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まるこビッチの鼻

今日も青空がきれいだな。良い日、良い日。

コスプレなスケバン

2005-08-18 | 映画・ドラマ
 昨夜は「トリビアの泉」と、「ワンナイ!」を見る合間に、時々、数秒単位で、裏番組の「ビーバップハイスクール」を見た。
 初代(?)のヒロシやトオルを見てきた人間としましては、現代版(?)主人公のヒロシとトオルはもとより、ヒロインの今日子もあまりインパクトがなく、番組としては見たいとは全く思わなかったのだが、どうしても見てみたかったものがあったので。
 山田優のスケバン姿である。
 ブラウン管にお目見えした彼女は、期待にたがわずキュートでしかも格好いいスケバン姿であった。
 昔の“ウルフカット”(?)の少し入ったような髪形。真っ赤でつやつやな唇。そしてあの丈の短いセーラー服の上着とひこずるような超ロングなスカート。
 昔のドラマに出ていた極めてオバハンくさい“スケバン”とは全然違い、洗練されてはいるが、どこかレトロな可愛さもかもし出していた彼女のスケバン姿は完璧♪♪
 彼女のことは、ジンジャーエールのCM姿がなんだか昔のSF小説、ダーティペアのコスプレのようだ、くらいしか思ったこともなく、そんなに好きな芸能人ではなかったのだが、今回のじゅん子さん姿には、思わずニコニコ。
 ワタクシが中学生時分、ああいういわゆる“ツッパリ”スタイルが流行ってましたな。
 同級生の子の中にもああいう超短上着と、超長いスカートをはいていた子も、何人もいたな。マジで不良、とか言うのではなく、やっぱりああいう姿に憧れて、のプチスケバンたち。
 制服検査のときにだけ、スカートをお腹のところで何回も折って誤魔化そうとしていた姿を思い出す。もちろんそれが先生に通用するわけもなく、しょっちゅうセンセイと口げんかをしてたな。
 そういう彼女たちをほげ~、と見ていたワタクシのスカート丈は、一番ふくらはぎが太く見える長さの、中途半端な丈だった。ははは。だって、そんなもんだったのよ、その頃みんな。
 それはまあ、いいとして、山田優のスケバンスタイルは、パンツの見えそうな今時の品のないミニの学生服より、品があり、そしてはるかに“萌え”度高し。
 いまどきの制服のスカートの三倍分布地のいりそうなロングなスケバンスカートだが、なんかすごく可愛かったな。着ているのが、もともとスタイルのいい、美人の彼女だからだってことはわかってはいるのだが。うん。新鮮、新鮮。
 メイド服の次に来るのはスケバンコスプレ! ……な、わきゃないか。

火サスの醍醐味?

2005-07-20 | 映画・ドラマ
 夕べは何も見るほどのテレビがなかった。ので、珍しく“火サス”なるものを最後の二十分ほどだけ見てしまった。
 子供を堕ろさせた不倫相手とその妻を殺した罪で服役していた女性が仮釈放され、働き始めた職場で歳の離れた孤独な青年と出会い、恋に落ちる……、とか言うあらすじが新聞に書かれていたのはちょこっと読んだ。
 その歳の離れた青年が実は自分の殺した不倫相手の子供なんでしょ、と、見る前から思っていたが、まさにそのとおりだったのには、逆に不意を付かれたような気がした。
 ここまでひねりなくていいんかいな?
 シンプルに、運命に翻弄される純愛みたいなのが最近の視聴者層のお好みなのかしら? 韓国ドラマみたいに。
 ワタクシは韓国ドラマも、今リバイバルしている七十年代のドラマも嫌いなので、つい………、な気分になってしまう。
 子供のころ、七十年代のドラマが平日の四時台に再(再々?)放送されていたのだが、悪い方に、ややこしい方に必ず向かう主人公の運命。右の選択をすれば必ず幸せになるのに、どうしてわざわざ左の選択をするかなぁ、この主人公、と、まだ五、六歳児だったにもかかわらず、悲しく不愉快になるので、ワタクシはその時間は決まって外に遊びに行くことにしていたのだった。
 多分、その頃から“不幸に耐え忍ぶ純愛”みたいなものが嫌いだったのだ。
 まあ、ゆうべの火サスも、なんやかんやで刑務所に行く青年に、主人公が過去に侵した罪を詫び、そして青年も彼女に「待っていてください」と、あなたは自分にとってかけがえのない人だと語るラスト、で、最後はまあ、純愛ね、よかったよかった、なのかもしれないけど。
 いくら最後が幸せになったって、そこに至るまでに受けた心の傷は消えるわけじゃないのにさ。このままならぬ世の中、うたかたの夢として与えられる映画やドラマは、楽しくハッピーなものであって欲しいのよ。 
 それにしても、山場お決まりの“犯罪経緯説明シーン”で、元無期懲役の服役囚だった主人公の女性の個人情報が写真つきで簡単にパソコンに表示され、青年の個人情報、しかも戸籍謄本まで机の上に無造作においてあるような会社って、どういう会社やねん。つーか、何のために戸籍謄本まであったの?
 個人情報保護法が施行されたことも、そこの社長はご存じないとか? 経営者失格ね。
 うちの会社でさえ、ほとんどの不用になった紙がシュレッダー行きになってるって言うのにね。
 まあ、その荒さ、ユルさが“火サス”の醍醐味なのかしら?

