90年代、ぼくが思想家として活動を始めたときに、
時代はすでにポストモダンから、
いわゆるカルチュラル・スタディーズや
ポストコロニアルなど、
左翼的な、きわめて政治性の高いものに移っていた。
そこでぼくが見たものは、
ぼくの直接の指導教官が高橋哲哉氏だった
ということも大きいのですが、
「倫理」の圧倒的なインフレだったんですよね。
たとえば高橋氏は
「無限の他者に対して無限に謝るべきだ」
ということをおっしゃっていたわけですが、
では「無限に謝る」とはいったい何か。
ぼくは当時すでにデリダを研究していましたが、
デリダはたとえば「エクリチュール」を問題にするときに、
同時に「ペンが尽きる」「紙が尽きる」などと
唯物論的な条件も重視していた。
もしかして高橋さんはこの部分を軽視していないか?
と思ったんですよね。
たしかに論理で詰めていけば
「無限に謝る」ということになるのかも知れないけど、
結局はそれを支えている物質的条件があり、
無限には謝れないわけですよね。
われわれは有限な存在であって、
その限界を抱えながら
社会をつくっていかなくてはならないし、
倫理をつくっていかなくてはいけないという、
まあ、当たり前の話です。
「一般意志2.0」を現在にインストールすることは可能か?(1)
東浩紀× 荻上チキ http://t.co/Vpj21Hqp