月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

53.法隆寺五重塔あれこれ(月刊「祭」2016.4月)

2016-02-23 22:31:07 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
⚫︎釈迦、イエス、太子
世界最古の木造建築法隆寺の五重塔。

塔の中は、お釈迦様の一生の彫刻がなされています。そして、人々は太子の偉業をお釈迦様のお姿に重ねられたことでしょう。王族でありながら、皇位につかなかったという点でも一致します。
太子はもう一人の王族でありながら皇位につかなかった偉人にも日本書紀においては重ねられています。それはなんとイエス様。というのは、太子の別名は厩戸(うまやどの)で生まれたと言われており、その伝説がイエス様と一致します。太子もまた、王族でありながら皇位につかず新しい宗教をもたらしました。だからこそ、お釈迦様、イエス様、三人とも新しい宗教をもたらしたという面でも一致しています。

参考文献
梅原猛『塔』(集英社)1982

⚫︎法隆寺五重塔の鎌
五重塔の上部に目をやると、鎌が屋根の上に取り付けられているのがわかります。


これは何を意味するのでしょうか。
このヒントは法隆寺の西南・裏鬼門の守護神社といわれる龍田神社にあります。龍田神社の祭神である龍田大明神は龍田大社から呼び寄せたと伝わります。


龍田大社では風鎮大祭と呼ばれる、風の神様を慰撫する祭が行われます。
吉野裕子氏によると、このような風をおさめる祭では、陰陽五行の木気にあたる風をおさめるために、木を切りたおせる金気の鎌や白い(金気の色)紙を用いられるといいます。龍田大社でも風鎮大祭時には、真剣での舞が奉納されます。これも金気・金属の気によって木気の風を駆逐するためなのかもしれません。
それを表すかのように、龍田神社、龍田大社の神紋は「木」気の「風」で「楓」となります。


また、龍田の龍も十二支の辰や四神の青龍も東側の木気に位置します。

そんな龍田に守られた法隆寺。そこの五重塔の塔の鎌は、風がよく当たる屋根の上で外に向けられています。それは、木気の風を切り倒壊から守る風切り鎌と言えるのではないでしょうか。

参考文献 吉野裕子「陰陽五行思想と日本の祭」(人文書院)1977

⚫︎編集後記
法隆寺やその周辺を思いのままに自転車で駆け巡り、若い頃に戻れた気がしました。我々おっさん世代にもそれぞれ若い頃がありました。
そして、今もかけがえのない時間を過ごしている若い祭当事者や祭オタクがいます。未来のある彼ら(彼女ら)と同じ時間を過ごすのは楽しくもあり、羨ましいとも思ってしまいます。そして、自分が二度とあの頃には戻れないことも痛感します。
間違えたことがあれば、彼らを注意して導くのは年長者のつとめです。ですが、羨望からなのか、それを大義名分にして、その芽を摘み取ろうとする行為や発言が、自分の身の回りで目につきます。そして、同じようなことを自分もしているのかもしれません。それは分かりませんが、一つだけわかることがあります。

若い彼らを踏みつけこき下ろしたところで、彼らが下げられた分自分が高いところに行ったように見えるだけだということです。踏みつけた勢いによって、自分の身をさらに下に持っていくことでしょう。


52.法隆寺と道真(月刊「祭」2016.3月)

2016-02-18 22:40:05 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-

 天神(菅原道真・以下道真)さんとお太子(聖徳太子・以下太子)さん。日本史上でも優れた学者さんであり、政治家として尊敬されています。
 しかし、道真は、無実の罪を着せられ太宰府に流されたことにより、怨霊となり都に祟りを起こし続けたといわれています。正暦四(993)年には死した道真に大して生前の右大臣よりも位の高い、太政大臣の地位を与えていることからも、その祟りへの恐れが伺えます。

 太子もまた、その死後、子孫を根絶やしにされたことによる怨念を持ち続け、それを封じるためのしかけが法隆寺に残されています。。。。。
 という話にする予定だったのですが、本ブログの生命線・ウィキペディアによると、法隆寺による聖徳太子怨霊調伏説は悉く否定されているそうな。
 たとえば、「秘仏であり、太子の分身ともとれる救世観音。その後光を、釘で後頭部に打ち付ける手法が、怨霊封じの目的によるもの」という説。
 釘だと思われたものは、部材の一部で、同様の仏像が法隆寺にはいくつかあることにより反論されているそうです。
 
