KISSYのひとりごと

日々感じたこと、ドライブ日記やDVDのレビューなど…徒然なるままに綴っています。

仰げば尊し(その2)

2016-09-08 23:05:24 | 野庭高校&野庭中学校

 TBS日曜劇場の「仰げば尊し」も来週で最終回です。自分が卒業した高校がモデルとなっていること、ロケ地も母校を使ってくれているということで、楽しく拝見いたしました^^

 毎回映し出される校内の映像は懐かしいものばかりでした(校内のロケも母校ではないというところもありましたがw)。

 今日は第6回目をみたのですが、校舎南側で草刈をしている吹奏楽部員の姿に感動!! 卒業生なら分かるとおもうんですが、ここって体育の時間に集合したとこだよね?

 ここから階段下りてグランドに行く前に準備運動をやったっけw

 そのグラウンドは数年前はこんな感じだった(;;)

 おそらくドラマの撮影中もグラウンドの状況はほとんど変わっていないのだろうなぁ。

 ちなみに「高校」だったころの野庭高校はこんな感じです(○数字は前の日記→こちらで使用した数字です)。当然、私の在学中はグラウンドが「草ぼうぼう」なんてことはありませんでしたww

 

 


仰げば尊し

2016-08-09 05:41:17 | 野庭高校&野庭中学校

 TBS日曜劇場で放送中の「仰げば尊し」を今更ながらに視聴しました。

 このドラマが始まるときに、私の母校の吹奏楽部がモデルになっていることは聞いていたのですが、「ROOKIES」のような不良の更生物語だったら嫌だなぁと思いスルーしていました。それでも「観てみよう」と思ったのは、Oさんからいただいたコメントです。なんと母校がロケ地になっている!!とのこと。 ストーリーよりもそっちのほうが気にかかります。

 いろいろと検索していると、現在契約している動画サイト(U-Next)で見られるじゃないですか。先月は有料配信の動画を見ていないのでポイントがたまっている^^ ということで、さっそく観てみました~。

 このドラマの舞台となった野庭高校って、いまから14年前に高校統廃合で歴史を閉じてしまったのです。私が3年間通った校舎は、、「財団法人かながわ考古学財団 野庭出土品整理室」として第二の人生を歩んでいます。その校舎が、ドラマとはいえ高校の校舎として蘇っていることに感激しました。しかもドラマのロケをやるというためでしょうか、カメラにうつる部分は綺麗になっている!!!。 もっとも細かい部分は、「あ~手入れされていないんだなぁ」と思うようなところもありましたが・・・

 さて、わが母校がどれだけ綺麗になったかというと・・・

 これが6年前に母校を訪れたときに撮ったもの。私が撮影した日は曇りだったということもあるのですがw、6年前はもはや「廃墟」寸前(;;) カーテンは破れてるし生活感のないことといったらww

 それがドラマでは、こんなに綺麗になりました^^

(TBS「仰げば尊し」より)

 正門や昇降口前の階段やスロープ、自転車置き場など、懐かしい場所が時々出てくるのでOBとしては嬉しい限り^^ 屋上は在学中に行ったことがないですが、ここも野庭高やん^^ できればフェンスの錆びは塗装して欲しかったですけどね^^;

 体育館は野庭高じゃないですね。入り口のところに「中2階」がないですから。今は倉庫にでもなっていて使えなかったのでしょうか?

 体育館と言えば、私が高校2年のときにロス五輪があったのですが、体操の金メダリストの具志堅選手が体育館で演技披露と講演会をやってくださったことが思い出されます。

 それでも校舎内も野庭高で撮影したと思われる場面が出てきますね~。懐かしい^^

 もうドラマの本筋よりも、「ここってどこだ?」とロケ地のほうに関心が向いてしまいます^^  個人的にはネクタイの色は緑にしていただけるとありがたかったんですがwww

 で、拍手を送りたいのが、音楽室の位置。音楽室の中はセットなのでしょうが、外から音楽室をみるシーンが捉えていたのは、まさに音楽室じゃないですか!!! そこまでこだわるなら音楽室内部もセットではなくロケなのかなぁ??