電車男はオタクなの?

2005-07-09 | 映画・ドラマ
 先日見た、とはいいがたい、チャンネル変えつつぶちぶち見をしたテレビ版「電車男」。
 ワタクシはこの電車男というものに、ネットでも活字でも触れたことが全くなかったので、映画になっても、ドラマになってもそうたいして興味がなかった。
 電車男という人は若いオタクという設定のようだが、このテレビドラマの電車男君はそんなに嫌な感じのしない「オタク君」だったような気がする。
 彼の好きなアニメらしい、紙袋等に描かれていた絵が、目ン玉の顔面占有率がバッタ並みの美少女萌え系の絵柄とかではなく、新進気鋭の外国人アーティストがTシャツか何かにプリントしててもおかしくないような、ちょっとアートな「AKIHABARA」て感じの絵柄だったからだろうか?
 オタクというより、恋愛経験のない、根は優しいがちょこっとパワーのない、アニメが好きな普通の男の子、という感じだ。こんな子だったらどこにでも、いるよね。
 少なくともワタクシの中の「オタク」のイメージとは違っていた。
 ワタクシの持つ「オタク」のイメージは、確かによろしくない。
 だが特に「アニメファンだから」とか言うのではなく、混雑している電車内でも座席に堂々と同人誌やアニメグッズの入った紙袋を置き、オタク仲間とディープなアニメ談義に花を咲かしているヤツとか、冬休みの数日間の間に〇〇線完全乗車するんだ! と、電車に寝泊りし、もう五日間歯も磨かなけりゃ風呂にも入っていません。という匂いぷんぷんで、周りの人の「くさいっ!」という目も全く無視で反対車線に停車している電車の写真を取り巻くっているやつとか(随分例えがリアルね)、そういう「自己中心的に何かに没頭するあまり、周りを全く無視する輩」というのが、ワタクシの中の悪い「オタクイメージ」なのである。
 まあ、大きく言えば「常識のないやつ」=ワタクシの考える「オタク」なのである。
 なので、いくらアニメの紙袋を持っていようとも、常識やヒトサマとの接し方等をきちんとわきまえている人は、ワタクシの中では「オタク」とは呼ばないのである。
 そういったら、最近の世の中は「オタク」だらけだよね。男も女も、大人も子供も。
 昔は「オタク」なヤツを見かけたらむかついていたのに、このごろは「普通の人」を見てはじめてほっとする、ってな感じだものな。やな世の中になったもんだねぇ。
 まあ、それは置いておいて、テレビの電車男くんはそんなに嫌な感じの子ではないので、時間に余裕があったらまた見てもいいかな、といったところかな。
 しかし、あの「ちびノリダー」だった子が、もうあんなに大きくなったのねぇ。あの子が大きくなった分だけ、ワタクシも歳を重ねたという驚愕すべき事実。
 「いやっ、もうあんなに大きくなったん? 子供ってほんと、すぐに大きくなるもんやねぇ~」という「親戚のおばさん」的心境のワタクシなのである。 

