●御神火夜話
●御神火夜話
↑神拝式の題字
』
●「ノーモア」で何を思い浮かべますか?
きっとノーモアウォー、ノーモアヒロシマナガサキ、ノーモアヒバクシャと思い浮かべるでしょう。
管理人もそうですし、もちろん、お国(=既得権益者)のためになんとやらなぞの百億倍以上大切な言葉だとも思ってます。
しかし、これら以外にも「ノーモア」をつけるべきものがあることに、またまたパソコンの写真整理中にみつけました。2010年の写真を見ていきましょう。
●岐阜県の宝蔵寺のノーモア
意外な「ノーモア」は、岐阜県の宝蔵寺にありました。
左側の女性的な石像は観音様でしょうか。
その右側に「祈る ノーモア ○○○○○○」とありますが、あえて伏せます。
中にはこのような展示もあったみたいですが、もう記憶にはありません。
不動明王もいました。
実は、関ヶ原の寺院です。
書かれていたのは、「ノーモア 関ヶ原合戦」でした。
●「ノーモア 関ヶ原の合戦」
この合戦以来、我が国は国を二分するようなことは起きていません。
当たり前のようにかんじている、国内を自由に行き来出来る幸せを大切にしたいものです。
こちらの記事 (goo.ne.jp)や、管理人が撮った上の不動明王の建物である慰霊堂の解説によると昭和39年9月(文章を見ると旧暦の可能性もあります)、東京オリンピックの年に創建されたもののようです。
9月が新暦ならばオリンピックの直前、旧暦ならば真っ最中の創建と言う可能性もあります。その年、時期にあわせて、日本の復活の象徴としたのかもしれません。
希望に満ちたかの時に、ノーモアヒロシマ、ノーモアウォーなどとともにノーモア関ヶ原をねがって安置されたお不動さん。オリンピックアゲインを隠れ蓑に、ウォーアゲイン、格差アゲインをももくろむ人たちをかのお不動さんは、どのような目でみているのでしょうか。
屋台で十二支が好まれるのはこの記事でも触れました。
子
●スマホの写真を整理しないと。。。。
管理人が学生の頃は、36枚撮りの写るんですが1000円ほどするわ、現像にもお金がかかるわで、とる写真を厳選しなければなりませんでした。なので、比較的記憶にも残りやすく、整理が遅れても、どこの場所かをおもいだすことができました。
現在はスマホの普及で、写真をパシャパシャ手軽に取れるようになりました。しかし、整理しなければ膨大な量でどこの何の写真かが分からなくなります。スマホにある時は地図と連動しているので何の写真かを調べる手がかりになるのですが、パソコンに保存したものだと地図情報が分かりません。(実は分かるのかもしれませんが、管理人は知りません)。
こんな時代の中で管理人にもワケワカメな3年ほど前の真が出てきました。それが下の二枚です。
↑奉納された古代米と狛犬が写っています。馬の銅像が右後ろに。
↑こちらは奉納されたゴボウ。右側に破魔矢が写っているのでどこかの神社であることが分かります。
●日付から調べる
まずは、多くの人がするであろう、日付から調べるという行為をしました。幸いパソコンに移動しても撮影日の情報は残っていて、プロパティで調べると、2018年1月4日でした。
「そういえば、この二枚の写真のすぐ前は神戸市須磨区妙法寺の鬼追いの写真だった。」
こんなことを考えて、早合点、妙法寺の近くの神社に違いないと、「神戸市、須磨区、妙法寺」でグーグルマップで検索しました。出てきたのは八幡神社、五社神社ですが、上の写真に近いものは出てきませんでした。。
・あれ、妙法寺の鬼追いは1月3日
よくよく見ると妙法寺の鬼追いは1月3日でした。ということは、1月4日に撮ったこの写真は別の物。。。。この記事をかきはじめたときの計画では、妙法寺付近の〇〇神社という結論を期待したのですが違いました。
ということで写真からもう一度考えてみることに。