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横浜スタジアム~横浜港~みなとみらい

2016-04-13 00:46:12 | ぶらり旅

 二十数年ぶりの「ハマスタ観戦」は、見事に惨敗!! チケットをとってくれた父のはからいで、「横浜見物」をしてきました。横浜生まれの横浜育ち、いわゆる「ハマっ子」の私ですが、浦島太郎状態。

「みなとみらい」の中にある某所でみつけた大ポスター。これ、欲しいなぁ~w

 ハマスタから日本大通に出て横浜港へ。「あれ?県庁ってこんなところにあったけ?」「あれは税関だよね?」などと、小学生の社会科見学のノリ。しかし、あそこまで行って、なぜ「三塔」の写真をとってこなかったのだろう(;;)

 横浜港周辺には、神奈川県庁、横浜税関、開港記念会館があるのですが、それぞれ尖塔があって「キング」「クィーン」「ジャック」の名で親しまれています。これが「三塔」ですね。この「三塔」を同時に見れる場所が何ヶ所かあるらしく、その場所から「三塔をみた人は幸せになれる」なんて都市伝説もあるようです。

 で、久しぶりの横浜港。先日の直江津港でも感じたのですが、海をみると心が落ち着きます。

 大さん橋は、高校生のころ、ソ連のナホトカとの定期便が寄港するときは友人と自転車で船をみにきていましたが、大さん橋も当時の面影はないですね~。まったく知らないところへ行くなら別ですが、子どものころの記憶が残っている場所を訪れると、当時の面影が残っていないのは、やはり寂しい。

およそ三十年ぶりくらいの大さん橋

 ここまでは、子どものころの記憶と整合させることができたのですが、それすらできない「未知の世界」が「みなとみらい」に続く道・・・。もう子どもの頃の記憶なんてあったもんじゃない。

「赤レンガ」倉庫。いかにも観光名所というたたずまいになってしまったのが寂しい。

「みなとみらい」の大観覧車。さて問題。これが一周するのには何分かかるでしょうw

 ざっと見た感じですが、てっぺんから「3時の方向」までゴンドラが16個あるので、ゴンドラとゴンドラの間隔は90度割る÷15=6度。あとは、この6度をどれくらいの時間で移動しているかがわかればいいんですが、目算で15~20秒くらい?? 一周するためには、この60倍の時間がかかるから(360度÷6度=60なので)、15秒なら15×60=900秒(15分)、20秒なら20×60=1200秒(20分)。 いちおうカタログ・データだと15分らしいので、算数で教わったことが十分、通用しますね。

 


2016年ハマスタ初観戦は「トラの餌食」に・・・

2016-04-12 01:10:30 | 日記・雑感

 二十数年ぶりの横浜スタジアム。「トラの餌食」となった試合でしたが、せっかくだから日記を書こうと思ったところ、デジカメで使用していたSDカードが開けない。PCからカメラに戻して有線で取り込もうとしても「カードが挿入されていません」のメッセージ・・・。1週間試行錯誤をして、ようやく「救出」完了。

 すでに一週間以上前の試合ですが、父が球場全体を見渡せるよいシートを買ってくれたので、写真だけでもアップしておこうかな。ゲームそのものだけでなく「野手がどのように動くか」なんていうテレビではなかなか見ることができない、コアな楽しみ方も堪能できました。

父が買ってくれたのはバックネット。最高のロケーションです。

 それにしても、「虎好き」さんはすごいですねぇ~。「甲子園球場にきたような」盛り上がり・・・。いや、甲子園だとこの数倍の盛り上がりになるんだろうなぁ~。何回「六甲おろし」の大合唱を聞かされたことか(笑)。

 

左のほうをみると・・・黄色一色www

ラッキーセブンでのタイガースファンのお決まりのイベント
見づらいですが、黄色い風船が舞っています

ベイも負けずにw

 ゲームのほうは初回にゴメスの3ランで先制されたものの、ベイ先発の石田も中盤まで要所をしめるナイス・ピッチング。一方、打線のほうは、立ち上がりに苦しんでいる藤川をなかなか攻略できないまま終盤へ。まぁ、こんな日もあるさ。というか、こういう日ばっかりだな(泣)