真夜中の弥次喜多ワールド

2005-06-27 | 映画・ドラマ
 ……オイラ、リヤル(現実)がとんとわからねぇ。
 リアルとはなんなのか、現実とはなんなのか。生きているとはなんなのか、死ということはなんなのか。幻想とはなんなのか、その幻想を見ている人は、はたしてリアルなのか。
 随分遅れてやっと見に行けた「真夜中の弥次さん喜多さん」。
 最高に面白くて深くて、いい加減でシリアスにイカしてイカレた映画だった。
 女が米を研ぐOPから弥次喜多がお江戸を出て、バイクにまたがりお伊勢さんに向かうシーンまでのスピード感。映画タイトルがスクリーンに映ったときは久々に鳥肌が来た。
 これは絶対いける! そう確信するも、映画を見続ける間、前の席の二人のオバハンの「何でここで爆笑するの?」という笑いレセプター年齢差攻撃的笑い声に悩まされ続ける。
 スキップで爆笑し、笑い女たちのシーンで爆笑し、宿の風呂での下ネタシーンに大喜び。幻覚の旅籠で弥次さんの布団がどんどん奥の部屋に滑っていくシーンでさえ大笑いしていた。彼女たちにはあのシーンはコントの一場面にしか考えられなかったのだろう。
 だが物語がどんどん進み、喜多さんが弥次さんを殺してしまう辺りからオバハンたちの耳障りな笑い声は聞かれなくなった。実に喜ばしいことだった。
 あの世とこの世に引き裂かれた弥次さんと喜多さん。幻想ともリアルとも付かない世界で 互いに互いのことを求め合う二人。このあたりは原作のシュールさがよく表現されていたような気がするのだが、その分、好き嫌いがはっきりと出てくるところだろう。
 ラスト、三途の川から甦った弥次さんが、再び喜多さんとピンクの象に乗ってお伊勢さんに向かうシーン。そこでも、ぐっ、と鳥肌がきた。
 それは原作を読んだとき、ラストで受けた痺れと確かに似ていた。
 弥次さんは本当に甦ったのか。このラストも喜多さんの幻覚なのではないか。いや、もしかしたら喜多さんともっと一緒にお伊勢参りをしたいと願う、死する弥次さんの幻想ではないのか。これは誰の幻覚、それともリアル? 色不異空 空不異色 不生不滅 不垢不浄!
 そんなこと全部ひっくるめて、なんかすげえっ!! 見終わった後、脳がジンジン痺れてきてやがる。自分自身のリアルってものさえ、なんだかよくわからなくなってきやがった。
 役者という壁さえ蹴り崩して行くような主役二人の突き抜けた存在感がいい! 豪華でシュールで暴走する脇のキャストも素晴らしい! 特に魂役の荒川良々の、丑三つ時の悪夢のごときインパクトも特筆で賞賛したい!
 しかし、なんといっても、あの、しりあがり寿氏の傑作をここまで映像化できるスタッフは、この世広しといえど、そうはいない。そして疑いのない力量と才能を持った宮藤官九郎には、同世代として思いっきり賞賛の拍手を送りたいのである。
 この映画には確かにリアルと幻想、生と死が存在している。客受けを押さえた旬モノ映画なんかばっかり作る邦画に蹴りを入れる、超哲学的でシュールで熱い本格日本映画だ!! 
 ヤクより危険な日本映画、ここに誕生!
 泣ける映画でやわな愛に浸るより、この映画でDeepな愛を体感しやがれ、てやんでぃっ!!

ありがタイガーッ!

