墳時代は未だ資料発掘による時代遺産がありますのでわかりやすいことと時代背景の勉強になりました。

 今後はもっと知らない判らない「縄文時代」が知りたいと思いました。紀元前を遡り当時の海岸線や火山による地形変更や日本人はどこから来たのかDNAはどこから繋がっているのか?知りたい・・・!と思いつつ無事帰宅いたしました。

 

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古墳巡りに!

 古墳のツアーに参加いたしました。高崎駅に到着してバス待ち時間に駅の酒店で「角うち」・・・!この地域は昔星屑がパラグライダーにはまっていたころは車で何度も通り抜けておりましたので大まかな榛名や赤城・妙義・浅間方面の方角と多少の古墳があることは知っておりました。また、過去「ゼロ戦」設計者の「堀越二郎」氏がここの出身地で展示があったころ(宮崎駿氏の映画 “風立ちぬ”)当時一人で車を運転して博物館に入りそこが古墳の近くであることも知っておりましたが時代や詳しいことは知らないままでした。

 今回は地元ガイドのおかげで有意義な見学ができました。崇神天皇の長男「豊城彦命」(とよすきいり)がここに東国に入ってきていたのでした。

 

 

 

  その他12月は討ち入りの季節ですがプラスのガイドとして「吉良上野介」は三河国3.200石と上野国1.000石の所領出身地で足利氏の流れ(清和源氏足利氏支流)の高家であり京への使いとして24回の上洛実績が群を抜き「吉良流礼法」後継の立場から家康が武家の礼法を欲していたため部屋住みながら「庇陰料」(ひいん)千石増加して抱えられた。

 だから「上野介」というと・・・!星屑はこの話の方が面白かった!

 要するに皇室祭祀にも通じていることから江戸城内で武家(祭祀)のしきたりを行う立場に家康に引き立てられ数千石程度の所領ではと、さらに千石かさ上げされて迎え入れられたと

 一日中古墳巡りでホテルにはいりましたが夕食がついておりませんので高崎駅近くで軽く飲んでホテルに入り早めに就寝

 

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船橋の歴史講座

朝から冷たい雨が・・・自分が寒がりなのかも知れませんが外仕事に動きが取れないので少し早めに電車で船橋市に向かいました。

 今日の午後は千葉市市内でも歴史講座がありテーマは「楠木正成」でしたが又の機会もあると思って船橋の歴史講座テーマのほうが気になって船橋に参加いたしました。

12時半から船橋中央公民館でしたが、会場に入ると「田沼」県議・山武隊友会の「若梅」さん・八千代の「若松」さまなどにお会いいたしました。

講演会のテーマは「元朝から見た蒙古来襲」です!以前から教科書によれば鎌倉時代に元寇二回とも「神風」で我が国が偶然防衛できた(助かった)のようなイメージでしたが元軍はどんな構成であったかは重要な要素と思っておりました。

 拝聴した結論からはモンゴルの草原の中心本体は海を渡ってまでの戦闘に消極的でフビライ直下の軍は参加せず1~2回目の襲来は配下の「高麗軍」プラス女真族・契丹族による混成部隊で海を渡って日本に攻め寄せたのが現実で三回目はベトナムの反乱がおきて日本遠征は中止されたのでした。(いずれもフビライ直轄の草原の軍では無かった)

 私は以前より馬を乗りこなして戦闘していた民族が馬なしでわざわざ舟に乗り海を越えて上陸して日本と(九州)戦うことを望んでいたか疑問でした。ただその前に現在の北朝鮮は民族(南朝からの拉致)ごと北に連れられ(拉致)て元朝に組み込まれ「高麗」が今のほぼ「南朝鮮」ほぼ39度線位までで「済州島」は「モンゴル直轄地」であったことは知りませんでした。(要するに北朝鮮国はなかった)

「宮脇淳子」先生のお話は初めてでしたが田沼議員のお話では「チャンネルくらら」で連続で「皇帝たちの中国」を配信(ユーチューブ)しておりました。

(確認したところ第一回は中国人は最初から異民族同士の混血民族から始まった!)でした。

先生の著書も多数紹介されておりました。

 いずれにしても今日は船橋の講演会が拝聴でき私にとっては有意義な午後でした。

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