ひからびろ 3.0

密かに輝くラクダとビロード、ロバ。お願いだから、ひからびてほしい。

『アルテス』読んで思ったことひとくさり。

2012-01-23 | 音楽


季刊『アルテスVol.1/2011 WINTER』
ようやっと入手して、読んでます。

「たっぷり紙幅をとって
質の高い評論や批評、研究を書いてもらえる
メディアを作りたい」という
木村さん、鈴木さん等の思いもあってか、
非常におもしろい内容になってる。

特に片山杜秀の3.11と12.8に関する論考、
高橋悠治へのインタビューは
強力な磁場を発生させてて、
思わず吸い寄せられてしまう。
(こんな表現はあまりしたくないけど。。。)



*****

芸術というのは、
僕の独特の言い方なんですけど、
基本的には「奉納」なんですよね。
神に捧げるものなんです。
音楽でいえば、「聴衆」というのは
基本的にはそれに立ち会う人
であるわけです。
クラシックのベートーヴェンのコンサートで、
ピアノを弾いている人は
基本的に僕ら聴衆に向けているんじゃなくて、
それはプレイヤーが神に奉納しているのです。

(討論:岡田暁生×三輪眞弘×吉岡洋「3.11 芸術の運命」より)

*****


三輪眞弘の発言。
その場に居合わせる」ということが芸術なんだと。

「奉納」とか「神」とか、
宗教っぽい単語を持ち出すから
ビックリする人もいるかもしれないけど、
たぶん美輪さんは、たまたま自分の考えを説明するのに
こういった言葉を利用したに過ぎないと思う。
(美輪さんの口にする「奉納」という言葉には
少し笑いを含んだ感じがある気がする)

というのは、
高橋悠治がインタビューの中で、
違う文脈ではあるんだけど、
これに通ずるような発言をしていたから。

*****

練習というのは"practice"、「実践」でしょ。
それは一回限りということですよ。
反復練習というのは近代以降のものなんです。
「本番は練習のように」ということは、
家でやるようにくつろいでやるということです。
ステージがあってそこから見下ろしてメッセージを出すんじゃなくて、
自分で好きなことをやってそれを見にくる人がいる
ということです。

(高橋悠治「問いかけながら道をいく」より)

*****


まるで求道者みたいな態度だけど、
この、
客はその場に居合わせるだけ、見てるだけ
という考え方は、
吉岡さんが論考の中で
芸術は非在の者たちに向けられている
という一文にも通じている。

つまり、芸術家にとっては、
目の前にどんな人間がいるかなんて、
問題じゃないんだ、
芸術家が問題にするのは、
すでに死んでしまった人、
そしてまだ生まれていない人
なんだ、
ということだ。

それを呼び表すのに、
美輪さんは「」という言葉を使い、
高橋さんは「好きなことをやる」という風に言うわけだ。
(その意味で高橋さんは「神」を内面化してると言えるかも?)

そして吉岡さんは「非在の者」と言い表す。



それぞれが違う名前の付け方をするのは、
彼らが違う「物語」の上に乗っかって話をするから。
芸術家」というものに付随する物語を、
彼らは変奏している(ように見える)。

この雑誌を全体的に見ておもしろいと思ったのは、
その中にあって、岡田暁生だけが
この「物語」自体の刷新を提案してるように思われたことだ。

それはつまり、
不条理に耐えてなお、
その中で生きることを肯定する

そういう価値観を乗せるための
乗り物としての「物語」だ。

もちろん美輪さん、高橋さん、吉岡さんが、
「頑張ればなんとかなる」的な物語に回収されてて、
岡田さんだけがオールオッケーなんだとか、
そういうわけじゃない。
ただ個人的に、この現代にあって、
あえて「新しい物語」を希求する、
岡田さんの言葉が印象的だったということだ。




次号は三月発売予定、
特集「Appleと音楽」(仮)とのことです。
ジョブズとヒッピー文化とクリシュナムルティ、
果てはシュタイナーまで話が行き着いてくれたら、
個人的には嬉しかったり。。。

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