月刊「祭」

旧・言葉の装い
同行二人

月刊「祭」2018目次

2018-12-31 22:51:37 | 各年、目次

誤りの訂正
 本ブログ親ページ祭と民俗の旅播州三木(兵庫県三木市)美坂神社東這田屋台-篠山、淡路、姫路、富山の融合。太鼓台としての屋台-に誤りがありました。水引幕を鳳凰船に乗った神功皇后の三韓征伐としていましたが、誤りでした。東這田屋台関係者の皆さまを始め、間違えた情報の掲載大変失礼いたしました。

はじめに
 本ブログおよび、「祭と民俗の旅」の文章・写真などの引用、参考は自由です。ただし、このブログに提供していただいた写真は、明記しておりますので、それの引用はご遠慮願います。また、引用、参考の際は、月刊「祭」を引用、参考した旨のご明記をお願いいたします。 写真や図とその解説は、画面を最大限に広げた時に一致するように作っていますので、できるだけ広い画面でご覧ください。

 이불럭과 「祭と民俗の旅」의 문장, 사진을 인용,참고하기는 자유입니다.  하지만, 이불럭에 제공주신 사진도 있어서 그런 것을 명기하니까, 인용하기을 삼가 바랍니다. 인용,참고할 때는, 이불럭을 인용,참고헀다기를 명기해 주십시오. 
  
img1.gif  「祭と民俗の旅」-目次  
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84.三木祭三宝(月刊「祭」2018.11)

2018-10-08 23:09:59 | 屋台、だんじり、太鼓台関連
三木の屋台を担ぐ祭で、なくてはならない三宝をあげます。

一 ボウバナ
ボウバナと言うと、播州の祭では大きくふたつに分かれます。ひとつは、棒の先端で綱を持ち舵取りをする人です。多くが、青年団や保存会、屋台係など祭関係者が務め、手袋や法被、鉢巻などで一般かき手と区別をつけます。分かりやすい指示や屋台の動きを理解した上での舵取りが、屋台の落ちる落ちないの命運を分けます。
そして、三木のように中棒(本棒)と外棒(脇棒)が長く、幅の広い屋台の場合、もう一つのボウバナ=先端部分、後端部分の担ぎ手が大きな大きなカギを握ります。屋台が傾き今にも落ちそうな時、強い担ぎ手がその先端に入ると、一気に屋台が上がります。ここは、役職関係なく、力強い助っ人の見せ場となることが多くあります。


一 太鼓打ち
聞いているようで聞いていない。聞いていないようで聞いている。それが屋台の祭の太鼓です。三木の多くの祭ではアヨイヤサーの掛け声をドンドンドンデドンのリズムに合わせて担ぎます。この簡単なリズムを、正確に担ぎ手の士気を鼓舞したり、落ち着かせたりできる太鼓が「いい太鼓」と言えるでしょう。
簡単なリズムだけど、正確に打つのは本当に難しく、「いい太鼓」を打つのは努力と才能の賜物となります。
しっかりできていても、気づいてもらうことは少ない上に、できていなかったら、屋台の運行に支障が出ます。
管理人の下手な太鼓に変わった途端に、屋台が傾いたり、落ちたりした経験があります(ToT)


一 若者、そして青年団長
このような、祭の貴重な担い手は、やはり、若い人たちであり、それを束ねるのが青年団長です。三木の大宮八幡宮は、三木城主別所氏の鎮守の社だったと伝わっております。三木城落城後の君主中川秀政は、社殿を修復しその記念として今の秋祭が始まったと言います。
中川氏や歴代の三木の君主が、祭をする上で讃えなければならなかったと思われるのが、かの若き青年城主・別所長治公です。大宮八幡宮の祭で青年団長を見るたび、かつてのちょつぴりお人好しな悲劇の若き名君は、こんなかんじの方だったのかもしれないと思ってしまいます。
このような歴史を持つ三木だからこそ、これからも団長を中心にまとまる祭であってほしいものです。