 しかし若い選手が多いのがベイスターズ。毎年、選手を覚えるのが大変なくらい(大袈裟かw)新しい選手がどんどん出てきます。こういう選手たちが活躍できるのもベイスターズの魅力の一つです。

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横浜スタジアムへの「出陣」準備完了

2016-03-23 21:40:06 | 日記・雑感

 これまで野球観戦をしたいとずっと思っていたのですが、なかなかその目的を果たせずにいました。もちろん、プロ野球でなくてもよいのですが、高校野球でも広い長野県ではなかなか長野市で開催されるゲームがなくて・・・。

 高校野球で言うと、母校をのぞけば、一番の贔屓チームは横浜商業高校。横浜市民には「Y高」の愛称で親しまれている学校です。最近は甲子園にもご無沙汰なのですが、中学校時代の友人が甲子園でプレイしていたので、いまでも好きなチームです

 さて、日本の「プロ野球」は、毎年のように長野市でも開催されています。ご贔屓の横浜ベイスターズもなんども来てくれたのですが、一人で行くのは結構勇気がいる。そこで、今年は父にお願いして横浜スタジアムのチケットをとってもらいました。

 横浜スタジアムに足を運ぶのは何年ぶりになるのだろう?? 当時の横浜大洋の試合の記憶よりも、高校3年の夏に優勝候補の一角だった藤嶺藤沢に勝った母校の勝利が鮮明に残っています。次の試合は東京六大学でも活躍した志村投手を擁する桐蔭学園。こちらも応援にいきましたが、志村投手の出番を待つこともなく完敗してしまいました。もしかすると、この試合以後、横浜スタジアムに足を運んだことはないのかもしれない。

 おそらく30年ぶりくらいの横浜スタジアム行きのために、少し奮発して「グラウンドコート」を購入。いちおう「L」サイズを注文しましたが・・・。実際に着てみると「ピチピチ」(泣)。痩せ型の私ですが、ダイエットが必要なのかもしれません。

 

 


ハングル語? それとも朝鮮語?

2016-03-21 19:48:14 | 日記・雑感

 4月からの「受講」のためにテキストを購入しました。いちおう週5回のラジオ放送と、週1回のテレビ放送分をそろえましたが、どちらも「ハングル講座」。でも、「ハングル」って「한글」のような文字をあらわすのであって言語そのものをあらわしたものではありません」。それなのに、どうして「朝鮮語」と言わないのだろうか??。

 さて、ここから回想シーンw

 一般に大学へ通うと英語のほかに、外国語を学ばなければいけません。私はドイツ語を学びました。これがいわゆる「第二外国語」ですね。

 ここから、ちょっと自慢ですがw ベートーヴェンの「第九」はドイツ語で歌えますよ^^ 

 さて、私が学んだ信州大学は、私の入学時の「第二外国語」はドイツ語のほか、フランス語、ロシア語、中国語のいずれかを選択することになっていました。

 偶然なのかどうかはわかりませんが、信州大学って面白い(そうなのかなぁ^^;)ところで、私が入学して以後、「第二外国語」が2つ増えました。韓国語とスペイン語です。

 ソウル五輪(1998年)の前年に履修できるようになったのが韓国語。バルセロナ五輪(1992年)の前に履修可能になったのがスペイン語。当時、学生の間では「もっとマイナーな地域でオリンピックが開ければ面白いよね」などと冗談交じりで話していたことを思い出します(個人的には「朝鮮語」と言うべきだと思うのですが、信州大学の科目が「韓国語」だったので、それにならって表記しています)。

 そこで、一つの疑問が。たとえば、ドイツで話されている言語なら「ドイツ語」、フランスなら「フランス語」・・・これは当たり前ですよね。現在の独立国でも、一つの国で異なる言語を使用している国も少なくありません。たとえばカナダ。カナダでは英語とフランス語の両方が公用語となっています。 

 ところが、朝鮮半島の言語をみてみると、「朝鮮語」よりも「ハングル語」というほうが日本では一般的なような気がします。私が購入したテキストも「ハングル講座」ですから・・・。この講座(とくにテレビ版)では文字の読み書きよりも会話ができることを目的にしているようですから、「朝鮮語講座」とよぶべきなんだろうなぁ~と思ってしまいます。

