朝131-55-71ゆう型122-52-75今七時半142-58-70昨夜十一時半に布団に入る、十二時過ぎに寝たと思う、目さますと七時半、飛び起きて母屋に行きお茶にスイッチ、牛乳飲み、バナナ、パンで朝食、目薬注して、薬飲み、新聞見て八時半にパソコン開き、天気予報、ニュース見て、九時半に身体痛くなり止める、横になる、十一時前に起きて、母屋に行き、お茶飲み、ハローズに弁当買いに行く、車降りると、左足裏浮腫んでいるから足裏痛く歩き難い、手押し車押して買い物して、十二時前に帰る、昼飯食べだす、十二時二十分に終わる、薬飲み、お茶飲んで保険屋一時頃来ると言って居たので待っていた、一時過ぎに来る、私の保険の受取人を正身から孝憲に変える、保険屋余命四十日と言われると出るお金も受け取り人にするのですかと聞くので葬式全部任しているからすると返事した、一時半に帰る、二時前に久保に出かける、二時二十分に呼ばれ歯の治療受ける、月に一回八十、二十を目指して歯医者に通っている、今は歯磨きしないから歯がちびないで二十五ある、三時前に終わる、三時に帰り、お茶飲み、風呂に湯入れる、三時半に入る、四時過ぎに出る、体重七十四キロ、晩飯食べだす、四時半に終わる、目薬注して、湿布薬貼り、薬飲み、五時過ぎにパソコン開き、天気予報、ニュース、野球など見て七時半に今日の日記書き出す。朝十時頃市役所の文化振興課から電話あり、太平洋戦争の思い出に応募したのが来年本になります、年幾つですかと聞かれたので五十と一寸と言ったら生年月日尋ねられる、正直に答えたが、後から紀元二千六百何十年と言っとけばヨカッタト思った、電話切ってからそうだ昭和二十一年の爆弾事故で六人死亡、六人怪我したのを載せて下さい、綿屋の歴史に書いて居ますからとお願いした。関谷の人達も昭和二十一年の大事故などとっくに忘れて居る事だ。