●編集後記にかわって三宝を支えるもの
このような三木祭三宝を支えるのが、周囲の家族や友人、そして、かつて若かった人たちであるといえます。
この記事を書こうと思い立ったのは、明石町や下町のボウバナを担ぐ若い「友達」でした^_^ H君、M君、S君ホンマにありがとう。

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83.おっさんの腹を据えた祭(月刊「祭」2018.10)

2018-09-29 11:46:14 | 屋台、だんじり、太鼓台関連
祭を迎えて、常々思っていること、というか自己批判を今号では書きます。

祭を通して地域や小学生時代の同級生たちとさらに仲良くなるというのは、本ページの読者の多くが経験していることでしょう。管理人もその一人であるし、熱い思いはそれなりに持っているつもりです。
その熱い思いが高じて、「命かけて」とか、「死んだらその時や」などという言葉をつかって祭に臨みます。だけど、本当に「命」はかけられるのでしょうか?「命」は失くしたら取り返しがつかないだけで、「その時」だけですまない一生の「後悔」になります。上のような勢いで突っ走ることが許されるのは青年の特権であり、我々おっさんは、その思いをかなえつつ、いかにそのリスクをなくしていくか、軽減するかに心を砕くべきです。

もう一つ、「腹据えて」という言葉。「腹を据える」のをめんどくさいから何もしない言い訳にするべきではありません。本当の意味で「腹が据わる」のはリスクを想定して、そのリスクを回避する手を打って初めて「腹が据」わります。「腹据える」ために必要なのは、ありもしない「捕まる覚悟」を語ったり、安全対策もしない「死んだらその時や」という安っぽい言葉ではありません。
本当の意味で「おっさんが腹を据える」というのは、若い人や子どもがしたい祭をかなえるために、「不断の努力」を常に行うことです。


管理人にはできません(ToT)
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82.ほとけさまの旅の果て(月刊「祭」2018.8)

2018-09-23 09:30:16 | 韓国、外国
ようやく、遅れを取り戻しました。
九月発行の八月号です。
わけあって九月号は先に発行しているので、これで遅れは取り戻せます。
今号は、韓国の霊鷲山通度寺(영축산통도사・ヨンチュクサントンドサ)の伽藍配置についてです。

●上中下に分かれる伽藍
通度寺は上壇、中壇、下壇にその伽藍は分かれています。
それぞれの壇で中心的な仏様(仏舎利)が北側中心に位置し、南側に伽藍が広がっています。これは日本でもよく見られる配置です。




●下壇の伽藍配置
下壇は東西の建物が向かい合っております。
このような配置は日本でも小野市の浄土寺、加古川市の鶴林寺、加西市の酒見寺、一乗寺などに見られます。

↑兵庫県小野市浄土寺東方の薬師堂

↑兵庫県小野市浄土寺西方の浄土堂

↑兵庫県小野市浄土寺西方の浄土堂裏の日の入り
西日を背に受けて御来迎する様子が堂の内部ではあらわされている。


ところが下壇の伽藍配置は日本でよく見られるものとは大きな違いもあります。下壇も北方に中心仏を配置し、南側東西に向かうように、西方極楽浄土の阿弥陀如来と東方瑠璃光浄土の薬師如来を配置しています。しかし、西方極楽浄土阿弥陀如来の極楽宝殿は東に、東方瑠璃光浄土薬師如来の薬師宝殿は西と播州で見られるものとは逆に建っているのです。


↑東に位置し阿弥陀如来がもといた西側をみるように建つ極楽宝殿

↑西に位置し薬師如来がもといた東側をみるように建つ薬師殿

お坊さんに聞いたところ、東方薬師も西方阿弥陀も自らの故郷を、向いているからだそうです。通度寺の山号は霊鷲山でお釈迦さまが説法をされたところだといいます。この通度寺は悟りを開き仏徳を説く行き着いたところを表しているので、自分が来た道をほとけさまが見るという配置になっているのかもしれません。