 これは言語学と同時に歴史学にも関わってきそうな分野なので、今後の宿題ですね。そうは言っても、宿題の期限は、多く見てもあと30年くらいしかないのか(;;)

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中途半端な長野駅の道案内

2016-03-18 01:21:27 | 日記・雑感

 今日では当たり前のように歩道や駅のホームにに設置されている「点字ブロック」。この点字ブロックを世界で初めて施設したのは日本です。岡山県内の国道250号に設置されたのが「点字ブロック第1号」。設置された日(1967年3月18日)にちなんで、この日が「点字ブロックの日」とされたそうです。

 さて、外国人も含め毎年、多くの観光客が訪れる観光地・長野。その玄関口のひとつであるJR長野駅にも、当然のように点字ブロックが施設されています。これは、どこの駅でも目にする光景ですが、長野駅には音声で道案内をしてくれる案内板が設置されています。

 観光地の玄関口の駅などでは、行きたい場所のボタンを押すと目的地が点灯するというような案内板がありますが、長野駅に設置されているのは、行きたい場所のボタンを押すと音声で道案内をしてくれるという優れもの。しかも点字ブロックで何個目の交差点を左に曲がる・・・などと、事細かに案内をしてくれます。

 ミーハーな私は、まわりに人がいないことをいいことに、ボタンを押しまくってみました。「うーん、これは分かりやすいよね!!」と思ったのもつかの間、この案内板の致命的欠陥を見つけてしまいました。

 たとえば案内板の一番左上のボタンを押すと交番までの道順を案内してくれます。「後ろに下がって、最初の交差を右に行って・・・」と音声にしたがって周りをみまわすと、たしかに交番があります。ところが、実際に「交番に行きたい」と思っても、この案内板は使えないのです。なぜなら、案内板に点字がついていないから・・・。

 周りの人にボタンを押してもらうシステムなのかなぁとも思いましたが、それならこんな案内板つくる意味もないし・・・。

 ちなみに、この写真を撮影したのは今年の1月30日ですが、いまは変わっているのでしょうかね?

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プロジェクトX 「日本初のマイカー てんとう虫 町を行く~家族たちの自動車革命~」

2016-03-17 02:34:08 | 教養・ドキュメンタリー

 昨日に続きNHK「プロジェクトX~挑戦者たち~」のレビューです。

 今日紹介するのは2001年5月8日放送の「日本初のマイカー てんとう虫 町を行く~家族たちの自動車革命~」です。日本国民にとって手の届かない存在だったクルマを、「庶民の足」にするために奮闘した技術者の物語です。

 クルマは今日ではもっとも身近な移動手段のひとつですが、戦後の日本では庶民にとっては高嶺の花。当時、米国メーカーの高価なクルマが市場を席巻していたようです。その価格は「一戸建ての家より高かった」といいます。戦後初の国産自動車「クラウン」(トヨタ自動車)でも、サラリーマンの年収の5倍だったというから、いかに「高嶺の花」だったのかがわかります。

 そんなクルマを庶民の手に届く存在にした技術者たちを描いたのがこの番組です。「小型で軽く、しかも4人乗り」の大衆車をつくる」・・・当時としては不可能ともいえる高いハードルでした。立ち上がったプロジェクト・チームが目標としたのは

 ・「価格はクラウンの3分の1」

 ・「悪路を時速60kmで走る」

 ・「どんな坂道でも登れる」

 ・・・の3点だったといいます。

 この課題をクリアしてしまった技術者の執念には頭が下がるのですが、番組を見る限り「安全」という概念がどこにも見られなかったのが残念です。番組では、設計の段階から、「軽量化」についてはさまざまな試行錯誤が行なわれたことは紹介しれますが、乗員の安全性については、「厚さ0.6mmの鋼板の強度をいかに強くするか」というエピソードだけ。1980年代まで「安全」を度外視していた米自動車産業界は別にして、ヨーロッパでは当時でも安全性を高めるための研究と同時に実用も進んでいました。スバル360にそれらの知識がどのように体現されたのか、もしくはそれらは無視したのかが描かれていなかったのが残念でした。