2005-06-25 | 映画・ドラマ
 タイガータイガーほっとしタイガーッ!
 昨夜最終回を迎えたタイガーアンドドラゴン。
 刑期を終え出所しても暖かい出迎えもなし。組長に就任した銀次にも、組に戻ることを受け入れられず、かといってどん兵衛師匠たちのところにも戻れず。それでも三年経ってそれぞれ変わっていた皆のことを伝え聞いては「よかった」と言う、水晶球のような透き通った心をまだ持っている小虎。
 それぞれの人に、小虎に対する思いがあって。小竜のどん兵衛襲名が直前になり、本当は物凄く帰ってきて欲しいのに、帰って来いと言えないどん兵衛。帰りたいけど暴力沙汰を起こした身の上、もう一度落語をやらせてくれとは言えない小虎。
 どん兵衛は自分の名を竜二アズ小竜に継がすから、という理由で小虎の名を名乗っていた。そんな師匠の高座を脇で見ながら涙を流す小虎。本当は二人とも、お互いを大事に大事に思っているのにお互いどうしても歩み寄れない。
 そんな二人にもう一度よりを戻させる(?)役をこなしたのが小竜。
 そこのところが今回のタイトル「子は鎹」に見事にリンクして、もう、嬉しくて、おかしくて、涙ぽろぽろもんでテレビに釘付けでしたわ。
 再開した小虎と竜二がサテンで話す場面。
 落語をもう一度始めることになかなか首を縦に振らない小虎に、自分が落語をやめていたとき、小虎がもう一度落語をやれやれとうるさくいった。そのときはウザイと思ったが、今、自分はあのときの小虎の気持ちがわかる。といい、席をたとうとしたとき、小竜の襲名披露でかけるはずの落語の一説を吟じはじめる小虎。
 刑務所の図書施設で落語の本をありったけ読み、それをどんどん憶えていた小虎。やはり落語がすきなのだ。そしてどん兵衛師匠のところに戻りたかったのだ。
 もう、このシーンでは泣けましたね。
 そしてお決まりのラスト、講座で一席披露する小虎。
 みんな、みんなが小虎の復帰を暖かく歓迎してくれた。組の仲間も、高座の仲間もみんなみんな声を合わせて。
 いやあ、ほんとよかったよかった安心しタイガーッ! よかったな、小虎っ!
 よかったといえば、とうとうウチの近所の小さな小さな映画館でも、クドカンの「真夜中の弥次さん喜多さん」を上映することになったそうだッ! 遠くの映画館でしかやってくれていなかったので、これはもう、DVD鑑賞まで待つしかないか、と思っていたのだが、映画自体が好評なのと、この「タイガーアンドドラゴン」の人気でこの腐れ田舎の映画館でも上映してくれることになったらしいッ!
 全くもって、あり難イガーッ! 早速、見に行きたいと思います! それではっ!

タイガーアンドどんぐり

2005-06-18 | 映画・ドラマ
 夕べの「タイガーアンドドラゴン」、なんだか急展開でハードになってしまった。小虎が敵対暴力団の組をぶっ潰した罪を一人で背負って警察に捕まっちゃうし……。
 おいっ、どうするんだよっ! みんなお前を心配してるんだぞっ! 小虎っ!
 不安な気持ちで来週の予告を見終わり、別チャンネルにまわしているとメン〇レで、馬鹿笑いをしている小虎アズ長瀬〇也を見る。その馬鹿っぽさにあきれながらも少し安心する。
 そうだよ、あれはドラマなんだから。心配したってしょうがない。小虎は物語の中の人間なんだから。
 でも、小虎には、辛い立場で、悲しいことヤナこといっぱい知ってる、でも心根のまっすぐな小虎には、幸せになってもらいたいんだよなぁ……。