ごぼうと赤米を奉納しています。「ゴボウ、米、正月、奉納、神戸」で調べてみました。しかしよくよく考えると、1月3日は神戸市の妙法寺に行ったのですが、次の日は神戸に行ったのかどうかもわかりません。期待したような答えは出ませんでした。
●奉納者の地名
ゴボウと古代米を奉納された方の住んでいる地域が書いてありました。「南僧尾」、「中山」ググったら出ると思いますが、これは神戸市北区淡河の地名です。おそらく、淡河八幡神社の氏子だとおもい検索すると、同じ馬の銅像がうつった写真がヒットしました。二枚の写真は淡河八幡神社の正月(2018年1月4日)の様子だということがわかりました。
●編集後記の代わりに
-間違いからの思わぬ発見-
間違えて妙法寺付近のことを調べたけど、期待した答えは出ませんでした。だからしっかり、写真の整理をしましょうよと言いたかったのですが、実は、調べる中で面白いものをみつけてしまいました。近いうちにこれらのことを書いてみたいと思います。
「無駄骨をおることになるから整理しましょう」というのは、半分あっています。
が、思わぬ発見に出くわすのは、このような間違いからであることが多いのも経験上分かってきました。
管理人が三木市吉川町若宮神社御先だんじり(屋台)の調査を依頼されたときに、祭とは関係ない周辺事項の調査(要するにオマケ)として提出したものをもとにして、この記事を作成しました。なお、日原大工の作品が加西市のどこにあるかは、全て、よかわ歴史サークル「吉川町の歴史 吉川の宮大工(日原大工)』から知りました。
加西市上万願寺の東光寺と、三木市吉川の東光寺の二つの東光寺がこの記事では出てきますが、ここでは(加西市)東光寺、(吉川)東光寺と区別をつけることにします。
●日原大工
三木市吉川町大沢を拠点に活動していた宮大工です。江戸時代の作品が三木市内だけでなく、近畿一帯に残っています。また、大沢は若宮神社の筆頭座ともいわれる大澤座の拠点です。日原大工の末裔の方にお話しをお伺いしたところ、宮座には入っていなかったそうですが、地元の若宮神社の楼門を作るなど、若宮神社の祭にも何らかの影響力を有していたと思われますが、管理人の調査では分かりませんでした。
●吉川近隣の日原大工の作品
新しいもので18世紀で、19世紀のものは市内では見つけることが出来ませんでした。管理人が見いだした傾向では、欄干の擬宝珠に時代ごとに特徴がありました。ざっくり言うと、時代が古いほど葱の花のがくのようなものがついており、時代が下るほどがくのような物はなく、金具がついたものが多くなっています。
A(吉川)東光寺鐘楼堂 藤原朝臣日原左衛門尉光政 享保3年(1718)
B 淡河八幡神社本殿 棟梁大沢日原武兵衛 宝暦2年(1752)
●加西市の日原性の大工の作品
(加西市)東光寺本堂 文化十一年(1814)、若一神社拝殿 天保十五年(1844)、下万願寺町八幡神社覆屋 安政四年(1857)、磯崎神社天保六年(1835)、千山寺本堂 文化四年(1807)と、加西市内で日原の名字をもつ建物は19世紀以降のものに限られていました。では、その作品はどのような特徴があるのでしょうか。
A 欄干
(加西市)東光寺本堂 文化十一年(1814)
下万願寺町八幡神社覆屋 安政四年(1857)
千山寺本堂 文化四年(1807)
上記の欄干を見ると、三木市内の18世紀までの丸い柱ではなく、四角柱の柱に角ばった擬宝珠が削り出されているという特徴がありました。
B 彫刻
そして、日原性の大工の作品かどうかは分からないのですが、同じ境内の別の建物は下のような彫刻のある建物が見られました。
千山寺
磯前神社随神門
編集後記
日原大工そのものについて知りたければ、現・三木市文化財保護審議委員会委員を務めていらっしゃる藤田均氏らを中心とする よかわ歴史サークル「吉川町の歴史 吉川の宮大工(日原大工)』2014 をご覧ください。三木市立図書館の吉川分館で見ることが出来ます。