本当なら(ToT)祭の前日、そして一日目
今日(2020.10.09)は本当なら、祭の前日でした。一年で一番明日が待ち遠しい日です。今年は残念ながら屋台の運行はなし。寂しい限りですが、思い出されるのは、今までの祭一日目のことです。そのエピソードを今回は紹介します(書き終わり2020.10.10)。
●管理人保育園の頃
昭和五十七年(1982)
兵庫県三木市大宮八幡宮氏子圏内の明石町屋台五か町の一つ、大日町在住の管理人が通っていた羽場保育園。ここは元々明石町だったけど昭和二十九年に栄町となったところ。
通っている子どもも栄町の子が多く、明石町の管理人は少し肩身が狭かったです。祭当日、なんと台車運行中の栄町屋台が保育園の門前まで来ました。しかも欄干には同じさくらんぼ組のK君が乗っています。K君は一躍ヒーロー、保育園の子どもたちの歓声に見送られ、堂々と去りゆく栄町屋台とK君。悔しいけどかっこいいと思ってしまいました。
↑「羽場保育園」の名前の元になった羽場月輪寺
↑栄町屋台(1990年頃)
●小学生の頃
昭和五十九年-平成二年(1984-1990)
昭和六十一年(1986)?
この年かどうかは定かではありません。
この当時は祭はまだ、固定日の十月十六、十七の両日に行われていました。大宮八幡氏子域の子どもが最も多く通う三樹小学校は、十六日は2時間、十七日は1時間授業でした*(3時間、2時間かも知れません。ナメラ小僧氏、管理人[hol_my_ow]の本記事コメント欄参照)。
そして、迎えたその年の十六日。なんと晴れた空の下、大雨警報が発令。発令したまま十時を過ぎると休校が決定。1分ごとに天気予報ダイヤルを回して、警報発令中を確認。そして、晴れて?、警報発令のまま10時をすぎました。歓声とともに法被を着て、明石町屋台のもとへ走りました😃
昭和六十二年(1987)
管理人小学四年生の頃。祭の日は十六日2時間、十七日1時間の授業。そして、この二日間は宿題なし。しかし、その前日はしっかりあるのですが、、、後に某祭ブログのボンクラ管理人になるボンクラ小学四年生は、浮かれに浮かれて宿題も手につかず、見事に漢字ドリルの書取りをしないまま登校。出すもんしっかり出してから帰れという、教師としては至極真っ当、当時のボンクラ小学四年生から見れば鬼の借金取りのように見えた担任のO先生に、居残り宿題を命じられ半ベソかいて帰りました。
平成元年(1989)
小学五年生、六年生の男子はおみこっさん(御神輿)を担ぐ年です。おみこっさんを担ぐ=屋台の近くに行くことができなくなります。しかもその年は四年に一回の「平田まわり」。
「オミコッサンドイ、ヨーサンドイ(正確には(オミコッサンジョイ、チョーサンジョイ?)」の掛け声にも飽きてきます。そうなると「オミコッサンドイ、オッサンナンドイ」の掛け声があちこちであがります。
それでも飽きてきて、いつの間にかリズミカルに「おっとこ、おっとこ」と無駄に男らしさをアピールする掛け声になっていました。
神事が終わり法被に着替え、屋台のそばに寄れたのは宮出からでした。
●中高生の頃
平成二年(1990)-平成八年(1996)
↑管理人姉撮影か 1992年頃
平成四年(1992)
おそらくこれも一日目のことだったと思います。中学生は今も明石町屋台を担ぐことはできません。当時から三木中学校でも祭で屋台を担がないようにとの指導がなされていました。
この指導に従わないのは、専ら「ヤンキー」と呼ばれる類に入る生徒たちでした。担いでいる時の怪我もさることながら、その後の飲酒喫煙→けんかなどへの流れを心配してのことだと思われます。
そして、他にも指導に従わない生徒たちが。比較的「大人しい」部類に入る大宮八幡宮氏子域の生徒、三樹小学校出身の生徒たちです。祭終わった次の日から、あと三百六十四日で祭やーと小学生みたいなことを恥ずかしげもなく言っている明石町の生徒達。。。
中学三年生のころに、どなたかのはからいで、落としても安全な屋台の中棒中心近くを担がせていただくことに。末広橋近くにさしかかり屋台を落とした時に、「山田、●●、△△....」と、一緒に担ぐ同級生の名前を確認する女性の声が聞こえてきました。
声の方を見ると、三木中学校の三年生の先生方。「あちゃー、バレた」と思ったのですが、先生方は何も言わずに去って行きました。後で特に咎められることもなく、無罪放免。いや、無罪放免というよりも、「この人たちは馬鹿だから仕方ない」と諦められたという方が正確かもしれません。。。
平成六年(1993)
高校生になると晴れて屋台を担げるようになります。とはいうものの、初心者、同級生たちとらともに、屋台の本体近くを担いでいました。宮出で石段を降り、町に出て、再び石段下の屋台倉に戻るために、屋台は参道入り口の鳥居にさしかかります。鳥居をくぐるために肩から屋台を下ろし両手で胸に棒を寄せて低く担ぐ「手舁き」で屋台を担ぎます。そして鳥居をくぐり終わるや否や、昂った後の某祭ブログボンクラ管理人は、誰よりも先に「肩入れろー」と叫びました。
バンッ。
「誰が肩入れるんどい、(危ないやろっ)まだ手舁きやがいっ」
すぐ側で、「棒乗り」をしていた青年団長にハタキ・打ち払いのビニール紐部分で頭をはたかれ、めちゃくちゃ怒られました😭
鳥居をくぐったすぐは、両端に玉垣があり一気に肩に入れることで屋台を揺らすには危険をともないます。また、かつぎ棒が完全に鳥居をくぐりきらなければ、かつぎ手が鳥居に挟まれる危険もあります。
次の日、頭をはたいた団長さんは、千円札をくれ、
「昨日はすまんかったな。来年から青年入るんやろ、これでなんか食い」
とおごってくれました。
平成七年(1995)
高校三年生、部活も終わった後のボンクラ祭ブログ管理人は4人の同級生ともに、明石町青年団に入団。野球部で腕の力が強かったこともあり、技術はなくとも音が大きくなった彼は、運良く一日目の宮入の太鼓打ち4人のうちの1人になります(決して謙遜ではなく、後に同級生や後輩達にごぼう抜きされるので客観的な事実)。
倉の中の練習ではあれだけ大きく聴こえた太鼓が、外ではポンポンポンペポンくらいにしか鳴りません。後の某祭ブログボンクラ管理人がポンポンポンペポンと打つ中、先輩が「◯◯サイタやー」と青年団二年先輩の◯◯君に差し上げの太鼓を打つように指令。某ボンクラ管理人は、慌てて太鼓を止めました。が、◯◯君もまだ太鼓を打つ準備はできていませんでした。一定のリズムで鳴っていた太鼓は壊れた機械のように突然止まりました。
その途端、ドターン。屋台は見事に落ちました。担ぎ手は太鼓の音は聞いているようで聞いていない。聞いていないようで聞いている。その際たるものを実感させられました。この出来事から、青年団はじめの年に、屋台の宮入に太鼓を打たせることは一気に少なくなっていったように思います。
編集後記
祭のない今年、一日目の思い出を本当は今までのものを全て書く予定でしたが、思いの外、よく考えりゃ当たり前ですが長くなったので、とりあえず高校生までのものを書いてみました。
来年こそは祭ができることを祈って、今から宮参りに行ってきます。(令和二年十月十日、大宮八幡宮秋季例大祭の朝)