●上壇の拝殿
上壇の大方廣殿は、実質拝殿のみの建物といえます。御本尊は建物内になく、蔀戸の向こうの仏舎利塔を拝むことになっています。リンク先1分頃



●編集後記
ようやく追いつきました。今年の夏も、韓国に行って来ました。旅行のたびにたくさんの方々にお世話になっております。
本記事は通度寺の僧侶龍潭玄機さまのご厚意により書くことができました。あらためて御礼申し上げます。
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81.祭のイベント化(月刊「祭」2018.7)

2018-09-21 19:40:57 | 屋台、だんじり、太鼓台関連

 

九月二十二日に書く七月号です。
昨今、祭に行くとこんなことを耳にします。
「最近の祭はイベント化されて、ええことない。神さんごととしての祭が忘れられとる。」
確かに、神社や寺の祭が大学や地方自治体の文化祭に近い雰囲気のものが増えてきているように感じます。
ここで、祭のイベント化について考えていきます。


●イベント化はいつから?
祭のイベント化はいつから始まっているのでしょうか。それは、「イベント化」が何を意味するかの定義によっても違ってきそうです。ここでは、「楽しむための集い」と定義してみます。では、祭が宗教行事をこえたイベントと化したのはいつの頃からなのでしょうか?
下の4つのどれでしょう?

1 平成のゆとり教育者が祭を担ってから
2 行きすぎた戦後民主主義の成れの果て。バブル絶頂、崩壊頃から
3 天皇制が崩れ、鎌倉幕府武家ができてから
4 古事記、日本書紀が書かれた時代から

1と2は、日本会議系の方々が好みそうな論調ですが、不正解。古事記、日本書紀を見ると正解は4といえそうです。



古事記、日本書紀には、岩屋戸を締めて隠れてしまった天照大神を呼び出すために、天鈿女命が享楽的な舞を舞い、宴が始まり、天照大神がおびき出されます。
日本の神々は、一神教的な神々と比べて、絶対的なものではなく、より人間味を持った性格を持っています。その神をもてなす「神さんごと」もまた、人を喜ばすのと同じく、享楽的なイベントとなる宿命をもっていたといえるでしょう。

●儒、道、禅そして、基督
一方でイベント化、享楽化を諌める思想の元となったのは、年長者や身分の上の人を尊ぶ儒教だったり、無為自然とか、質素なものを好む道教や禅宗の思想と言えるのかもしれません。
さらに、明治維新を経て基督教も解禁になり、近代国家形成のために欧州の規律正しさを取り入れる中で、より、「厳かさ」が尊ばれるようになったともいえそうです。


●現代の屋台祭のイベント化
神輿の後や先を行く太鼓が「発展」して、屋台が出来たといえます。つまり、屋台とは、祭のイベント化の産物であるともいえますね(^^) しかしながら、「神に見せるために、華やかな衣裳を取り付けて、激しく練るんだ」ということも言えるかもしれません。
ただ、神社以外の場所での享楽的、競技的な練りが繰り広げられ、衣裳もその華美さを競い、大きさを競うというのも、現代の屋台祭のイベント化といえそうです。


三木の屋台のイベント化の特徴は下のものと言えるでしょう。
1 多数練り
ただし、宮入という神事を最優先している傾向はのこっている。

2屋台の新調、改修の頻繁さ
改修の傾向としては、布団じめが太く、座布団が分厚くなる傾向がある。

3 飲み会(^^)
いわずもがなです。直会といえば、神さんごとになります(^^)

●後書きに変えて-イベント化の是非-
煎餅布団(うっすーい座布団のこと)派な私自身の好みとしては、座布団の分厚い屋台、布団じめの太い屋台は好きではありません。ですが、それは、好みの問題であり、華美な屋台だからこそ、若者や子どもが引き継ぐ一面はあるといえます。神事をきちんと行うのであれば、多数の練りもやはり楽しいものだし、どんどんやることに異論はありません。つまり、イベント化自体は悪いことではないと思います。