 昨年の秋、駅の近くの広場でどんぐりの実を拾った。七、八個あったかな。
 そいつを家の勝手口のところの狭い地面に埋めてみた。ウチのスモールな庭にはやたらめったらいろんなものが植えてあり、しかも少し油断すると、母親が、やれ肥料だの植え替えだのと、地面をあれこれつつき回すので、危険の少ない場所といったら、その辺りしか残されていなかったのだ。
 雪が溶け、花が咲き、若葉がまぶしい頃を過ぎても、そこの地面は何の変化もない。
 お隣との境の、日もそんなに当たらないこんな場所だから、やっぱりダメだったのかな。
 冷たい地面の下に埋められた、命の息吹の感じられないどんぐりが、どこか自分の今の人生を象徴しているような気がしていた。
 見るのがなんだか辛くなる。ほとんど諦め、久しくその場所を見ることもしなくなっていた。
 だが、今朝、ガーガーと掃除機を駆使して部屋の掃除に励んでいると、庭に出ていた親からうれしい知らせが届く。
 慌てて一階の勝手口の所に行って見ると、しゅるん、とした、どこかメタリックな輝きを有した、ほそっこくて小さな植物の芽が顔を覗かしていた。
 全長二センチあまり、茎の太さ数ミリの小さな小さなどんぐりの新芽。脇にある雑草にさえめちゃめちゃ負けてる小ささだが、その存在感は不思議なことに、やはり草モノとは全く格が違う。
 そうさ、雑草の生命力だけをうらやましがってちゃなんねぇ。時がどんなにかかっても、どんな苦難があろうとも、いつか大地に根をおろし、空に向かって胸を張る、強く立派な大木に、いつかはなって見せるから。
 ワタクシもきっとシアワセになる。だから、小虎、お前も最終話には絶対幸せになるんだぞっ。
 ワタクシが埋めた種だって、こうやってちゃんと芽が出たんだから。
 ということで、このどんぐりの新芽の名前は「小虎」に決定したのだった。 

週遅れのデンジャラスビューティー

2005-06-05 | 映画・ドラマ
 昨日、ワタクシの好きな漫画家くぼたまことさんのHPにメールを送ったら、早速お返事を頂きました~っ!! 激嬉しい!! でもしまったっ、まだ今号のYGG読んでないっ! 今日、これから早速本屋に走りますっ! でも、ここ田舎だから、ひょっとしたら月曜じゃないと入荷してない可能性があるんだよな……。 

 さて、昨日は録画したままになっていた「デンジャラスビューティー」を観た。
 時間あまりついでに、久しぶりにペディキュアとマニキュアを塗りながら。
 サンドラ・ブロック演じる外見に気を遣わない、タフでちょいガサツなFBI女性捜査官が潜入捜査としてミスコンに出場するというあの映画。評判がよかったので、続編も今、公開中とかじゃなかったかしら?
 泣ける映画、とか、純愛とかラブロマンスと言う類の代物が大ッ嫌いなワタクシにとっては、こういう笑えてスカッとできる映画は実に映画らしいいい映画だ。多少の、設定や人物形成の無理は目を瞑れる器の広さも持ち合わせているのでな(えらそう)。
 と言うか、ワタクシはこういう、女がどんどん魅力的に、美しくなって行く映画、というのが実はかなりスキなのだ。オードリー・ヘップバーンの「マイフェアレディ」とか、ジュリア・ロバーツの「プリティ・ウーマン」とか。その亜流で言うならダスティン・ホフマン主演の「トッツィー」なんかも実は大大好きな映画だったりするし、「エリン・ブロコビッチ」も、無学、バツ有、子持ちで無職。しかも貯金ナシ、な女から、強く人間的にも尊敬される女になっていく、という点ではそういう流れに入る映画なので好きなのだが、こういう細かい話はまた、別の機会にでも。
 とにかく、磨かれて美しく、賢くなっていく女性。いいなぁ。
 まあ、もちろんその「磨かれる」役の女性はなんていったってスターなのだから、もともと綺麗なものを役の上で、野暮ったく品なく見せているだけなのは判っているのだが。
 それにしても、あの映画開始当初の女性捜査官役のサンドラが、あそこまで「美女」になれるのなら、ワタクシだってちょこっと努力すれば相当いいとこまでいけるんじゃないのかしら? などとマニキュアの指先を乾かしつつ思ってみたりもしたワタクシ。
 そんな強烈な妄想を抱く一方で、ワタクシが本当に、相当、のところまで行こうと思ったら、それこそFBIが総力を挙げて結集したプロジェクトチームか何かに頼らねば絶対に無理、だということも、きっちり自覚はしているのである。
 それに、ガサツなところは治らないだろうしな。……ああっ、よく見りゃ昨日塗ったマニキュアがもう剥げかかってきてるっ! えい、全く、がってむですわっ! 