 太子の子孫はのこることがなかったことを考えると、太子の怨霊はまだまだ考える余地がありそうですが、今回は考えないことにします。太子の怨霊調伏の意図のあるなしにかかわらず、法隆寺が太子を象徴する寺院であることには異論をはさむことができません。その太子の威徳に惹かれるかのように、後世には学者である道真の信仰が伴ってくるようです。

●法隆寺横の斑鳩神社
 毎年、十月体育の日、この神社には太鼓台が宮入りします。ここの祭神は菅原道真です。なんと、ここの太鼓台は法隆寺の境内を通ります。
 この神社の由来を見てみましょう。その創始は天慶年間に法隆寺管主である菅原氏の湛照が創始したと伝わります。天慶といえば、将門の乱が起きたときであり、その将門の乱のおり、道真が将門に新皇の位記を渡したと「将門記」では伝わっています。つまり、天慶の乱もまた、道真の怨霊により起こされたと当時の人が信じていたことは伺えそうです。
 斑鳩神社の創始が本当に菅原氏の湛照よってなされたかは分かりません。が、祟りを持った道真を太子の威徳により慰撫した、もしくは慰撫したと信じられていたことを、この伝説と神社はかたっています。


 
⚫︎講堂への落雷 現在の講堂は10世紀末の再建です。このころは、道真の怨霊が猛威を振るい、再び官位に戻した頃と重なります。
 
そして、落雷により全焼したのは延長三(925)年、この年、道真を排斥した藤原時平、その外戚であり天皇候補である幼い慶頼王が夭折しました。周囲は道真の祟りでもちきりになります。その後、前述の戦乱や疫病の流行を受けての再建であると考えると、祟り鎮めの再建かとも考えたくなります。
 
⚫︎十一面観音悔過と夢殿お水取り 嘉禎四年(1238)頃に撰述されたといわれる「聖徳太子伝私記」にこの儀式が記されており、このとき辺りからの儀式と思われます。一月十六日から三日間の儀式で読経などが行われます。
 
その四日前にはおそらく、夢殿のお水取りと呼ばれる儀式が行われます。内陣正面の礼盤を外に出し裏側を日光に当てる。しばらくすると自然に水分を帯びる。その多少によりその年の雨量などを占うと言います。これもまた中世頃からの儀式と言われています。
 
本場の東大寺のお水取りが、十一面観音が本尊の三月堂で行われることを考えると、これもまた十一面観音の儀式とうけとることもできるかもしれません。
 
十一面観音は天神・道真の本地仏とされており、当時の天神信仰の隆盛の影響を受けたものかもしれません。聖徳太子が眠るとされる夢殿にこそ、同じく名宰相の道真を祀ることに意味があると考えたからかもしれません。
 
大いに参考にした文献 高田良信「法隆寺の四季 -行事と儀式-」(小学館)1992
 
⚫︎編集後記 管理人の祭行脚が本格化するのがこの法隆寺を訪れたあとでした。梅原猛氏の聖徳太子怨霊説と法隆寺を練り歩く太鼓台に惹かれて、右も左もわからぬまま訪れました。そして、そこで立ち寄った書店で祇園祭の書籍を購入。その本がきっかけで祭行脚人生が始まりました。
 
そのきっかけをくださったのは、19年前親切にしてくださった現地の祭関係者の方のおかげです。この記事作成にあたり、あらためて法隆寺周辺をレンタル自転車に乗って巡りました。何か若いころに戻れた気がした1日でした。
 
しかし、その法隆寺には何も触れることができぬまま19年経ちました。少しずつですが、この寺のことも取り上げていきたいと思っています。
 
現地を巡ると高市早苗さんのポスターが貼ってありました。為政者にとって、うるさい奴を黙らせたいというのは、時代の古今、洋の東西、政治の左右を問わない、偽らざる本音でしょう。電波停止発言はその本音を出してしまった発言と言えるかもしれません。 自らの権力を磐石にせんとして菅原道真を排斥した藤原時平。ポスターで微笑む彼女の後ろに時平が重なって見えた気がしました。