しかし、屋台全体の金を一部の人のための飲み会に使ったり、個人的な意向で勝手に屋台の形を変えたりというのは、許されることではありません。もちろん、誰かのポケットに入るなんてのは、以ての外です。
このようなことをきちんと守れなければ、若者へのツケが天文学的に増えるだけです。そうなれば、祭はイベント化ではなく、空疎化し、終末を迎えるでしょう。

イベント化が加速するのかブレーキがかかるのはわかりませんが、継続されることを祈るばかりです。

大宮八幡のかつての石段は81段でした。それに合わせて、今の祭の課題を原稿にしました。
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80.台風後の地車祭(月刊「祭」2018.9月特別号)

2018-09-09 19:17:32 | 屋台、だんじり、太鼓台関連
●編集「前」記
途中の月をすっとばしての9月の特別号です。
9月4日、台風21号は、祭どころ泉州にも大きな爪痕を残しました。9月8日現在も一部地域では停電が続き、屋根瓦や看板が飛ばされたり、あるいは住宅としての機能を失った家もあるようです。
そのような中でも、町内会で助け合ったり、困ったことがあったら何でも言うてくださいといって青年団が瓦やゴミを片付ける姿が見られたそうです。また、充電場所やブルーシート、蝋燭などを提供する方もいたりと、そのまとまりの強さが垣間見えたそうです。
そして、来週に祭を控えた岸和田にこだましたのは、あの地車囃子でした。
続きは、皆さんで泉州の祭を見てください(^^)
日程は、「泉州だんじり祭」さまのサイトの祭の日程をご参考に!

●岸和田地車祭の様子
管理人は、岸和田の祭を二十年ぶりくらいに見に行きました。








春木駅前のやり回し

岸和田駅前での疾走

所用により見れたのはわずかな時間でしたが、20年ぶりの地車祭を堪能できました。

●編集後記 -災害復興の象徴としての祭-
今回の岸和田祭は、災害から立ち上がる思いを持って臨まれた方もいらっしゃったようです。
祭は災害なとで打ちひしがれた後でも、人生の希望を捨てない決意表明の場ともなっているのかもしれません。
かつては、三木市大宮八幡宮明石町屋台も、敗戦と水害で打ちひしがれた中、参道を練り歩いたと聞きます。
祭を前にして、また、過去に思いをはせるのもいいかもしれません。
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79.今福北之町 -大阪の祭文化の土台-(月刊「祭」2018.6)

2018-08-01 23:08:28 | 屋台、だんじり、太鼓台関連
●皇太神宮今福北之町
かなり遅れての6月号は、夏の祭巡りでお世話になった今福北之町地車を特集します。

今福北之町地車は今福西之町とともに皇太神宮に宮入りします。

また、同じ祭礼日で近くにある若宮八幡太神宮の地車とも共に巡行したりします。
大阪市で、全国的に有名な祭といえば、天神祭が挙げられるでしょう。
そして。その天神祭の花形ともいえるのは、催太鼓や地車であるのも納得できるでしょう。これらの天神祭の花形、大阪の祭文化の花形を支えているのは、とある町の地車に携わる方々でした。

●鳴り物
今福北之町が名を馳せているのはその鳴り物によるところが大きいようです。練習や勉強会を一年を通して行われているようです。鉦や小さい太鼓から練習を始めるようです。私が見た時は、小学四年生の子が見事に小太鼓を演奏していたのですが、本人にとっては満足いく出来でなかったようです。また、具体的に失敗したところを本人は把握しているなど、自らが、其々に課題を持って練習に取り組んでいる姿が見られました。



●天神祭とのつながり
縁あって平成はじめの天神祭における地車の復活に際し、 今福北之町地車の関係者はその運営の中心的役割を担うようになりました。同時に、その鳴り物の見事さは広く知れ渡るようになり、天神祭の花形の一つとなっています。
祭当日までは、今福北の方が中心となって地車を管理し、宮に置かれた地車の番をします。