僕らの世代のカタルシス

2005-04-08 | 映画・ドラマ
 先日、木更津キャッツアイの映画やってましたね。その中で「ゼブラーマン」のことがちょこっとだけ話題に出ていた。キャッツ……の方は見に行くタイミングを逸してしまったのだが、ゼブラーマンの方はなぜか見に行っていたワタクシ。
 まだ観られていない人にお勧めするために、一年ちょっと前のものですが、そのときの感動あふれる記録を載せます。

 昨夜、ようやく観に行って来ました。哀川翔主演映画百本目記念作品「ゼブラーマン」
 私はVシネマというものを見たことがないので、よく判らないのだが、Vシネというものが本来、ああいった映像の感触の物なのだろう。全国での映画館上映の映画とは思えないほど「金かかってないな」と感じるシーンも多々あり。ばかばかしいっちゃあ三ツ星並にバカバカしい映画だった。
 映画を見終わった後、館内を出て、ビルの階段を降りる時、前を歩いていた高校生くらいの男の子二人がなにやら、戸惑うような声でつぶやいていた。
 「どこで笑っていいのかわからなかった」
 多分この子たちはこの映画に対して、そして今まで「格好いい男」として見てきた主演の哀川翔氏に対して、どういう反応を示していいのか、判断がつかなかったのだ。
 教師役の翔さんは、ホントに格好悪い、冴えないおじさんだし、お手製のゼブラーマンスーツもここはコミケか、というような手作り感満載のシロモノだし、ストーリーはなんじゃコリャ、だし、哀川翔に、クドカンの脚本に、そして監督に、それぞれに何かを期待して観に来た人たちは、肩透かしを食ったのかもしれない。
 だが、この少年たちの言葉を聞いた瞬間、私は奇妙な優越感を確信した。
 この映画は、判る人にしか判らない。と。
 この映画を本当に「楽しい」と思って見ることができるのは、複数の隊員で戦う「戦隊物」以前の「由緒正しきヒーロー」を知っている人間たちだけなのではないのだろうか。
 ヒーローが飛び道具を使ったり、合体ロボで敵を倒すとかの話になる前の、裸一貫肉体勝負の主人公が戦うお話。ねちねちと複線を張ったり、現実的なことなんか何も心配ナッシングなヒーローたち。
 空を飛ぶ「練習」で、ボロボロになったゼブラーマンが凶悪宇宙人たちにボコボコにされて、そして初めて真のゼブラーマンの姿に変身する時のあのカタルシスは、子供の頃に受けた、ヒーローへの憧れと感動を思い出させてくれた。
 変身後のゼブラーマンの決め姿は胸がわくわくするほど格好いい。
 それはただの哀川翔ファンでは、理解できない格好よさだったのかもしれない。
 子供心にどきどきしてみた変身ヒーロー。そのヒーローに憧れ、そのヒーローになりきって、近所の墓地でやった「ライダーごっこ」。誰もがライダーになりきって、刈れた花の立てられた墓石の間を日が暮れるまで走りまわっていた。
 映画「ゼブラーマン」には、あの頃の、子供だった自分の夏の日がどこかに刻まれている。そんな思いを抱かせてくれる映画だった。物心がやっとつき始めた頃の、あの日、友達の家の(!)カラーテレビの前に座って見ていた胸の高鳴りを、ヒーローが勝った時の嬉しさを、そのまま思い出せる映画だった。
 そして、この映画の最も素晴らしいところは、見終わった後、深い想いに捕らわれてその映画を「もう一度みたい!」なんて思う事はまずないだろう、というところである。
 「あー観た観た」と、席を立つ人々。だが、私やその他、「戦隊物」以前の古きよき変身ヒーローを知っている昔の子供たちにとっては、日々の生活でちょっとづつ心に積もっていた現実の嫌な事まで、きれいさっぱり映画の内容と一緒に忘れ去らせてくれるというすばらしい効能を持つ映画だったのだ。
 その力量を評価するならば、間違いなく監督も、脚本も、主演も凄い! のである。
 「白と黒のエクスタシー」それは、昔、子供心にヒーローへの憧れを抱いた者たちでなければ感じる事のできない恍惚感だったのだ。
 その業績を決め台詞で祝福したい。
 白黒付けたぜ! ゼブラーマン!