月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

137. 灯篭あれこれ(月刊「祭」2019.7月18号)

2019-07-21 22:06:40 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
神社に行くと必ずといっていいほど目にするのが、灯籠です。その灯篭もよく見ると面白いことがわかってきます。

●播州と京都の灯籠比較
写真は上が京都市、下が播州のものです。

↑京都市熊野神社


↑加西市山田町

京都市のものは全てが四角く開いていますが、播州のものは両横が月と太陽の形に穴が開けられています。例外はありますが、京都市のものはフルオープン型がやや多く、播州のものは日月のものが多いです。
しかし、例外はあると前述したように、京都市内はフルオープンのものがほとんどだと思いかけた時にたくさん日月型のものを見ました。とはいえ、やはり、播州より日月の割合が少なく、フルオープン型のものが多いようです。

●佳き日に灯籠を
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上の写真は農村歌舞伎舞台(1)で有名な神戸市北区上谷上天満宮(2)です。
この灯篭には天保十五年甲辰六月廿五日とあります。六月廿五日というのは、大阪天満宮などでは祭礼日となっています。上谷上天満宮も現行の祭が七月二十五日になっているので。旧暦はこの日に祭礼が行われていたと思われます。



同様の例として、文政年間の六月吉日となっていますが、岩屋神社にも残っています。旧歴の六月はおしゃたか舟神事が行われていた日であり、祭礼に合わせて灯篭を寄進したと思われます。







136. 岩屋神社の海と山、それぞれの神輿と太鼓(月刊「祭」2019.7月17号)

2019-07-21 14:01:51 | 屋台・だんじり・神輿-組織、祭全体、社会との関わり-
●岩屋神社の鎮座伝承
伝承はおおよそ以下の通りです。
岩屋神社は成務天皇の時代に勅命で淡路の岩屋より祭神が明石市の現在の岩屋神社に移されることになりました。
その時に浜の六人衆(前浜六人衆)が新舟をつくり、淡路まで行き祭神六柱を移して戻ってきました。ですが、波が荒く上陸できません。そこで西側の松江海岸の「赤石(明石の起源の岩)」にて一夜を過ごしました。その時の神饌は岩屋神社ホームページによると、特殊神饌と言われ、ハマチなどの出世魚・精白した麦にハッタイ粉をまぶしたもの・ヤマモモ・白酒の往古の当地の産物であり、現在も宵宮にお供えされているそうです。

●おしやたか舟神事

神輿に神を移すように舟に神を移します。

移された舟に乗る神を先導するのは太鼓です。


海に着くと青年たちが舟を投げ入れ、飛び込みます。




沖まで舟とともに泳いだ後、漁船に引き上げられ江井ヶ島の住吉神社の方までいくという話を聞きました。かつては、淡路の岩屋までいっていたそうです。

これは、神の鎮座を表した儀式と言えるでしょう。海の神輿と太鼓は海の渡御にも対応できる少し小ぶりなものでした。

●秋の神輿と太鼓
秋祭は神輿が神戸市の高津橋なども含む内陸地まで巡行します。櫓太鼓と呼ばれる太鼓も明治期には十数台あったそうです。その太鼓が先導したり神輿のお供をしていたかについては今のところ管理人は分かっていません。
今の布団太鼓は昭和30年代に神戸市東灘区の敏馬神社から購入したものだそうです。この当時の東灘区の太鼓が残っているのは興味深いと言えるでしょう。
この祭は、夏に海から来訪した神が山側に御幸される秋の祭と言えるでしょう。
平成二十八年より布団太鼓が再び担がれるようになり、祭は活性化しています。




●夏の来訪、秋の御幸
岩屋神社の祭は、夏に神が来訪し、秋に氏子域内を回るといった図式の祭でした。来訪した神を祭る神社では類似した例があるかもしれません。



135. 大阪市東部の行者(月刊「祭」2019.7月16号)

2019-07-21 07:21:09 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
●だんじり探訪で気づくこと
夏は大阪のだんじりシーズンということで、今年は平野区の杭全神社、城東区のだんじりを見てきました。その中で目についたのが、下の写真のようなものです。

平野区三十三歩神社(杭全神社の御旅所)近く


今福南皇大神宮横行者尊


若宮八幡大神宮横蒲生行者堂

いずれも役行者が祀られています。
三十三歩神社は立ち入りができませんでした。で皇大神宮横と八幡大神宮横のものは、不動明王のお姿を見ることはできましたが、役行者の姿は扉が締めてあり、見ることは出来ません。
この地域では役行者が大切に祀られているようです。

●行者が大切にされる背景
なぜ、見たデータは僅か三例ですが、皇大神宮、八幡大神宮横の行者堂はともに地下鉄蒲生四丁目付近にあります。なぜ役行者がこの地域にいるのでしょうか。
その答えと思われるのが、八幡大神宮横の案内板に書いてありました。蒲生行者講と呼ばれる講がこの地域にはあったようです。大峰山護持院にも蒲生行者講の名が刻まれているようです。板によると三百年の歴史を持つと言います。このような講のまとまりが広がって今のだんじりにつながったといえば、言いすぎでしょうか?