地車だけでなく、催太鼓を運営する12の頭屋の内の「ながた」頭屋の中心となっています。「ながた」の頭屋は有力頭屋の一つであり、私がお世話になった方の家には「竹に何色かの和紙を取り付けた合図用の棒」、播州では曽根天満宮で使われている紙手のようなものが、置かれていました。自分たちで作って天神祭に臨むとのことです。



●年長者、若い人、女性、そして子ども
今福北地車は町内会でなく、講所有の地車となっております。大阪の組織であるので、例に漏れず年代を超えて親しげに話す風景が見られました。その一方で、長幼の序は保たれおり、要所要所では年長者の威厳を感じる場面がありました。
その威厳は、「やることをやっている」からこその威厳のように感じます。
だからこそ、真面目一辺倒には見えない出で立ちの若者たちも、年長者に敬意をもってついて行っているように見えました。地車の後方で絶妙な進行方向の調整や、鳴り物を担当します。
女性は地車の引き手や子どもの世話を担当していました。また、休憩所では自分たちを後回しにして、若い男の人たちとともに、飲み物を配ったり、食事の片付けをテキパキとこなしてくれました。夜間曳行などでは盛り上げ役の中心となっていました。
子供達は、若い人たちが一生懸命に働く姿を見て、鳴物の練習や準備を手伝うようになっていました。

●編集後記
皇太神宮の祭を見学しようと訪れた時に、道を尋ねるために法被姿の方に声をかけたのがその出会いとなりました。その場所まで車で連れて祭衣装を着せていただき、だんじりもひかせていただき、食事と飲み物をいただき、家に泊めていただき、銭湯まで連れていただきました。
貴重な機会を賜り、関係者の皆様には厚く御礼申し上げます。





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78.東這田の鯉のぼり(月刊「祭」2018.5)

2018-07-23 19:53:20 | 屋台、だんじり、太鼓台関連
●東這田美坂神社の春まつり
美坂神社の春まつりは「美嚢郡誌」によると四月のはじめに行われていたことがわかります。志染の御坂神社、の三坂神社も四月に行われていました。御坂、三坂、御酒、美坂など、三木市にはいくつかの「みさか」神社がありますが、多くが元々四月に祭があったようです。
四月は灌仏会や花祭などと呼ばれる、お釈迦さまの誕生日が八日にあり、神仏習合時代の影響で四月になっていたのかもしれません。この頃は東這田には屋台はありませんでした。

●東這田の屋台
昭和のはじめに淡路の名工柏木福平らにより屋台が制作されました。彫刻は川原啓秀、縫物は梶内近一と当時では最高峰とも言える技術を結集してその屋台は作られました。その屋根にあるのは、「鯉の滝ぼり」。


祭が旧暦の四月に相当する、新暦の五月に行われることになったことにより、子供の日が近くなりました。「鯉のぼり」が屋根に施されて、それが名物になったのは、新暦と旧暦という新旧文化融合の結果といえるでしょう。

●編集後記
本記事は祭好きな小学生Y君が、東這田の屋台はなぜ、他の屋台のように龍や鯱でないのかという質問から生まれました。Y君のように、興味あることに疑問を持てるのは素晴らしいことだと思います。Y君とその保護者のみなさまにはお礼申し上げます^_^
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77)隠される妙見-日韓七星信仰比較-日本編(月刊「祭」2018.4)

2018-06-17 19:29:21 | 民俗、信仰、文化
今回、北斗七星の記事を書こうと思ったところ、なんと77号でした。この妙見菩薩とはなんぞやをとりあえず説明すると、北斗七星の仏さんといったらいいでしょうか。
密教大辞典などを見ると、そのお姿は剣を持った武者姿だったり、童子や夜叉の姿をした女性だったりします。