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プロジェクトX 「富士山レーダー」

2016-03-16 02:05:42 | 教養・ドキュメンタリー

 「プロジェクトX」は、NHKが2000年3月28日から2005年12月28日まで放送していたドキュメンタリー番組。動画配信サイトの「Gyao!」が新しいサービスを開始するということで、期間限定で「プロジェクトX」のなかから数本を無料配信しています。

 「富士山レーダー」はその中の一本。「プロジェクトX」としては記念すべき第一回放送なのですが、「Gyao!」で配信されているのは、「特選 プロジェクトX〜挑戦者たち〜」として後年、放送されたもの。「膳場貴子アナ推し」の私としては、こっちのほうで良かったかなと^^ いや~膳場アナ若いですねぇ~。

 この「富士山レーダー」の回は、富士山頂に気象レーダーを建設する男たちが描かれています。いまではテレビの天気予報では気象衛星からの画像が取り上げられるのが当たり前ですが、私が子どもの頃は、まだ「富士山レーダー」の画像でした。毎日のように見る天気予報なのですが、いつから「富士山レーダー」から気象衛星に変わったのだろう・・・。

 番組によると平成11年11月に運用を停止したとのこと。以外と最近まで使われていたのですね。実際に使用されていたのは35年間だそうです(番組より)。

 で、この番組の良いところは、この「富士山レーダー」の回ももちろんなのですが、携わった「人」に焦点を当てていることです。今回も実際に「富士山レーダー」の建設に携わった方が番組に登場されています。もちろん亡くなった方はご遺族の「証言」という形で登場することが多いのですが、今回は、番組のなかでも何度も当時の写真で登場していながら、現在のご本人だけでなくご遺族のインタビューすら流されない方がいらっしゃいました。当時の気象計測器課長をつとめた藤原寛人氏です。番組を見ながら「どこかで、見たことがある」と思っていたのですが、作家の新田次郎でした。番組終盤までこういう「ネタ」を隠すやり方は、個人的に大好きですねぇ^^ 

 新田次郎は、この「富士山レーダー」が完成した2年後に気象庁を退職し、作家になったとのこと。新田次郎と言うと、日露戦争を前にして陸軍が行なった雪中行軍訓練を描いた「八甲田山」が思い出されます。私は映画化された作品しかみていませんが、人物に焦点をあてた作品という点では「プロジェクトX」に通ずるところがあるなと感じさせられる作品です。

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一九二八年三月十五日

2016-03-13 11:44:04 | 日記・雑感

 「この日」が近づくと読みたくなる小説があります。小林多喜二の「一九二八年三月十五日」です。「この日」に何があったのかということを、あらためて思い返すと同時に、読んでいるときの気分や自分が置かれている環境によって受け取り方が異なるので、お気に入りの一冊です。

 多喜二がこの作品で描いた1928年3月15日は「共産主義者への大日本帝国政府による弾圧事件」が起こった日」(Wikipedia)です。いわゆる「三・一五事件」ですね。罪状は治安維持法違反ですから、弾圧の対象は「共産主義者」にとどまりません。「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者」が弾圧の対象となりました。簡単に言ってしまうと、「主権在民」を主張しただけでも弾圧の対象になった・・・そういう時代だったのです。

 この小説を最初に読んだときには、天皇制「権力」が、いかに野蛮な暴力を行っていたかというところにしか目がいかなかったのですが、それにとどまらない多喜二のメッセージがこめられていると感じます。

 そのなかでも私が一番好きなのは、ほんの数行しか描かれていない場面です。検挙された活動家の龍吉と巡査の水戸部が会話をするというところなのですが、このシーンが何度読んでも「グっ」ときてしまいます。龍吉たちにとって巡査は、言ってみれば「敵」です。ところが多喜二はこの場面で、水戸部に語らせるという形で「官憲」が置かれている状態を告発します。「敵」どころか、ともにたたかうことができる「仲間」だという目線なのです。

 もちろん、多喜二が生きた時代と今日では社会の様相がまったく違っていますから、多喜二の目線を「物差し」にするのことはできませんが、いま生きている社会をどのように見るのかという洞察力と社会観には学ぶところが大きいと感じる作品です。

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