●京都神明神社の鵺退治伝承
京都市の神明神社には鵺退治伝承が残っています。
●神明神社に伝わる鵺退治伝承
おおよそ以下のような内容です。
「神明神社は、平安末期に近衛天皇もしばしば皇居とした、藤原忠道の屋敷跡であるといわれている。この神社は邸内の鎮守の守であり、天照大神を祭神としています。
近衛帝の時代、清涼殿に毎夜怪物が現れ、その声に幼い近衛帝は悩まされていました。得体の知れない怪物退治に白羽の矢が立ったのは源頼政でした。源頼政は神明神社に祈り、無事に鵺をしとめます。
そのお礼に水破、漂破の「やじり」を奉納しました。」
●史実と伝承
さて、伝承によると神明神社の地は藤原忠通(1097〜1164)の邸宅であったと言います。ですが、角田文衛「平安京提要」(角川書店)1994によると、忠通の屋敷は四条通りの北にあったそうです。
一方神明神社の場所は同じく角田文衛「平安京提要」(角川書店)1994によると、菅原道真と同時代の藤原忠平の邸宅だったそうです。
●忠平邸がなぜ忠通邸として語られるようになったのか
考えられるのは、二人とも藤原氏の氏の長者であったことです。
そして、二つ目は藤原「忠」道という名前と、藤原「忠」平の名前が共に、「忠」の字を使い似ていることです。
三つ目は、忠道が「法性寺殿」と呼ばれ、忠平は「法性寺の創始者」であることから、忠道と忠平が混同されやすかったのではないでしょうか。
神明神社の伝承が記されるのがたくさんあるのは江戸時代の京都の地誌などです。このころは、鵺の絵もまた浮世絵などで描かれていました。そのような鵺が盛んに語られた時代背景をもとに、忠平の邸宅跡の神明神社が忠通の邸宅跡の神明神社となり、鵺伝説が語られたのかも知れません。
京都市の神明神社には鵺退治伝承が残っています。
●神明神社に伝わる鵺退治伝承
おおよそ以下のような内容です。
「神明神社は、平安末期に近衛天皇もしばしば皇居とした、藤原忠道の屋敷跡であるといわれている。この神社は邸内の鎮守の守であり、天照大神を祭神としています。
近衛帝の時代、清涼殿に毎夜怪物が現れ、その声に幼い近衛帝は悩まされていました。得体の知れない怪物退治に白羽の矢が立ったのは源頼政でした。源頼政は神明神社に祈り、無事に鵺をしとめます。
そのお礼に水破、漂破の「やじり」を奉納しました。」
●史実と伝承
さて、伝承によると神明神社の地は藤原忠通(1097〜1164)の邸宅であったと言います。ですが、角田文衛「平安京提要」(角川書店)1994によると、忠通の屋敷は四条通りの北にあったそうです。
一方神明神社の場所は同じく角田文衛「平安京提要」(角川書店)1994によると、菅原道真と同時代の藤原忠平の邸宅だったそうです。
●忠平邸がなぜ忠通邸として語られるようになったのか
考えられるのは、二人とも藤原氏の氏の長者であったことです。
そして、二つ目は藤原「忠」道という名前と、藤原「忠」平の名前が共に、「忠」の字を使い似ていることです。
三つ目は、忠道が「法性寺殿」と呼ばれ、忠平は「法性寺の創始者」であることから、忠道と忠平が混同されやすかったのではないでしょうか。
神明神社の伝承が記されるのがたくさんあるのは江戸時代の京都の地誌などです。このころは、鵺の絵もまた浮世絵などで描かれていました。そのような鵺が盛んに語られた時代背景をもとに、忠平の邸宅跡の神明神社が忠通の邸宅跡の神明神社となり、鵺伝説が語られたのかも知れません。