月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

127. 貝塚太鼓台屋根考(月刊「祭」2019.7月8号)

2019-07-13 11:34:15 | 屋台・だんじり・神輿-その他伝承、歴史-


●夏の祭
大阪や堺では地車や布団太鼓が出る祭は秋だけでなく、夏にもあります。そして、布団太鼓、屋台や地車が活発に動いていた幕末には、その庶民文化の中心地となったこともあり、優れた彫師を多数輩出した地域でもあります。

●貝塚市感田神社の夏祭の太鼓台
感田神社は浄土宗本願寺派願泉寺の寺内町の現社地に、南部の海塚村の牛頭天王、菅原道真を勧請し、天照大神を中心として三柱の神として祀ったと伝わっています。管理は境内に寺院があった天台宗の宗福寺の僧がおこなっていたそうです。17世紀には社殿ができており、文化時代に社殿がやけ、翌年再建されたそうです。つまり、江戸時代には感田神社の姿は現れており、このころあたりに太鼓台が動き出したと思われます。
18世紀の記録ではだんじりが出たという記録があり、これが貝塚の太鼓台の始まりと考える人もいます。一方で、記憶は定かではないのですが、根来寺と関連して寺内の門徒がはしごをかついではやし立てた?という類の伝承ものこっており、それが始めと伝わったりしもしています。
また、感田神社の太鼓台は差し上げを行いません。大阪市大阪天満宮の催し太鼓が差し上げをしなかったり、姫路市で記録上の最古級のもなである松原八幡神社の木場屋台が、村練りの時は差し上げないことを考えると、感田神社の太鼓台もかなり古くからあるものと思われます。


↑宮の前では差し上げなしで、儀式を執り行います

●感田神社の太鼓台の屋根
・まら
屋根の上についている二本の棒は「まら」と呼ばれています。「まら」は男根を意味しますが、二本あるのは、蛇の男根が二本あること(後述吉野氏の著作)と、感田神社の祭神に素戔嗚尊がおりオロチ・大蛇を退治した祭神であること、感田神社の中央の祭神は天照大神ですが、日程的には祇園祭の日程であり素戔嗚尊の祭の意味合いが強いことを考えると納得がいきます。



・伊勢神宮外宮刺車紋との類似
尾関明氏は「新居浜太鼓台」において興味深い指摘をされました。尾関氏が参考にしたのは吉野裕子「陰陽五行思想と日本の祭」(人文書院)1978(ただしリンク先は2000年再版のもの)です。その指摘によると、伊勢神宮外宮の刺車紋と似ているとのことです。そして、吉野氏は先述の著作において、伊勢神宮内宮が不動の北極星・天皇をさすのに対し、刺車紋を擁する外宮は北斗七星を指すとしています。
また、北斗七星の柄杓に水を入れ内宮に供物を捧げるのを意味すると思われる儀式が十一月や二月、九月に行われていると書いてあった「はず」です。ただ、伊勢神宮外宮と内宮の儀式は秘儀であり、こらが北斗七星と北極星を即いみするものであると当時の貝塚の人たちがしっていたかどうかはわかりません。

・(考察?妄言?)なぜ伊勢神宮刺車紋と類似したものを持ち出したのか

感田神社は天台宗の宗福寺が管理していました。比叡山延暦寺のお膝元である日吉大社は北斗七星と習合した七神をまつっていました。ただ、伊勢神宮外宮や刺車紋が北斗七星を意味すると当時の貝塚の民衆や為政者が考えていたかどうかはわかりません。

↑滋賀県大津市日吉大社東本宮
しかし、江戸時代の貝塚は幕府直轄地・天領となっており、当時の天台宗は、幕府が南光坊天海ら天台僧を使って、各地に「東」照宮を建立し、皇祖神天照大神と幕府将軍の同一化とも言える宗教政策が行われていました。そこで、祇園祭という素戔嗚尊を祭る日に外宮を思わせる太鼓台を出すことで、天照大神と武神である素戔嗚尊を同一化させ、それは、武家政権である徳川家と皇統を同一化させる意味があったのかもしれません。