近所の妙見さんはどうなっているのか??
実際に確かめるべく、播州や但馬の妙見さんを見にいきました。

養父市八鹿町大屋 元帝釈寺
お先立ちの妙見さんは見せていただけましたが、御本尊は秘仏です。



豊岡市日高町妙見宮


豊岡市日高町野北山神社


豊岡市日高町日高町鶴岡妙光寺 日蓮宗です。


加西市下万願寺町妙見宮


加西市山田町妙見宮


元々妙見さんを祀ってたという、
加古川市志方町志方八幡

加古川市神吉町宮前 神吉八幡
加古川市神吉町宮前 神吉八幡

にも行きました。

でも、そのお姿は、、、
確認することができませんでした。

妙見さんは神仏分離後、神社に組み込まれた場合、日本式の神名を名乗っています。他の神社の神さんと同様、お姿を見ることはできません。寺に残ったものも、秘仏となるものが多いようです。
三木にも本要寺に妙見さんがありますが、お姿を祭の時に見られるのかどうかは分かりません。

日本の七星神?仏?は、隠されることが多いようです。

●編集後記
ようやく4月号、ときは6月半ばです。
隣国では、南北の首脳が手を取り合ったり、米朝首脳会談が開かれたりと、北側との交渉の機会が開かれつつあります。好き嫌いに関わらず、隣国とのコミュニケーションは我が国にも必要なのは明白です。高校まではほぼ英語一辺倒の外国語教育ではお先真っ暗なのは、明らかです。
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76)法相宗興福寺の弘法大師(月刊「祭」2018.3)

2018-06-09 14:54:23 | 民俗、信仰、文化
法相宗総本山興福寺。
国宝や国指定重要文化財でない建物がほとんどないといっても過言ではないでしょう。

東金堂

五重塔、日本で二番目に高い塔だそうです。

三重塔

北円堂

●不動堂の中の弘法大師
しかし、不動堂はそれらには指定されていません。ただ、不動堂の存在は興福寺にとって外せないもののようです。
中を見ると、お不動さんの前に護摩壇があります。そして、向かって右側、お不動さんの左手横にいらっしゃるお坊さん。真言宗の祖、弘法大師空海さんです。

不動堂内部の不動明王と空海像


法相宗の寺に何故?と思われるかも知れません。
ですが、空海さんがいらっしゃる理由はそのお向かいの建物にありました。
その建物は南円堂。

↑南円堂。向かって右側(左近)に藤、右近に橘が植えられている。


不動堂

南円堂は9世紀に藤原冬嗣が父内麻呂の冥福を祈り発願し、空海が助言したと伝わります。
この南円堂創建を顕彰するために不動堂があるとも言えそうです。


●大きな南円堂、縮小された中金堂、再建されなかった西金堂
現在の南円堂は寛保元年、1741年ころ再建されたものだそうです。享保二年、1721年に講堂から出火、南円堂、西金堂、中金堂、南金堂などが焼けてしまいました。
そこから一番に復興したのが南円堂です。西国三十三箇所の九番に指定されていたので、復興は必須だったようです。
一方、興福寺のメインの建物である中金堂はそれから約一生紀後の文政期に縮小して再建されました。そして、西金堂、南金堂は未だに再建されていません。

そして、写真のように南円堂前には左近の藤、右近の橘が植えられています。右近の橘、左近の桜は御所などでは、紫宸殿など中心的な建物の前に植えられます。藤原氏の氏寺である興福寺では桜が藤にかわります。ですが、左右の「近」があるのは金堂ではなく、南円堂であり、江戸期頃より中心的な建造物が南円堂になったと言えるでしょう。


興福寺南円堂左側の左近の藤

興福寺南円堂右側の右近の橘

これらのことから、当時の人々が、西国三十三箇所への信仰や利害関係、弘法大師への信仰や利害関係が大きかったことが分かります。

●そして現在
今回は何が再建されて、何が再建されなかったかから、当時の人々の信仰にせまってみました。
現在中金堂を復元工事中です。現在は宗派の原点回帰、行政の観光資源創造などが重視されているのかもしれません。



●編集後記●
かれこれ通いつめて15年をこえた奈良。
はじめは、とにかく古いものから自分の仮説を立証するものをひたすら探していました。
しかし、時代を下るごとの変容に目をやると、より面白い歴史があることに、マツオタ歴21年目でようやく気づきました。



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